読まれやすくわかりやすい文章を書くことについて


 SNSでつぶやいたりブログに日記を書いたりするということの特徴は、その文章が個人的なものであるとともに他人に共有するものでもあることだ。鍵アカでつぶやいたり非公開の日記に書いたりするのでなければ、必然的に自分以外の他人にもその文章が見られることになるし、場合によってはシェアされて拡散する。

 このことは良し悪しだ。誰もが自分の思ったことを書いたり自分の意見を発信できることは、基本的には良いことだろう。また、自分の文章を他人に読んでもらうことの充実感や拡散されることの爽快感が、文章を書き続けるモチベーションとなる。しかし、「他人の目」を常に意識しながら文章を書くことは、「自分の言葉」を失うことにつながりかねない。やがては自分の内面にある思いや考えすらも他人の目に振り回されることになってしまう。


 そもそも、文章を書くということは再構築の作業ではある。自分だけに見せるための文章であっても、自分の頭や心のなかでモヤモヤドロドロしている自分の考えや自分の思いを文章にして「形」を与えるためには、何を重視して何を無視するかという取捨選択が必要となる。日記を書いていてもその日24時間に起きた全ての物事を書き記すことはできないし、お昼の出来事は5行かけて記述するが夜の出来事は1行で済ませる、という風になるものなのだ。また、どんなことが印象に残ったりどんなことを忘れてしまうかということは、本人の意志では左右できない。意識的にコントロールできる要素だけでなく無意識的な要素も関わってくる。

 だから、文章を書くということは、大きな岩の塊をノミで削っていって彫刻を作る行為に近い。よく言われることだが、彫刻の完成形は彫刻家が頭の中に描いていたものに予定通りになることはなく、そもそも岩の塊のなかには削られる前から「形」が内在していて、彫刻の完成形もそれに引っ張られる(むしろ、自分の思い通りの彫刻を作ろうとするのではなく岩に内在する「形」を最適に引き出そうとする彫刻家の方が格上だとみなされる)。文章の場合には、元となる出来事やテーマとそれに対する自分の思いや考えの全てが丸々ひっくるめて「岩」にあたり、ノミで削る代わりに言葉にして書くことで形を与えて完成形を目指していくのだが、やはりそこには自分の意志だけでは思い通りにならない要素が存在する。自分の思っていたことや考えていたことを表現するつもりで書き始めたつもりが、書き終わった後には「自分はこんなことを考えたりこんなことを思ったりしていたんだ」と改めて驚かされることもよくあるものだ。それは単に表現力の不足が原因かもしれないが、それだけではなく、「自分の内側にある思いや考え」と「それを外側に出して形を与えて文章にしたもの」との間では必然的にズレが生じるものだし、また自分の内側にある思いや考えの方が外側に出した文章に影響されて再形成されていくという側面もある。そういう相互作用が生じることが文章を書くことの意義ではあるし、また楽しみでもある。

 わたしは高校生の頃には日記を毎日付けていた。字が汚いので日記帳に書いても読み返すことができないから、実家のMacのパソコンにデフォルトで入っていたワードファイルの機能を使って書いていたのである。もちろん日記なので他人に見せるものではないし「見るな」と家族には伝えていたが、過干渉気味である母親はしばしば勝手にわたしの日記を読んでいた(かなり不愉快であった)。そして「毎日毎日なにを食べたとかどんな授業を受けたとかばかりで内容のない日記だね」と呆れられていたのである。そのうちにパソコンを交換したときに過去のパソコンで書いていたワードファイルの内容が全て読み込めなくなるという不具合が起きてしまい、3年間書いてきた日記は全て読むことが不可能になってしまった。

 しかし、(原則的には)自分だけにしか見せない文章をコツコツと3年間書いてきたことは良い経験になった。何よりも「文章を書く」という行為自体に慣れることができる。「書くということはこういうことなんだ」という概念的な理解が得られるだけでなく、タイピングが早くなったりしばらく書き続けていても疲れなくなったりするなどの物理的なトレーニング効果も得られたからだ。そして、他人に対して見せるつもりがない自分用の文章を書き続けたことで、わたしのなかでは「書く」という行為が外向的な行為ではなく内向的な行為であると位置付けされることになった。後にはブログなどで他人に対して見せることを目的とした外向的な文章を書くようになったが、わたしにとっては「書く」ということの本質は未だに内向的なものである。自分が経験した出来事や見聞した物事や摂取した情報に対して自分はどんな思いやどんな考えを抱いているか、形を与えて確かめる、ということだ。


 ネットにおいては「他人とつながる」ことを目的として文章を書く人がたくさんいる。素人のブロガーはもちろんのこと、プロのライターでも文章とは「他人とつながる」ためのものだと認識している人がいる。それはまあよい。わたしだって、ブログやSNSで書く理由の一部として「他人とつながりたい」という欲求は確かにある。だが、それだけを目的として文章を書くことは勿体ないことであるし、ある種の危険がつきまとうことでもある。

 まず、他人に読まれることを前提とした文章を書くことには「形式」の制限がつきまとう。つまり、わかりやすく読まれやすい文章を書くために文章の構成や量をコントロールしなければならない、ということだ。このような制限は本の時代や雑誌の時代にも存在はしていたであろうが、ネットに載せる文章となるとその制限はいっそう強烈になる。ネットは「わかりやすさ」や「読まれやすさ」の過当競争が発生する空間であるからだ。そもそも本に比べてネットに掲載されている文章を読むことに割かれる労力や意識はごく僅かであるから、読みやすいものでなければ読まれないし、PVも得られなければシェアもされずに埋もれていってしまう。さらに、ネットには「わかりやすい文章の書き方」や「文章を他人に読んでもらう方法」のマニュアルが無料でそこら中に転がっている(なかには有料でマニュアルを売りつけようとする連中もいるが)わたしがいまこの文章を書いているnoteというメディアだって、「長い文章は分割しよう」とか「こまめに段落をわけサブタイトルをつけよう」とか「箇条書きで要点や目次を作ろう」とご丁寧に教えてくれる。余計なお世話だ。

 …しかし、現在のネットにおいてまともな方法で文章を読んでもらい認知されるためには、たしかに普通は長い文章を分割してこまめに段落をわけてサブタイトルをつけて箇条書きで要点や目次を作ることが必要とされている。そういう「読みやすさ」の工夫がなされている文章がすでに大量にあふれているので、そうでない文章は必然的に埋もれていってしまうのだ。 たとえば一昔前には普通に読まれていたようなブログの文体でも、現在では「読みづらい」とされて全く見向きもされなくなっているものである。

 なにかの時事問題やニュースについての解説であったり、本の内容や学問的知見のまとめであったり、ノウハウやハウツーの紹介であれば、(基本的には)その文章は読まれやすくてわかりやすいことにこしたことはないだろう。そのような文章の価値は、文章そのものではなく文章に書かれている情報の方にあるからだ。だが、ある出来事や物事についての自分の思いや考えを語る文章や、自分が人生で経験したことや出会ってきた人について語る文章でも、「読まれやすさ」や「わかりやすさ」ばかりを意識したものが最近では目立つようになってきた。内向的であるべき種類の文章すらも外向的な文章の文体に侵食されて、知識や情報を提供する文章と人生経験や思いについて語った文章が一緒くたに扱われるようになっているのだ。

 わたしが自分の人生経験や自分が抱いている思いについて文章を書くときに思うのは、それは箇条書きで要点や目次を付けられるものではあってはならない、ということだ。わたしは様々な人や場所や物事や事象や概念についていろんな思いを抱いて生きているし、その多くはネガティブなものでもあったりロクでもないものであったりする。しかし、すくなくとも、こまめに段落をわけてサブタイトルが付けられるような表面的で浅薄なものではありえない。箇条書きやサブタイトルを付けることは、他人にとっての読みやすさやわかりやすさのために様々な物事に対するわたしの思いや考えを犠牲にすることである。上にも書いたように、内側になる自分の思いや考えに文章という形を与えて外側に出すことは、形を与えることによって自分の思いや考えを新たに規定することでもある。つまり、読まれやすくてわかりやすい文章を書いてしまうことは、自分の内側にある考えや思いも他人の目を意識した無難で浅薄なものにしてしまうことでもあるのだ。それは、書かれている対象である人や場所や概念などにとっても礼を失することだろう。

 他人がネットに書いた文章を読んでいてときどき空恐ろしくなるのは、たとえば「恋人との出会いや別れ」といったかなり個人的な事柄について書かれた文章や「幼少時代に経験したトラウマ」といった深刻な事柄について書かれた文章までもが、箇条書きで要点と目次が付けられてこまめに段落がわけられてサブタイトルが付けられていて、他人の目を意識した「読まれやすさ」と「わかりさすさ」で漂白された文章になっていることである。他人事ながら、自分の人生にそんなに軽く浅薄な形を与えてしまっていいのか、と心配になってしまう。たしかに自分の人生経験について語ったことが多くの人に読まれることには充実感や爽快感があるから、より多くの人に読まれやすくなるような表現をしたくなる気持ちもわかる。だが、たとえ何千人や何万人もの人に読んでもらってその一部からは励ましのコメントをもらったり小銭をもらったりしたところで、それが何になるのだ?

 現時点で社会的に成功していたり何かを達成している人の文章は、たとえ個人的なことを書いていたとしても「成功者の人生」や「成功者の言葉」として読まれる。その文章そのものには大したことは書かれていなくても、その文章を書く人の属性が付加価値となって、なにか有益で傾聴すべき言葉であるという風に読まれてしまうのである。一方で、現時点で何も達成していなかったり人生に失敗してしまっている人の文章は、そのままでは肯定的に読まれることはない。そういう文章を読んでもらうためには、自分の人生について悔やんでいる"風"や改心したり再起したりしたいと望んでいる"風"を装わなくてはならず、読者に対してはあくまで下手に出て共感と同情を呼んで憐れみの言葉を誘わなければならない。そうでなければ叩かれてしまうだけだからだ。……こうして考えてみると、ネット上の読者とはその大半が品性下劣な存在だ。強者に対しては指をくわえて見上げて媚びへつらうし、弱者に対しては相手から媚びてこない限りは好き勝手に攻撃する。自分の内側にあるものに見出しやサブタイトルを付けて本来とかけ離れた形で外側に表現してまでして、そんな連中に文章を読んでもらう必要はあるのだろうか?


Twitterなどで映画や漫画についての感想を語っている人のなかにも、文章があまりに「他人の目」を意識したものになっていると思わされることがある。その人は2時間かけて映画を見たはずなのに、自分が映画をみて思ったことや考えたことを率直に書かずに、他人に"ウケて"拡散されることを狙ったネタ的な感想や大袈裟な感想を書いているのだ。狙ってやっているならまだいいし、自分自身の素直な感想とウケ狙いの感想を分けて併存させられているのなら何の問題もないかもしれない。しかし、最近の風潮を見ていると、本来は他人からのウケを狙うために書いていた大袈裟な感想やネタ的な感想に自分自身の素直な感想が侵食されている人がかなりの数いるような気がするのだ。これはわたしが実際に「映画好き」の知り合いとリアルで会話しているときに気付かされたことである。目の前に実物として存在するはずの人間の口から出てくる感想が、その映画についてSNSで散々バズった大袈裟でウケ狙いな定型文と同じものになっているのだ。

 未成年の人たちが学校での経験や受験への意気込みやこれからの自分の人生の目標についてTwitterで報告しているところを見ると気の毒になる。若いうちには自分の考えや思いを社会や世間に対してあまり発信するべきでなく、自分の内側で考えや思いを育てたり身近で信頼できる人にしか共有しない方がいいだろう。そうでないと未熟な時期から自分の内面が他人や世間や社会に侵食されてしまい、それに抵抗できるだけの自我を確立することができなくなってしまうからだ。

 とはいえ、自分自身の思いや考えを他人の目に晒して、自分の生活や内面などの私的であるべきものを他人に売り渡してしまうのは、芸能人や有名人たちが昔からやってきたことではある。現在は多くの人がインフルエンサーに憧れてインフルエンサーになろうとしている時代だから、その傾向が加速しているのだろう。InstagramやYouTubeにコンテンツを投稿している人たちの気の毒さはTwitterの比ではない。しかし、こんな傾向がこれからもさらに加速していったら、いつしか世の中から「内面」というものが失われてしまいそうだ。


 わたしから他人にアドバイスできることがあるとすれば、…章によって自己表現をしたいと思う人は、ガイドラインやマニュアルやSEOのノウハウを気にすることなく自分の言葉で物事を表現することを試みるべきである。そういう小細工の方法を知っているにこしたことはないだろうが、それに振り回されるべきではない。それに、箇条書きで要点や目次を作ったりこまめに段落を分けてサブタイトルを付けなくとも、書いている内容に価値や魅力や個性が伴っていれば、何かしらの反応は帰ってくるし一定数の読者は付くというものである。逆に言えば、目次やサブタイトルを付けて読まれやすくわかりやすくしなければ読者がつかないような文章は、そもそも書かなくてよい。自分に提供できる情報や知識がノウハウがあってそれをシェアしたり売りつけたりしたいときにはまた別だが、ただ自分の人生経験や思いや考えについて書きたいのなら、まずは自分の言葉で好きなように書いてみるべきだ。


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