学歴とアイデンティティと批評性
私は京都生まれ京都育ちで、中学高校は私立の中高一貫校ではあるがレベルの低いところに通った。大学は立命館、大学院も同志社といずれも京都の学校である。そのまま28歳まで京都に居続け、2年とちょっと前になってようやく実家を出て上京した。だから、関東の人たちとまともに交流するようになったのもここ数年のことだ。
一部の関東の人たちと話していて気付いたことは、東京では大学ごとの「色」や「風土」などのイメージが関西よりも実体感を持って存在しているということだ。そして、東京の大学に通った人たちのなかには、自分の通った大学のイメージが自分自身のアイデンティティに影響をもたらしている人がけっこうな割合で存在しているようである。つまり、「早稲田はこういう大学だ」「慶應はこういう大学だ」などというイメージが客観的に確立していて、そこを卒業した人は他人から「あの人は早大の卒業生だからこういう人間だ」などと見られるだけでなく、自分自身についても「自分は早大の卒業生だからこういう人間である」という定義付けを多かれ少なかれしているようなのだ(また、早稲田の女性である場合には「ワセジョ」、といったようにさらに細分化されたアイデンティティ・カテゴリも存在している)。
早慶に限らずとも、上智やICUや東工大をはじめとして、「この大学はこういう風土である」というイメージがはっきりとしている大学が東京には数多く存在する。関西の場合は、東京とは事情が違っていたように思える。少なくとも京都においては、私が通っていた立命館にははっきりとしたイメージと言えるものは存在しなかった。同志社に関しては相対的に金持ちが多かったり育ちがいい人が多い印象はあったが、それにしても「お坊ちゃん大学」と言えるほどのものではなく、世間的にも明確なイメージが存在しているとは思えない。「産近甲龍」にしても、近畿大学がマグロなどを養殖したりして目立っているくらいで、各大学ごとの特色はあまりイメージできないだろう。私が知っている限りでは京都精華大学は「自由自治」という風土が特色としてあった気はするが、そもそも世間的にマイナーな大学であるので「京都清華大学はこういう大学である」というイメージが世間に共有されるほどにはいかないのである。
しかし、関西にも例外的に大学の「風土」や「色」のイメージが明確に存在していて、そのイメージが世間的も大々的に周知されている大学がある。それが京都大学だ。京都大学には「自由」や「奇抜」や「反権威主義」というイメージがあり、それらのイメージが日本で二番目にレベルの高い大学であるという「権威」と結び付くことにより、他の大学が持たないような存在感を発揮する。一時期においては森見登美彦や万城目学のような京大出身の作家による「京大文学」というべき小説ジャンルが流行してもてはやされていたし、現在でも一部のインフルエンサーは「京大出身」であることを最大のアピールポイントにしていたりするなど、京大のイメージは「商品価値」すら持っているのだ(早稲田や慶応のイメージにも京大ほどではないが商品価値が備わっているようである。一方で、立命館や同志社のイメージには商品価値はほとんど無いように思われる)。
対外的な商品価値だけでなく、京大の在籍生や卒業生にも、「京大」というイメージは本人のアイデンティティに影響をもたらしている。大学院にて京大の学部出身の先輩と関わったり、またインカレサークルなどで京大生と一緒に活動したりして気付かされたのは、彼らは自分が何かを考えたり何かの行動をするときですら「自分は京大生であるから」ということを出発点にしている、ということだ。つまり、「京大生は奇抜で個性豊かだから」という認識がまずあったうえでおもしろおかしいことをしようとしたり、「京大生は本質を突いた知的な発想をするから」という自己認識があるから物事について知的に考えようと試みたり、「京大生は権力を疑い権力に逆らう存在であるから」反権威的な発言をしたり反権威的な振る舞いをしたりするのだ。…言うまでもなく、自分の外側にある属性に自分を仮託させてから自分の行動を決定する行為とは、没個性的で、反知性的で、権威主義的な行為である。しかし、京大生は自分の振る舞いに皮肉さや滑稽さがあることにすら気付けないし、私が直に指摘してもキョトンとするだけなのだ。
「京大文学」の作者たちだって、その作中では世間の規範や凡人の常識をあれだけ皮肉って揶揄して解体しようとしているのに、「京大」の持つ世間的イメージだけは絶対のものとして否定せず、自分たちに備わった「京大生」というアイデンティティを大事に保護しようとする。それもそのはずで、「京大」のイメージや「京大生」というアイデンティティが傷物になると自分たちのブランディングに差し障りが出て自分の存在価値がなくなってしまうから、それらを守らざるを得ないのである。
京大は極端な事例であるにしても、慶大生にせよ東工大のオタクにせよワセジョにせよ何にせよ、自分が在籍した大学の風土やイメージに自分自身のアイデンティティを依って立たせることには滑稽さや愚かさが付きまとう。そして、それは自らが持つ知性や批評性を外部の存在に譲渡してしまう行為でもある。ある人が物事を深く考えてその人ではないとたどり着けないような発見を行うためには、「自分は〇〇大生であるから〜」とか「自分は〇〇人であるから〜」という自己認識は支障にしかならない。アイデンティティを自分よりも大きなものに仮託せず、自分自身の存在のみに頼って外部の世界に向き合うことから始めないと、本当の意味での思考や批評というものはできないはずであるのだ。大学という場所は本来はそこに在籍している人々に考えを促すことを目的とするのだから、各大学の持つイメージが人々の思考を阻害してしまうことには矛盾や本末転倒が含まれている。
また、人のアイデンティティの重要な要素になり得る「学歴」は、なにも大学に限らない。自分が卒業した高校に対して大学以上に強い思い入れを抱いて、アイデンティティの基盤としている人も多い。特に日本では難関大学に入学することを目標にして優れた学生が集まって上等な受験教育が施される「進学校」がどこの地方にもあるものだ。そして、出身高校がレベルの高い「進学校」である人ほど、その人のアイデンティティに出身高校がもたらす影響は強くなりがちである。…しかし、自分が出身した進学校に誇りを抱いているタイプの人たちは、どこの地方のどこの学校の出身の人であろうと同じような思い出話しかすることができない。「同じ目標に向かえる仲間と切磋琢磨できた」「自分よりもすごい奴、自分がどう頑張っても敵わない奴の存在を若い頃に知ることができてよかった」「文武両道のメリハリのある学校生活で、受験だけでなく部活や学校行事にもみんなが一丸となって打ち込んでいた」とかそんなことばっかりなのだ。私に言わせてもらうと、どれだけ勉強ができたり能力を持っていたりしたとしても、全国的に量産化されたアイデンティティしか持っておらずテンプレート的な思い出話しかできないような人は、その存在の有り様が批評性を欠いているのである。
大学受験というシステムのため、より上位の大学ほど進学校出身の学生が多くなるものである。高学歴の人間が多い大企業や官公庁でも、また"勉強のできる"人間が集まる空間であるアカデミアにおいても進学校出身の人は多くなるものだ。つまり、同じような経歴を持ち同じようなアイデンティティを持つ、同じような考え方しかできない人が多くなるということである。企業や官公庁においてはその方が"効率的"であるかもしれないし、数式を解いたり実験室で実験していれば済むような「理系」のアカデミアならばそれでいいかもしれないが、社会や世界や人間との複雑で繊細さな向き合い方が要求されるはずの「文系」のアカデミアにとっては望ましい事態ではないはずだろう。同質のアイデンティティの人が集まって批評性に欠く空間は、芸術や文化とそれに関わる産業にとっても忌避すべきものであるはずだ。こういうことを考えていると、ダイバーシティやインクルージョンの意義や必要性が綺麗事ではなく理解できるようになっていくものだ。