SEOの哀しみ


 Twitterでどこかのカリスマブロガーが、現在はコロナウィルスに関する記事を書くことがブロガーにとってチャンスであると発信して、叩かれていた。

 叩かれて当たり前の発言ではあるが、SEOを意識したアフィリエイトブログを書いてそれで儲けようと思っている人なら、当然こういう発想になるだろうという気はする。おそらく、既にそういうブログ記事は大量に生産されているだろう。また、 YouTuberたちを見てみても、やはりコロナウィルスに関するなんらかの動画を撮影して投稿して、それで再生数やチャンネル登録者数を稼ごうとしているようだ(現在はコロナウィルスに関する動画は広告収入が入らなくなる措置をされているようではあるが)。

 今回のウィルス騒動で再注目されている映画『コンテイジョン』では、ジュード・ロウが演じるデマをバラまくジャーナリストが視聴者の憎しみを買う悪役として描かれていた。ウィルス騒動に限らず災害を題材にした映画全般において、そして映画に限らず小説や漫画などの他の形式で表現される物語全般において、災害やパニックに便乗してデマを広めたり人々を煽ったりすることで自分の利益を得ようとする人物が登場することは多いし、そういう人物は必ず「悪役」として描かれることになる。

 つまり、物語のなかでは悪役がやるとされる行為を、ブロガーやYouTuberたちは率先してやっているのだ。

 こうなるのも、SEO(Search Engine Optimization, 検索エンジン最適化)の構造からして仕方がないところがある。なにかのジャンルにほんとうに特化しており他にはない唯一無二の情報を提供できたり表現が行えたりする人なら別だが、大半の人はそうではない。他の人でも持っている情報しか提供できなかったり凡庸な表現しかできない人がブログで稼ごうとするためには、グーグルで検索順位の上位に出やすくなったりSNSでシェアされやすくようにするための様々な小細工を行う必要がある。タイトルの文字数や本文中の見出しの付け方などをガイドライン通りにやらなければならないのはもちろんのこと、書く内容やテーマもGoogleの検索アルゴリズムを意識して選ばなければならない。そして、「流行」を意識して「流行」に便乗することは基本中の基本であるだろう。


 しかし、個人が行うアフィブログなんてよっぽどうまくいかない限りは効率が悪いことは自明であるはずだ。相当に戦略を練ったうえでかなりの時間や労力を投資したうえで運用しても得られる報酬は雀の涙、ということは珍しくもないだろう。ごくまれに大成功して大金を稼ぐブロガーもいるだろうが、ネット時代におけるメディアやコンテンツの大半はそうであるように、「勝者総取り」的な仕組みになっているはずである。大半のブロガーにとっては大した稼ぎにならず、ブログ作成にかける時間を別のことを充てた方が収入が上がる見込みは高いだろう。

 では、そのような「割りの悪い」行為であるブログ運営で稼ぎたがる人がなぜここまで多いのか?それは、やっぱり、「文章を書いてお金を稼ぐ」ことに憧れや魅力を感じる人が多数いるからだろう。文章を読むことが好きな人は多いし、内向的な人や真面目な人の間ではとりわけ多い。雑誌の文章やネットに掲載されている文章を読むだけで満足という人もなかにはいるが、大半の人は小説をはじめとした「本」を読むことが好きであるだろうし、程度の差はあれど「文学」に対して好意的な思いを持っているだろう。そういう人のなかには文章が書くことも好きな人が多いし、書くことには慣れていなくてもいつか文章が書けるようになりたいと思っている人も多い。そんな人たちのなかには、客商売や営業や事務作業などなどが苦手で「文章を書くことで生活できるようになれたらいいなあ」と多かれ少なかれ思っている人もいるはずだ。だから、自分の文章で金を稼げるかどうかを試すためにブログ運営に手を出してみるのだ。

 ここからが悲劇のはじまりだ。ブログを書くことで本気で金を稼ごうと思うならSEO対策に取り込まなければならない。そして、SEO対策をやればやるほど「文章を書く」ことが本来持つ楽しさや魅力からは離れていく。文字数や見出しの数や段落の空け方などの形式がマニュアルでがんじがらめになるし、コンテンツの量を増やすために中身のない文章をどんどん量産していかなければならない。そして、しまいにはデマを書いたり真剣で深刻なテーマについて付け焼き刃の知識で適当なことを書いたりなどの「汚れ」に手を出さざるを得なくなる。

「文章を書くこと」を「動画を投稿すること」に置き換えれば、YouTuber として金を稼ぐことにもまったく同じようなジレンマがあるだろう。ネットにおいてなんらかのコンテンツを運営して金を稼ごうとすること全般に付きまとうジレンマであるかもしれない。また、その行為が本来持つ楽しさからはかけ離れた形で運営しなければならないことや、違法でなくともグレーゾーンだったりマナー違反だったり下品だったりする「汚れ」に手を染めなくてはならないことは、古来から「仕事をしてお金を稼ぐ」という営みにつきまとう本質的なジレンマであるのかもしれない。

 だが、SEOのために文章を書くことには、他の仕事にはない独特の哀しさが存在する。文章を書くことが好きな人たちが好きであったり憧れたりしているはずの「本」や「文学」の世界が発信する価値観においては、SEO的な行為は否定されているからだ。小説を読めば、自分のやっているようなことが悪役の行為であったりそうでなくても目先の数字に左右される小人物の行為として描かれていることに気付かされるはずだ。小説ではない啓蒙書や教養書でも、流行や時事問題に便乗して中身のない記事を量産することは働き方や生き方として真っ当ではないと論じられているはずである。そして、「文学」とは血肉の通った生きた言葉を自由に紡ぐ営みだ。Googleのガイドラインとか検索アルゴリズムなんかに一喜一憂したり右往左往したりしながら自分の意志とはかけ離れたところにある文章を作成していく行為は、「文学」からは最も遠いところにあるものだ。

 もちろん、「文学」とは離れたものであっても良い文章はあるし、必要とされる文章はある。村上春樹が「文化的雪かき」と表現したように、ほとんど見向きもされることがない文章であったり誰が書いても同じようなものにならざるをえない文章であっても、その文章が存在することが世の中のためになるということはある。…しかし、大半のアフィブログにおけるSEOを目的とした文章は「雪かき」にすらなっていない。というか、むしろ、雪やゴミの塊を道路に置くようなものであり、世の中に与えている害の方が大きい。本や新聞や雑誌しかなかった時代にもそのような文章はあったかもしれないが、ここまで量産されるようになったのはやっぱりネット時代に特有の事象ではあるだろう。

 ついでに書いておくと、ブログのアフィ月収を誇ったりのもSNSのフォロワー数を誇ったりするのも非文学的だ(文学の世界では「慎ましさ」が美徳とされるものである)。また、「ねとらぼ」のような大手メディアにおいても、バズることだけを目的として自分の言葉をかなぐり捨てて虚構のポジティブさとネットスラングにまみれさせた記事が目立つようになってきていることにもうんざりする。私は文章を書く人たち全員にある種の「文学性」を期待しており、その期待を裏切られるような文章を見るたびにがっかりした気持ちになってしまうのだ。相手からすれば知ったことではないかもしれないが。


生活がつらいのでサポートして頂けると助かります。