「学問ごっこ」と、それに対するわたしの反感


 これまでの自分の生き方や考え方について振り返ってみると、前々から薄々気づいていたことではあるが、「何が好きか」よりも「何が嫌いか」ということに自分が振り回されてきたことを再認識してしまう。ネガティブな外的事象に自分の人生や人格を決定させてしまうことはどう考えても自分にとって良いことではないし、幸福ではなく不幸につながることだとは思う。しかし、何しろ昔から様々なものやことが嫌いで仕方がなかったし、今さらそれを更生できる見込みもないだろう。だから、「嫌いなものは嫌い」と割り切るしかない。そして、それを溜め込んでいるよりかは外に向かって吐き出した方が多少なマシというものだろう。


 大学生のとき、私は周囲にいた一部の学生たちの言動のなかにある種の特徴や傾向を見出すようになり、それが段々と苦手になっていった。その特徴や傾向を、ここでは「学問ごっこ」と呼ぶことにしよう。

 私が「学問ごっこ」を感じる言動の具体例とは、たとえば以下のようなものだ。日常的な話題について会話しているときに、話題となっている物事や行動についての「法学的側面」の解説を法学の学生がはじめる。歴史遺産に落書きされたというニュースに対し歴史学専攻の学生が憤慨を示したり、外来種の生物が川に放れてしまったというニュースに対して生態学専攻の学生が憤慨を示したりする。日本文学専攻の学生が作家たちの文学作品の内容について語るのではなく、作家間のいざこざや恋愛事情などのエピソードを語ったり作品制作の背後にあった裏話を語ったりする。哲学を専攻している学生が、著名人などの「人文学は役に立たない」という発言を肴にして「そもそも"役に立つ"という定義ってなんだろう」と混ぜかえす会話をはじめる。理科系の学生が社会問題について情緒や規範的な側面を排した"理系ならでは"の発言を行う…などなど。

 これらの行動のどこが共通しているとか、どこが明確に悪いとかを他人に対して客観的に示すことは難しい。というか、私は上述したような様々の行動になんとなく不自然さや気味の悪さを感じて、それらの不自然さや気味の悪さの背景には一貫した傾向があると考えているのだが、それだって私の主観的な判断に過ぎないものだ。しかし、もしかしたら共感してくれる人もいるかもしれないので、それをなんとか言語化してみよう。


 学生のときに私が同世代の学生たちの「学問ごっこ」を気に入らなかったのは、何と言っても彼らの多くが学部生であったことが大きい。

 四年生になって卒論を書き終えるころになれば、自分の専攻している学問の「学問的方法論」とか「その学問ならではの考え方」も身に付けられるかもしれない。しかし、大半の学生の場合は、その学生が真面目な人であっても、卒論を書いて学部を卒業するくらいでは「ある学問ならではの考え方」を身に付けることはできないものだろう。…ましてや、学問ごっこを行う学部生たちは2年生や1年生であったりもするのだ。当然ながら彼らは自分が専攻している学問についてまだまだ未熟であるし、知識も充分には身に付けていない。そんな彼らが「ある学問ならではの考え方」を他人に対して言ったところで、なんの価値も発生しないのだ。私なら、ある学問の考え方について知りたいときには、友人や知人に話を聞くのはではなく自分で本を手に取って読む。逆に、同世代の友人や知人と会話をしているときには、そいつの専攻している学問ならではの考え方を聞かされることなんて最初から期待していない。相手が個人としてどう思っているかは唯一無二のことなので聞く価値があるし、普通は友人と会話しているときに相手に期待することは相手の個人的な意見なのである。

 また、「ある学問ならではの考え方」を言おうとするならまだマシな方で、大半の場合は「考え方」のレベルにも至っていない「トリビア」や雑知識ばかり聞かされることになる。話はすこしずれるが、私はそもそも会話においてトリビアを言いたがったり、考え方ではなく知識や情報を連呼することで会話を行おうとする人々の姿勢や動機というものが昔からよくわからない。そういう人たちは、会話やコミュニケーションというものを根本的に履き違えていると思う。

 とはいえ、若い学部生たちは大学に入って初めて学問に触れて、自分が専攻とする学問の奥の深さなりそこから得られる知識豊かさなりに感銘を受けてその学問のことで頭がいっぱいになっているから、ついつい日常生活でも自分の専攻としている学問に関連付けてその話をしたがるかもしれない。そういう意味では、微笑ましいと思うのが妥当で大人な反応なのかもしれない。…しかし、同世代の私には気味が悪く感じられた。そのときの気味の悪さをいまでも覚えているから、現在の私よりも10年近く年齢が離れている昨今の大学生たちが同じような振る舞いをするのを(Twitterなどで)見かけるときにも、昔と同様に気味の悪さを感じている。


 私が気味の悪さを感じる理由の一つは、彼らは自分が専攻している学問に自分自身をあまりにたやすく同化させているからだ。つまり、自分のアイデンティティの一部を自分の専攻している学問に委ねてしまっている。

 ひとつの学問を究めて成果を出せられるのなら結構なことだが、そうでもないのに自分のアイデンティティを専攻している学問に委ねることには、弊害の方が大きい。まず、せっかく大学という環境…教養科目などを通じていろんな学問を勉強できて、勉強の他にもいろんな経験に触れられる環境…に若い身分でいるのに「専攻している学問」の考え方にばかり傾倒することは、他の考え方をシャットアウトして視野を狭めることだ。教養というものはあればあるほど良いし、視野というものは広ければ広ければ良い。ひとつの学問の考え方ばかりに注目してそれの勉強ばかりをしてしまうことは、論文を書くためには効率が良くて好都合かもしれないが、その人の人間性にはあまり良い影響を与えないものである。話していて楽しい人間ではなくなるほか、自分の専攻している学問と関係のない話題について深く考えたり洞察することもできない人間になってしまうのだ。


 また、自分のアイデンティティを自分の学問に仮託させることで、別の領域の物事について考えることを積極的に放棄する場合も見受けられる。例えば「自分は理系だから、社会や政治や倫理のことについてはわからないし、そんなこと考えなくてもいい」と思っている人にはしばしば遭遇する。しかし、社会や政治についての思考を放棄することは民主主義社会の市民としての責任を放棄することであるし、倫理についての思考を放棄することは人として最低限期待される責任をも放棄することにつながる。

 理系を専門にしたからといって、日々の生活や社会的関係や家庭内のことなどについてまで「理系的に」考えなければならない、ということには全くならない。ある学問を専攻したからといってその人から他の考え方が失われるわけではないのだし、他の考え方が必要とされるときにはそれに基づいて考えなければならないのだ。だが、自分が理系であると称することで他の領域についての思考を放棄することを正当化する人は多いし、法律系や哲学系の人々にもその傾向は見受けられるときがある。これも、学問ごっこ的な振る舞いが許容されていることの弊害であるように思える。


 さらに、「学問的方法論」でなく「学問共同体」をアイデンティティの置き所にしている人も多い。これは学部生に限らないし、むしろ修士や博士などの大学院生、そして博士号を取得して「ごっこ」ではない本物の学者になった人にもしばしば見受けられることである。

 なにかの西洋史の授業を受けたとき、歴史的史料に関するドキュメンタリーを視聴させられたことがある。詳細は失念したが、そのドキュメンタリーのなかで、中東だかアフリカだかにあったなんらかの史料を現地の人が金銭目的で業者に売り渡すかなにかしてしまい、結果としてその史料が紛失するか破壊されるか保管状態の不備で使えなくなったかした、というエピソードがあった。そのドキュメンタリーの詳細はまったく覚えていないのだが、ひとつだけ印象に残った出来事がある。それは、ドキュメンタリーの市長が終わった後、一緒に授業を受けていた歴史学専攻の女子学生が「利益目的で資料を台無しにするなんて許せない」と憤慨していたことだ。しかし、言うまでもなく、どこかの国でなにかの史料が台無しになることは彼女の身とは関係ない。私としては、遠い国で史料が台無しになることは誰かが傷付いたり誰かの命が奪われるようなことではないのだから、一般論として「残念である」「そういうことは起こらない方が良かった」という以上の気持ちは湧かない。だが、歴史学専攻の女子学生は本気で憤慨していた。彼女は本気で自分自身と「歴史学」を同化させていたのであり、歴史学に対する冒涜を自分に対する冒涜であるかのように受け取っていたのである。さらに言うならば、憤慨するという行為のなかに爽快感や愉しさも感じているようであった。

 ナショナリズムが悪いことであるとしばしば言われる理由は、ナショナリズムは人々が自分のアイデンティティを「国」という集団に置いてしまい国と自分を同化することで、国に不利益をもたらす者や国への忠誠を示さない者を攻撃することをしばしば正当化してしまうからだ。しかし、人々が集団にアイデンティティを置くことによって生じる攻撃感情の正当化は、ナショナリズムの他でも起こり得ることである。…そして、私は学問共同体にアイデンティティを置く人々たちの間にも、ナショナリズムと同様な集団的攻撃感情を見出すことがしばしばある。その攻撃の対象とされるのは、「"学問が何の役に立つのか?"と聞いてくる人々」や 「基礎学問の意義がわからない人々」であったりする。そのような人々に対して批判することや反論することは妥当であったとしても、怒りのこもった反応が集まって集団的な攻撃に転じる様子はよく見かけるし、それは見ていて気分の良いものではない。


 ついでに書いておくと指導教授なりゼミの先輩なりに憧れを抱いて、その人たちと会話したり一緒に行動したりすることを誇らしいと思う人たちがいる。これは学問ごっことはまた別の話であるかもしれないが、気に食わない。また、(これは先日の記事でも書いたことだが)早稲田大学や京都大学などの「面白い」大学に所属して、その学風を自分のアイデンティティの一部としている人も多い。この人たちも気に食わない。そして、学問ごっこ的な振る舞いをする学生たちを素直で真面目な学生だとみなして可愛がる教授陣も気に食わなかった。


 上述してきたような学問ごっこ的な行為が気に入らない最大の理由は、それが「知性」とは程遠いものであるのに、学問ごっこ的な行為をしている当人たちは自分たちこそが知性的な存在であると信じている様子であるからだ。

 少なくとも、私にとっての「知性」にはメタ的な観点やアイロニーが不可欠だ。ある物事について複数の観点から考えることができたり、自分が採用している考え方や重宝している考え方とそうでない考え方や世間一般の価値観との距離やズレを認識していたり、自分が語っていることにのめり込まず自分自身を相対視することに努めたりすることが、私にとっての「知性」なのだ。

(私にとっての)知性的な人とは、アイデンティティを自分の外に置いて思考を放棄することをしない人だ。また、自分自身に対する距離感や疑いを放棄しないものである。自分がたまたま専攻した学問の価値をあまりに素直に信じて、その学問の考え方を身に付けたりその学問共同体に属している自分自身の価値をも簡単に信じてしまえるような素直さを持った人は、私にとっては知性的な人ではない。私にとっての知性とはもっと皮肉で懐疑的なものなのだ。

 …しかし、自分の専攻した学問の意義や面白さがわからなかった人がそうでない人に対してやっかみを感じているだけだ、と言われたなら否定のしようがない(たしかに私は学部のときに専攻した英米文学という学問の存在意義が最後まで理解できなかった)。また、物事についてうがった目でしか見れず批判的な態度しかとれない人がそうでない人に文句を付けているだけだと言われると、これもまた否定のしようがないのである。


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