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京都を歩き尽くすこと


 京都といえば「学生の街」というイメージが強いが、言うまでもなく、京都には学生ではない人間も住んでいる。京都に生まれて、ずっと京都に暮らしている人間もいるものだ。そして、京都に生まれて暮らしている若者のなかには京都の大学に行く人も多い。そこで、京都以外の他の地方出身の友人を作ることもあるものだ。

 このことにはある種の寂しさがつきまとう。というのも、他の地方出身の友人の大半は、大学を卒業したらもう京都からはいなくなるからだ。京都では東京や大阪のようには企業の数が多くないから、友人たちの多くは卒業したら京都を出て他の都市にある企業に就職することになる(私のまわりでは大阪が多かった)。それか、各々の地元に戻って地方公務員になったりする。多くの人にとって京都はあくまでも学生時代にしか住まない街であり、だからこそ「学生の街」というイメージがついているのだろう。

 しかし、繰り返すが、京都にはそこで生れ育った人間もいる。たとえば、私がそうだ。そして、京都にある大学に通ってそこを卒業した後には、かなりの「取り残され感」を感じて生きるようになった。友人たちは都会に出ていったり地元に戻っていったりすることで大学時代をひとつの思い出として処理することができるだろうが、私は、大学時代を過ごしていたのと同じ街でそのまま生活を続けなければならない。どこにいっても過去の思い出がチラつくことになるし、当時と現在との自分の境遇の差を考えて悲しい思いになったりもする。たとえば自分もどこかの企業に真っ当に就職できていれば京都に住んでいてもなんてことはなかったのだろうが、フリーターになってしまい将来の先行きも不安な状態であると、これはかなり苦しい。

 思うに、モラトリアムとは自分の実家や生れ育った街からは遠く離れたところで過ごすべきだ。自分の実人生からは浮いている特殊な期間として過ごして、大学を卒業したらスパッと切り離して「思い出」の箱のなかにしまい込んでしまうべきなのである。モラトリアムとその後の人生を地続きに同じ場所で過ごしてしまうと、いつまで経っても自分の実人生がはじまらない。


 とはいえ、京都に生まれ育って京都の大学に通い卒業した後にも京都に残る人は、私の他にもいる。とある友人がそうだった。そして、彼もまた就職に失敗していた。

 私にはなにか目指すべき就職の目標もなかったので、フリーター時代にはとりあえずその場しのぎのアルバイトやパートタイムの仕事をして日々を過ごし、小遣いを稼いでいた。一方で、友人には途中までは就職の目標があったので、彼はバイトなどをしない代わりに試験勉強などをしていた。だが、どこかの時点で力尽きてしまい当面の就職を諦めて、かといってバイトなどを始めることもなく、彼はしばらくの期間をニートの状態で生きることになったのである。

 お互い、他の友人はもう京都に残っていない。いるとしても就職しているから、フリーターやニートの身分で会うのは気まずいものだ。そして、なにしろお互いにヒマである。だから、私と彼はお互いにしか遊び相手がいなかった。そして毎週に最低でも二日間は二人で遊んでいた。お互いにフリーターやニートであるから家にいると家族と衝突してしまうので、用事がなくても外に出る必要があったのだ。そして一人で外でいることにも限度はある。だから二人で遊んでいた。その期間は2年以上も続いたものである。

 遊ぶといっても、フリーターとニートだから制限はある。当たり前のことだが旅行に行く金はないし、クラブに行ったりライブに行ったりも金がかかるから不可能だ。バイトをしていた私には居酒屋に行く程度の交遊費の余裕はあったが、ニートである彼は収入が純粋にゼロである。私だって彼に奢れるほど稼いでいるわけではない(それに友人に対して毎回奢る義理もない)。だから、とにかく金がかからず安く済む方法で遊ぶしかなかった。

 けっきょく、私たちは2年間ひたすら京都の街を歩いていた。歩くことに金はかからない。私は途中でコンビニに寄ってビールやチューハイやお菓子を買っていた。彼も小遣いに余裕があるときにはコンビニで買い物をすることができたが、そうでない場合には、家族の冷蔵庫からくすねてきたチューハイやお菓子を飲み食いしていた。一本あたり98円もしないような、スーパーで売っている最安値のものだった。また、安物のワインの瓶を片手に集合してくることもあった。私も彼を真似してスーパーなどでワインを買って一緒に飲み歩くこともあったが、たしかにワインは値段のわりには度数があるしチューハイのようにガブガブ飲むこともないから、長時間「間」を持たせられることができる。しかし身体にくるダメージもそれ相応のものであって、解散するときにはお互いにかなりしんどい状態になっていた。

(そういえば大学時代の別の友人には、ほとんど常に下宿先に引きこもっていて人と会うときにはいつも久しぶりなので緊張を緩和するためにブラックニッカの瓶をポケットに忍ばせて景気付ける、という人間もいた。彼ともよく遊んでいたものだ。)


 歩くことはタダであっても、電車には金がかかる。私は電車賃くらいなら払えたが、彼の方はそうもいかない。私の実家は左京区の北の奥にある岩倉という地域であり、彼の実家は伏見区であった。私の家の近くには京都市営地下鉄の北側の終点である国際会館駅があったので、そこから南側の終点である竹田駅まで行って、駅の出口で待ち合わせをすることが多かった。

 この「竹田」というスタート地点からして問題だ。京都市の中でも南端の方である竹田のまわりにはほとんど何もなく、なにか目新しいものを探しにいくためには必然的に北へと向けて歩かなければならない。京都駅のあたりからも4kmほど離れているし、河原町からは6kmほどの距離である。伏見稲荷は近かったが、あそこは学生時代から機会があることに行っていたので行き飽きた感があった。龍谷大学も近かったし、師団街道のあたりの無骨な町並みの感じがよくて、そのあたりで一日中ダラダラする日も多かった。また、藤森や東福寺のあたりを通ることもある。この辺りには私が通っていた中高一貫校があったので、通るたびに思い出話をしていた。竹田というエリア自体、大学生の頃までは来る機会がほぼ皆無だったので、私にとっては新鮮な楽しみがあった。スーパー銭湯があったり科学センターがあったりするのだ。しかし2年間も友人とふらついているうちに竹田に関してはすっかり詳しくなってほぼ行き尽くした感がある。

 とはいえ、基本的には河原町に行くことになる。京都駅は本体の駅ビルは大層な建物となっているが周りに何もないものであり、京都のお店とかイベントとかはだいたい河原町に集中しているものなのだ。お店に入ったところで何も買わないから意味がないといえばないのだが、本とか服とか食い物とかの商品を見て何か感想をつぶやきあっているだけでも時間つぶしにはなる。また、京都で唯一の"街"である河原町なら人が多いし、若い人も多いから見ているだけでそれなりの楽しさはある。歩き疲れたときには高島屋の屋上に行って屋上のベンチで休んだり、ビアガーデンを楽しんでいる人を羨望したりしていた。平日であれば京都市役所の屋上に行くこともあった。

 イベントに関しては、屋内で行われるようなものは大体は有料だから参加できないが、三条河原〜四条河原あたりの鴨川で開かれる屋外のイベントなら立ち寄ることができる。鴨川で開かれるイベントは大体が物産展的なものであり屋台が立ち並ぶのだが(代々木公園で開かれるようなイベントに近い)、屋台の料理なんてぜんぶ高価だからもちろん買わない。そのためにチューハイとスナック菓子を片手に屋台の料理や生ビールを羨ましがりながら往復するだけになるのだが、それでもイベントに参加している感覚は味わえなくもない。というか、なにか目新しいことが起こっていればそれでよかったのだ。

 イベントといえば平安神宮のあたりでもよくやっていた(京都学生祭典とか自然環境フェスなどのイベントなどだ)。友人は府立図書館で就職の勉強をしたり文芸誌を読んでいたりしていたので、府立図書館が集合地点になる日も多々あった(友人は交通費がないから、当然、伏見区から府立図書館まで事前に歩いてきている。最低でも6kmはかかっているだろう。特に夏の日には京都の日中は地獄のような暑さになるので、朝の日が昇った直後から出発して10時ごろには到着するようにして、図書館に置いてある飲料水用の機械からたらふく水を飲んで回復して、それからようやく読書をしていたらしい。途中で水を買わずに図書館に到着するまで水を飲むのを我慢するのは、水を買うにはお金がかかるからである)。岡崎のあたりは東山にも出町柳にも河原町にもどこにも行きやすいので、集合地点としてはかなり利便性が高い。桜の時期の岡崎疎水の美しさも見事なものだった。

 京都といえば寺社仏閣のイメージが強いだろうが、寺というものはだいたいが拝観料を要求してくるので、いかない。ただし南禅寺なら屋内に入らず庭のあたりを歩くぶんには拝観料を取られないので、よくいっていた。そのまま南に疎水の道を歩くこともあったし、北に行って哲学の道を歩くこともあった。このあたりは紅葉や青紅葉の時期には綺麗だったし、当時は外国人観光客が増え始めた当初であって、平日であれば現在ほどは観光客で溢れ返っていなかった。月並みな感想になるが、自然のいいところとは、四季によってその姿を全く変えてくれるところだ。以前に歩いた道であっても、季節が変われば全く違った見た目を楽しむことができるものである。また、(なにしろ他にやることがないし考えることもないから)私も友人もこの時期には四季折々の風景の変化にはかなり敏感になっていた。鴨川から見える東山の木々の色合いの移り変わりについて話すだけでもしばらく会話が続いたものである。

 神社だと下鴨神社にはよく行った。大した神社であるとは思わないが林があって木陰があるから夏に行っても涼しい点はよかった(そのかわり蚊も多かった)。河原町に行ったときにはついでに八坂神社に行くこともよくあった。平安神宮は行っても見るものがないし地面が砂地になっていて汚いからほとんど行かなかった。上賀茂神社は広いし芝生もあるからよかった。

 京都の自然といえば鴨川であり、当然のことながら、鴨川もしょっちゅう歩いた。というか、基本的にはどこに行くにしてもまず鴨川を通って南北に移動し、そこから東か西にずれることで目的地に到着する感じであった。鴨川といっても三条や四条のあたりしか行ったことがない人は多いだろうし、そうでなくともせいぜいが出町柳のあたりで止まっている人も多いだろう。しかし、私たちは出発地点からして竹田であり、京都に住んでいる人でもそうそう行くことがない鴨川の南端だ。ここからくいな橋や十条のあたりまでは、北側とはだいぶ様子が違うワイルドなエリアである。まず鴨川というものは南に下るにつれて川幅が広くなっていき、終着点のあたりになるとそのボリューム感に圧倒される。また、南に下るにつれて整備が雑になっていくためか、雑草の量が増えたり茂みが濃くなっていったりする。そして、訪れる人間の少なさに反比例するように、野生動物の数が増えていく。様々な水鳥がいるのはもちろんのこと、野良猫がちらほらと見られるようになり、鹿が川の中に入っている姿を見かけるのも一度や二度ではなかった。蛇が泳いでいるのを見たこともある。夏や秋は虫の鳴き声がうるさいくらいだ。また、夕方ごろになるとコウモリが活性化して、かなりの数のコウモリが上空を舞うことになる(北側にもコウモリはいるのだが、その数は南側の方がずっと多い)。

 野生動物だけなく、十条〜竹田区間の鴨川は西側に見える半工場的なエリアや上空を走る自動車道などの建造物の文明感もいい味を出してくれる。七条から先は景観条例などのためにいかにも京都的な和風でおとなしい建物しかないのだが、南のエリアの様子はだいぶ異なるのだ。歩いていて任天堂の本社ビルが見えるたびにどちらかが指摘してどちらかが「おお」と反応していたし、西側に浮かぶ太陽と鉄塔や自動車道と鴨川の水面とが織り混ざった景色には独特の美しさがあった。また、十条とくいな橋の間の西岸にはかなり寂れていて不気味な雰囲気を漂わせるマンションやビルがいくつか建っていた。この辺りを通るたびに、ビルの電気が私たちを待ち伏せするかのように不自然に点灯したとかマンションに子供の幽霊の姿が見えたとかそういうことを言いあって怯えあっていたものである。

 そして、竹田から北に鴨川を歩いて七条や三条や出町柳を通り過ぎて進み続けて、上賀茂のあたりまで行くこともまれではなかった。私は幼稚園児の頃までは上賀茂に住んでいたからなんとなく思い入れがあるし、上賀茂には京都の他の地域にはない上賀茂特有の牧歌的な雰囲気があるから何度行っても飽きなかったのだ。それに、竹田から上賀茂まで行ってそしてまた竹田まで引き返すという行為には、終点から終点まで鴨川を往復しているという感じがあって達成感を抱くことができた。片道で13kmかかるので足の疲弊もかなりのものだったが。

 東山のあたりは、石畳で舗装されていたりして京都の他の地域に比べても観光地としての気合が入っている。河原町から八阪神社に行って円山公園を通り過ぎて高台寺のあたりをブラつき、そして大谷祖廟まで行くのも定番のルートであった。なぜ大谷祖廟かというと、友人の家系の墓がそこにあって墓参りに毎年付き合わされていたからだ。それに、大谷祖廟は東山でもかなりの高台に位置しており、上の方にまで登れば京都の街を一望することができた。特に晴れた夏の日などには、これはなかなかの見ものである。哲学の道を歩いた先にある銀閣寺道を通り抜けて大文字山を登ることも何度かあったし、このときにも京都の風景を一望することができた。眺めとしては、大谷祖廟からのそれに負けずとも劣らない。京都には西側にはあまり高い山や建物がなくて大した眺めがないものだから、最高の眺望は大谷祖廟か大文字山のどちらかになるだろう。

 ときには、鴨川を通らずに竹田から国道を東に進んで、山科のあたりまで行くこともあった。山科だからといって何かがあるわけでもなかったが、普通に京都で生活している人ならまず間違いなく立ち寄る機会がないエリアであるので、新鮮さはあった。(たまたま「飲み歩きフェス」的なイベントが開催していてあちこちの店で飲み歩き用の酒とおつまみを売っていることもあったが、コンビニで買う酒とおつまみを持って歩く方が安く済むので、買うわけがない)。また、醍醐に行くこともしばしばあった。友人がニートになる前に1年間だけ勤めていた職場があったからだ。もちろん醍醐に行っても何かするというわけでもなく、ベンチなどに座って飲みながら、仕事をしていたときの苦労話を聞かされるだけである。また、山科のあたりには京都刑務所があって、いちどだけ矯正展に行ったことがある(入場が無料のイベントを調べていたら見つけたのだ)。刑務所なので中の様子はよくわからないが、近くにある高い建物から見下ろしてみると中庭の様子などをけっこう細かに眺めることができて、なんとなく感慨深かったりした。

 淀駅の京都競馬場の周りをぶらぶらする日もあった。競馬に興味があるわけではなくて、友人の家族が以前に営んでいた飲食店が競馬場に近くにあり、淀城跡公園が友人の子供の頃の思い出の場所だったからである。公園に連れて行かれて、思い出話を聞かされた。

 たまに友人が家族からお小遣いをもらったりして交通費を払えるくらいの余裕があったときには宇治などに遠出した。宇治も観光に特化しているだけあって、一日歩きまわっても飽きない。宇治公園に行くのはもちろんのことだが、駅の近くにあるコンビニで酒を買い込んでから宇治川の奥の方に進み、天ケ瀬ダムにまで行ったりした。京阪の八幡市駅で降りて男山を登って石清水八幡宮に行くこともあった。神社なら寺とちがってあれこれ無料で見れるということもよかったが、それ以上に山を登ることにイベント感があって好きだったのだ。これは京都ではなく大阪になるが、同じく京阪の交野市駅で降りて「星のブランコ」で有名なほしだ園地の山を歩いた日もある。これにも登山感があってよかった(星のブランコは私の高所恐怖症のために渡ることができず、途中で引き返すことになった)。

 酒を買い込むといえば、これはフリーター時代ではなく学生時代の思い出になるが、清滝にまで友人とホタルを見にいった日のことは印象深い。私たちは誰も車を持っていなかったので、清滝に行くためには嵐山駅から4kmほど歩く必要があった。当時の嵐山にはほとんどコンビニがなかったから、事前に北野白梅町のイズミヤで酒を買わなければいけなかった。しかし夏だからそのままだとぬるくなってしまう。そのため、保冷用の氷をビニール袋に詰め込んでから電車に乗り、そして嵐山から清滝まで歩いた。これは気温は暑いしビニール袋は氷のせいでかなり重たいし、清滝トンネルは心霊スポットとして有名なうえに歩道が狭くていつ車に轢かれるかわからないという物理的な怖さもあって、かなりの苦行であった。


 私たちは二人とも立命館に通っていたので、卒業してからも立命館に行ってダラダラと思い出話をすることが多かった。立命館は京都にある大学の中でもかなり敷地が広い方であるし、開放されている建物も多いから、時間をつぶすのには最適な場所なのである。また、きぬかけの路には衣笠山という小さな山があって、ここには大学生の頃から授業の合間に登りに行ったりしていた。片道数十分程度で手軽に頂上までにたどり着けるし、頂上には座って酒を飲めるスペースもあったのだ。立命館を出て西ノ京円町に行ったり千本今出川のあたりまで行くこともあったが、ここの辺りには「学生時代に友人たちの下宿部屋がいくつかあった」以外の思い出はない。だから、学生時代から一人暮らしをさせてもらっていた他の同級生に対する恨み言や妬み言を友人と二人で言い合うことが大半だった。船岡山や大徳寺のあたりも行けば楽しかったのが、ここらにはそれぞれ一度ずつしか行ったことがないように思う。

 嵐山は意外と立命館から近く、嵐電を使って行くこともあったが、あえて学校から歩いて行くこともあった。嵐山には名前の通り山があり、ここにもよく登っていた。また、嵐山に行っても中洲や渡月橋のあたりで済ませる人が大半であるだろうが、桂川を奥まで行くと川岸が岩礁のようになっている空間が急にあらわれて、ここの岩に座って酒を飲むのもまた定番であったのだ。嵐山に行った後にはそのまま桂川を今度は市街地の方に向けて歩き、松尾大社や車折神社に寄り道したりしながら進んで、阪急の西京極のあたりで解散する、というルートが基本であった。友人の実家は桂側の南端の方にあるので、そのまま桂川を歩き続ければ家に着いていたそうである。

 私のバイト先は十条の方であったが、ここも友人の家から近い。なので、バイト終了後に友人と待ち合わせしたり、待ち合わせしていなくても勤務先の目の前にあるコンビニで待ち伏せされたりして、そのまま鴨川の方に行ってくいな橋のあたりでベンチに座り酒を一本か二本か飲んでから帰る、ということがよくあった。また、東九条などのコリアンタウンにも近く、バイトがない日にもこの辺りを歩いて何か面白い建物があったりしないか探したりしていた。しかしコリアンタウンといっても料理屋や居酒屋に入れる金がない以上は他の町をぶらぶらするのと大して変わりはない。そこを抜けて崇仁地区に行くこともあったが、こちらは取り壊しの最中ということもあり寂れた雰囲気が漂っていて、それが印象的だった。

 京都駅では大階段の先にある庭園で時間をつぶしたり空中通路をぶらぶら歩いたりしていたが、全体的に屋内で閉塞感があるし警備員が多くて「見張られている感」が強くもあるしで、あまり楽しいものでもなかったような思い出がある。京都駅の南側にあるイオンもイオンというわりには大きくなくて大したことがない。だから京都駅に集合しても結局ほかの場所まで歩くことになる。京都駅から七条まで行って、そこから旧五条楽園のあたりを歩くこともあった。そこに任天堂の旧本社を発見して「おお」となった日もある(私のバイト先は任天堂の下請け的なポジションにあるデバッグ会社だったから、任天堂に関連するものにはいちいち反応していたのである)。


 両親が海外に旅行したり出張したりしていて家が空いている日には、友人を泊めることもよくあった。このときには料理も作れるし家にある酒を屋内で誰に気にすることもなく飲めるので、普段外を歩くことよりリラックスして楽しめたものである。また、夜になったら二人で実家の裏手にある山道を歩いた。私の家は岩倉という地域にあるのだが、京都の中でも北のそれもかなり奥の方にあるエリアなために空気や水が綺麗で、初夏になるとかなりの数のホタルが舞う。観光地として有名な場所ではないからホタルを見に来る人も少ないしで、独占している感じがあってこれはかなり良かった。ただし、山道には「熊出没注意」の看板が常にあったし、目撃情報もたまに聞こえてきたから、それが恐ろしかったことはたしかだ。また、いちど林の奥の方に進んでみると見たことも聞いたこともない新興宗教的な団体の建物が林の中にぽつんと建っていて、恐ろしくなって引き返したこともある。

 大晦日も二人で岩倉で過ごして、私の近所の小さな寺で除夜の鐘をついてから、元旦には岩倉から三条まで歩いていって正月の河原町をぶらぶらする、という年もあった。しかし岩倉から三条まで行くのもかなりの距離であるので新年早々に疲れてしまったものである。また、岩倉の近くにある大原までバスで行ったり、叡山電鉄に乗って貴船に行くこともあった。特に貴船は電車賃以外に何もかからないわりにかなり充実しているし、夏に行っても冬に行っても市街地とは温度がだいぶ異なりひんやりしていて、別種の空間という感じがして大変よい。それに比べると、大原は拝観料を払って三千院に入らない限りは楽しめる要素が少ないのが困りものだ。

 金がなくても楽しめるものの代表といえば大学である。京都の大学は東京の大学に比べると部外者に対して寛容であり(すくなくとも警備員に注意されたことはない)、だいたいどこの大学にも気軽に入れるしラウンジやベンチなどに居座っていても怒られない。同志社大学はキャンパスが狭くて通路も狭くて閉塞感があってかなりイマイチなのだが、龍谷大学はなかなか人が通らない「デッドスペース」的な空間がかなり多く存在していて、探検するだけでも楽しかったものだ。京都大学は広いし自分たちの他にも学外からの観光客などが多々いるおかげで居心地がよかった。大谷大学は狭くてダメ。山の奥にある京都産業大学や清華大学などは行くだけで一つのイベントという感じがあってよかった。さすがに女子大には入らなかったが、学園祭などで公式に一般開放されている日は別である。正直にいうと知り合いもいない他所の大学の学園祭なんて行っても大して面白いことはないのだが、屋台で買い物をせず入場料や見物料が発生するタイプの出し物もスルーして、どこぞの歴史研究会なり写真愛好会なり国際ボランティアサークルなりの発表コーナーを眺めて「ふうん」とでも思っておけば、なにかいつもと違うことをした感じは得られる。

 2014年になってできた桂川のイオンモールもかなりよかった。アメリカの映画に出てくるショッピングモールのように大きいうえに吹き抜けの内装になっていて壮大なのである。ここでもいろんな店の商品を眺めたり店に入る人を眺めたりしていた。そして、洛西口駅を挟んで反対側にある洛西ニュータウンも実に歩き甲斐のある町だった。ニュータウンなんて京都には他にあんまりないから私たちにとってはとても新鮮だったのだ。「アニメに出てくる町みたいだな」と言い合いながら歩いていた記憶がある。


 後半になって友人も私と同じところでバイトを始めるようになると、彼にも交通費の余裕ができるようになったので、京都を出て琵琶湖に行ったり奈良に行ったりすることもできるようになった。そういえば神戸には行っていないし、大阪にもほとんど行っていないような気がする。大阪や神戸は交通費をかけて行ったところでさらに金を使わなければ楽しむことが難しいからだ(神戸には海があるし、大阪も新世界や道頓堀のあたりは歩いて観光しているだけでそれなりに楽しめるところがあるが)。それに比べると琵琶湖は自然そのものだし、奈良にも若草山があったり鹿がいたりで、交通費さえ払えばあとはコンビニのチューハイと菓子だけで楽しむことができた。

 もちろん、この時期にも四六時中友人と一緒にいたわけではないし、私ひとりで行動することもあった。いちばん思い出深いのは、舞鶴から片道23時間かかるフェリーで小樽まで行き、そこから電車で札幌や室蘭や苫小牧などに行ったことだ。この旅行では二ヶ月分以上のバイト代を丸々散財してしまったし、船や電車で移動する時間が多過ぎて、1週間近くかけたわりには内容の浅い旅行になってしまったが、こういう無駄な金や時間の使い方もフリーターのうちにやっておいてよかったとは思う。


 雨の日には散歩するわけにはいかない。そういう時には、屋内で酒や菓子を持ち込んでもよい空間をなんとか探して、そこに二人で数時間居座っていた。しかし、そういうスペースはあるにはあったのだが照明に乏しく、おまけに外は雨なので、かなり薄暗い状態になる。そんなところにずっと座っているものだから私も友人も気が滅入ってしまう。そして、フリーターであろうがニートであろうが、日々の生活がつらいことには変わりはない。さらに、お互いに他の友人と会っていないということは、他に鬱屈をぶつけられる相手もいないということだ。だから雨の日には会話をしているうちにいつも喧嘩が始まってしまったし、雰囲気の悪いまま解散になってしまうこともよくあった。

 喧嘩をしない日であっても、お互いの人生が前に進んでいないから、ロクな話にならない。周りに他の人間もいないから「誰それがどうこうした」というゴシップで盛り上がることすら難しい。だから、後ろ向きな思い出話くらいしかすることができなかった。いまでも覚えているのだが、この時期に二人で会話したなかでもいちばん盛り上がった話題が「現在の知識と人生経験を持ったまま大学に入学当初の18歳に戻れば、サークルで誰が誰に恋していたり誰がどんなことで悩んでいるかも事前に知っているから、人間関係で無双できるんじゃないか」ということだった。この話題で話し始めると会話に火がついて止まらず、実際に人間関係で無双している様子を互いに事細かに妄想しながら言い合っていくうちにその妄想のなかの無双状態が楽し過ぎて現実に戻ることが怖くなり、2時間近くずっとこの話を続けてしまった。

 

 そのうちに友人も東京に行ってしまい、それからしばらくして私も東京に行った。東京に行ってからも二人や新しい友人を加えて三人でいろんなところを歩いている。東京では二人とも生活の拠点は中野であるから、中野から新宿まで歩いたり中野から江古田や練馬まで歩いたり、それか新宿から渋谷まで歩いたり新宿から下北沢まで歩いたり九段下から新宿まで歩いたり上野や秋葉原や日暮里に行ったり六本木や荒川に行ったりたまに川越に行ったり、などなどだ。東京ではどちらもフルタイムの契約社員なり正社員なりにはなったりしたので収入は以前よりも上がったが、その大半が生活費に取られるので、贅沢ができないという点では以前と変わりはない。居酒屋に行くこともあるが、相変わらずコンビニで買った酒と菓子を外で飲み食いして済ませることも多い。京都に比べると東京にはあちこちに警官や警備員が立っていて居心地の悪い思いをさせられることがよくある。そもそも昔と違ってフルタイムでがんばって働いているのだから生活のことを気にせずに好きなときに居酒屋に入れたり屋台で買い物できるくらいの給料はほしいものだが、なかなかそうはいかないものだ。しかし、昔と同じように、交通費とコンビニの出費だけで済ませられる交遊をしてくれる友人がいることは貴重ではあるだろう。


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