フェミニズム"理論"への向き合い方


前回の記事と同じく、この記事も最初は「わたしとフェミニズム」だとか「わたしの、フェミニズムへの向き合い方」だとかの題名でもっと個人的・私的な内容を書くつもりだったのだが、前置きのつもりで書き始めた「一般論」の部分が長くなり過ぎてしまったので分割することにした。)


 わたしがフェミニズムやジェンダー論の考え方に最初に触れたのは中学生の頃で、斎藤美奈子という書評家の本がきっかけだった。彼女の『趣味は読書。』という本が新聞で取り上げられていたのを目にして本屋で購入して、書評というもの自体にそれまでほとんど触れたことがなかったから面白く読めて、彼女の他の著作もいくつか手に取った。そのなかには、フェミニズム的な文学批評として有名な『妊娠小説』や、同じくフェミニズム的なサブカル批評である『紅一点論』という本があった。また、わたしに特に強い印象を与えたのが『物は言いよう』という本だ。これは前述した二つよりも軽い内容の本であって、当時の政治家や文化人や芸能人たちの発言を取り上げてそこに含まれている性差別性やセクハラ性などを解説する、というものだ。つまり理論や思想史を丹念に解説するタイプの本ではなく、フェミニズムにおいてはどのような考え方やどのような発言が問題視されるか、どのような考え方が性差別とされるか、という「コード」を具体的に示す本だったのである。軽いタッチで書かれているものだったしその内容もさほど難しいものではなかったが、だからこそわたしにとっては「フェミニズム入門」や「ジェンダー論入門」の役割になる本であった。

 大学に入ってからは、学部時代には専攻していた科目(アメリカ文学)の勉強にはあまりに熱心ではなかった代わりに、歴史や社会学や哲学をはじめとした文系に属する様々な学問の入門書や一般書、またはあまり専門的過ぎないタイプの学術書を読み漁っていた。その中には当然フェミニズムやジェンダー論の本も含まれており、フェミニズムの理論や、フェミニズムを各種の学問分野に適用したり応用したりするタイプの議論には詳しくなれた。

 また、大学院時代には修士論文でフェミニズム倫理を扱ったので、当然のことながらフェミニズム倫理やその周辺の理論についてはそれなりに詳しくなった(洋書の論文集だって何冊も読んだものだ)。

 ついでに言うと、学部〜大学院を通じて「指導教官」的なポジションの人が3人ほど存在したが、そのいずれもが女性であったし多かれ少なかれフェミニズムに関係する研究をしている人たちであった。しかし、わたしはゼミすらも頻繁にサボるくらい授業態度に問題がある学生であったし、教官らの指導もほとんど受け付けていなかったから、彼女たちから特に影響を受けたということはない。

 いずれにせよ、上述の経歴により、フェミニズムに関係する知識面の理解度であれば、私の方が一般的な学部卒や修士卒の文系の男性たちを上回っているとは思う。また、理論や知識だけでは表現しきれないフェミニズムの「コード」についても、平均的な男性よりかは把握できていると思う。つまり、どのような行動や主張をすればフェミニストから怒られたりフェミニストたちから特に軽蔑に対象とされたりするような発言や考え方とはどんなものであるか、ということに関する感覚的な理解が多少はできているということだ。…ただし、よく言われるように、フェミニズムは知識や理論には還元できないことも確かである。フェミニズムには社会運動という側面もあれば生き方という側面もるし、さらに他の側面もあるだろう。私は社会運動としてのフェミニズムに関与したこともないし、私の生き方にフェミニズムが関わることもほとんどないため、これらについては門外漢と言うしかない。


 さて、フェミニズムの理論やコードに関する知識を人並み以上に持っているとしても、だからと言ってフェミニズムを支持するかどうかはまた別問題だ。

 そもそも、ひとくちにフェミニズムと言っても、上述したように理論やコードや社会運動や生き方などの様々な側面が関わるものだ。そのどれを支持したり実践したりするかは「フェミニスト」と自称・他称されている人たちの間にもかなりの違いがあるだろう。

 また、理論としてのフェミニズムにすら、様々な側面が入り混じっている。まず、「〇〇する(△△しない)ということは性差別であり、私たちは〇〇してはならない(△△しなければならない)」といった規範的主張を展開する「規範理論」としての側面がある。文学作品や芸術表現に表れている性差別意識や女性の主体性などなどを発見したりする「批評理論」としての側面もあるだろう。男性による物の見方が中心とされていた歴史学で見落とされていた物事を発見するための歴史学的理論としてのフェミニズムも存在するし、倫理学や経済学や論理学や生物学にだって「フェミニズム」を関する理論がそれぞれ存在するのだ。これらの理論についてはそれぞれについてある程度の知識を得てから個々にその妥当性を判断するしかないだろうが、全ての理論について判断することは不可能ではないとしてもかなりの労力を要するし、個々の理論についての判断と総体としての「フェミニズム」に関する判断はまた別の領域に属する事象であるかもしれない。

 とはいえ、メディアやネット上などにおいてフェミニズムが人々の目に付くときには「規範理論」か「批評理論」のどちらかに関する話題であることが大半なように思える。

 ひとまず、今回はこの二種類の理論について考えてみよう。


「規範理論」としてのフェミニズムには、文句の付けようのない基礎的な主張を行なっている面もあれば、人によって判断が分かれるようなより複雑で微妙な面もある。

 フェミニズムの行う規範的主張の中でもごくごく基礎的なものとして、「女性は男性と等しい道徳的地位がある」「女性の権利は男性の権利と同等に認められるべきである」「女性と男性は平等に扱われるべきである」といったものがあるだろう。フェミニストたちの間でよく使われるクリシェとして「フェミニストでないなら、セクシスト(性差別主義者)である」というものがあるが、このクリシェは、上述したような基礎的な規範的主張だけをフェミニズムと呼ぶのであれば正しい主張と言える。「男性は女性よりも優れた道徳的地位がある」と主張したり「男性の権利に比べて女性の権利は制限されるべきである」と主張したりするような人は、九割九分が性差別主義者であるからだ。

 しかし、「女性と男性との平等な地位を実現するためにはどのような施策が行われるべきか」とか「"女性と男性とを公平に扱う"とは何を意味するのか」とかいったより具体的で実施的な事柄に関する規範的主張となると、人によって賛否が分かれるようになる。夫婦別姓や女性専用車両、女性議員や女性役員のクオータ制や諸々のアファーマティブ・アクションなどに関する議論は、具体的な事柄に関する規範的な議論と言えるだろう(「性暴力」の定義など、より深刻で難解な事柄に関する議論も存在するが、これに関しては今回は触れないでおく)。これらの議論においては、施策の意図や目的という規範面の議論に、さらに施作の有効性やその測定という経験的な事柄も関わってくる…。また、女性専用車両やアファーマティブ・アクションといった議論に関しては、それらに反対する人であっても大半の場合には「自分は男女平等主義者であり、性差別主義者ではない」と表明していることもポイントとなってくるだろう。「平等」や「公平」の実質に関する具体的な議論においては、「フェミニストでないなら、セクシストである」というクリシェも通用しなくなってくるのだ。

 現代社会において性差別や男女平等が関与してくる事柄は多数あり、その全てについて理論的に検討したり経験的な部分を調べたりしてから議論に参加したり自分なりの考えを示すことは、現実的には不可能に近い。さらには、「フェミニズムは一人一派」の言葉が指す通り、どんな事柄についてだって他のフェミニストたちとは異なる主張を展開するフェミニストを発見することもできる。「個々のフェミニストが個々の事柄についてどんな主張を行なっているか」なんて、調べきれるわけがない…。

 ここで役に立つのが「コード」の発想だ。例外的に主流派とは異なる主張を展開しているフェミニストがいるとはいえ、大半の事柄については大半のフェミニストたちの間で意見が一致している(女性専用車両は維持されるべき、アファーマティブ・アクションやクォータ制は導入された方がよい、などなど)。そして、「この事柄についてはフェミニストたちの多数派はなんと主張しているだろう」ということは普通に調べていればなんとなくわかってくるものであり、個々のフェミニストたちが主張する理論の細部は違っていても「どこの部分がおおむね共通してくるか」ということは判断できてしまうものである。このような漠然とした「コード」をまず把握して、それに共感できたり同意できたりするなら「(この規範的主張に関しては)フェミニズムに賛同する」と結論すればよいし、そうでないなら「(この規範的主張に関しては)フェミニズムに反対する」と結論すればよい。そして、もしもその問題についてより詳しく考えたいのなら、そのときには漠然とした「コード」を軸に考えることは止めて、少数派も含めた個々のフェミニストたちが主張するそれぞれの理論について詳しく調べていけばいいのだ。


 批評理論としてのフェミニズムは、ここ数年のメディアやネットにおいては「公共の場における性的表現」の是非や程度に関する議論の際に存在感を発揮する(ただし、このような議論においては規範的な理論も関わってくるのだが)。また、文学や映画に関する「フェミニズム批評」もずっと前から存在してきたものであるが、最近ではフェミニズム批評がメディアに取り上げられる機会も多くなった。

 批評理論についても、規範的理論に対する場合と同じく、おおむねの「コード」を察してから自分のスタンスを決めるのが無難であるように思える。ただし、文学批評や映画批評の場合は個々の論者によって強調する点が変わってきたり用いられる理論が違ってきたりする側面は大きい。幸いなことに文学批評家の映画批評家の数には限りがあるので、それぞれの論者ごとにその主張をチェックして、同意するか同意しないかを自分で決めることは可能だろう。

 私個人の意見を言うと、公共機関における性的表現の扱い…特に、いわゆる「萌え絵」が公共PRで使われてそれに胸や股間などを強調する表現が含まれているたびに起こる議論においては、私は大半の場合にフェミニズムに賛成している。主流派のフェミニストたちの主張する理論は「程度問題」やTPOを意識した穏当なものであるのに対して、性的表現の自由を主張するアンチ・フェミニスやごく少数のフェミニストたちの主張する理論は原理主義的であり突飛なものであることが多いからだ。

 …とはいえ、公共空間における性表現をめぐる議論に対する私の向き合い方を自省してみると、個々の理論以上にそれらの理論を主張している人たちの「人柄」や「態度」が私の判断に影響を与えていることも否めない。そして、実のところ、理論そのものの正否だけでなく議論の場における各陣営の人柄や態度も、物事を判断するうえでは重要な指標になるように思えるのだ。


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