村上春樹の個人主義と、その参考にならなさ

 

(このエッセイは最初は「村上春樹とわたし」という題名で書いていたが途中で方針転換した。そのため、序盤ではわたしが村上春樹の作品に出会ってきた経緯を書いているが、途中からは別の話題に切り替えて書いている。)


 はじめに村上春樹の本に触れたのは中学生のときで、『うずまき猫のみつけかた』というエッセイだ。わたしは小学生の頃は青い鳥文庫などの児童向けミステリーを読んでいて、中学に上がってからは新潮文庫などで大人向けのミステリー小説も読み始めていたのだが、ある段階で「ミステリー小説なんてどれもこれも同じだ」と気付いて嫌気が差してしまった。しかし、当時はミステリーやSFなどのジャンル小説ではない小説の存在によく気付いておらず、何を選択すればいいのかもわからなかったので、しばらく本を読んでいない時期が続いていたのだ。そんな時期に、見かねた父親が新潮文庫の『うずまき猫のみつけかた』を買ってくれたのだ。ただし、父親がこの本を読んだ経験があるから積極的におすすめしてくれたというわけではない(そもそもわたしの父親は日本語を読むことが得意ではないので日本語の本はほぼ読まない)。単に父親が知っている日本の作家が村上春樹くらいしかおらず、本屋の棚から適当に手に取った結果が『うずまき猫のみつけかた』だったのだ。

『うずまき猫のみつけかた』は『やがて哀しき外国語』と同じく春樹が90年代の前半にアメリカに滞在していた時に書かれたものだが、『やがて哀しき外国語』ではお堅い文明論や比較文化論が多めであったのに対して、『うずまき猫のみつけかた』は絵日記風の身辺雑記といった緩い内容だ。どこかが特別に面白かったというわけではないのだが、中学生であったわたしはそもそも「エッセイ」というジャンル自体をほとんど読んだことがなかったから新鮮であったし、ユーモラスで断定の少ない内容にも惹かれるものがあった。それからというもの、80年代初頭の牧歌的な生活を綴った『村上朝日堂』やギリシャとイタリアにおける長期滞在について書かれた『遠い太鼓』など、当時に出版されていた春樹のエッセイのほとんどを読み尽くしたものである。

 さらには、90年代の後半や2000年代の前半にネット上で開設されていたホームページで受け付けられていた春樹と読者とのQ&Aをまとめた『村上朝日堂 夢のサーフシティー』と『村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』も購入して読んでいた。これらの本の紙面でもQ&Aの抜粋が収録されているが、付録のCD-ROMには紙面の10倍以上の数のQ&Aが収められている。特に『村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』のCD-ROMには4,000以上ものQ&Aが収められていたはずだ。春樹作品の内容や感想に関するQ&Aも多いが、仕事や恋愛や生活などに関する「人生相談」的なものもかなり多い。そして、わたしは作品に関するQ&Aよりも人生相談の方を積極的に読んでいた。他人の相談に答えるときには、小説やエッセイを書くときよりも本人の価値観がより率直に表明されるものだ。高校の1年だか2年だかの春休みが終わる頃には数千の人生相談のほぼ全てを読み終えた私は、村上春樹の価値観を自家薬籠中のものとしてしまったのである。

 一方で小説はというと、これも中学生や高校生の頃から読んではいた。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にはピンとこなかったりもしたが、どの作品もおおむね楽しんで読んでいたように思う。しかし、春樹の小説を本格的に読み返してその内容の良さを理解したり使われている技巧を発見したり書かれているテーマについて深く考えるようになったのは、大学生になってからだ。もちろん高校生の頃と比べると多少は精神的に成長していたから書かれている内容について理解できる範囲が広がったということもあるが、それよりも、大学生時代の前半に自分でも拙いながら小説を書くようになったということが大きい。絵画でも音楽でもスポーツでもなんでもそうだとは思うが、自分が趣味として嗜むことで初めてプロのやっていることの「すごさ」や実力というものが理解できるようになるものである。


 ところで、春樹のホームページに掲載された人生相談のなかでも、妙に印象に残っているものがある。といってもホームページはとっくの昔に閉鎖されているし、『夢のサーフシティー』や『スメルジャコフ対織田信長家臣団』のCD-ROMも紛失してしまって手元にはない。だから正確な引用をすることはできないのだが、たしか、以下のような内容の相談であった。

「僕はあなたのエッセイや小説を読んで影響を受けてしまい、ずっとあなたに憧れてあなたを真似しようとして生きてきましたが、最近になってあなたのような生き方は僕には無理だと自覚して、これまでの生き方は失敗だと気付きました。言うならば、僕の人生はあなたのせいで台無しにされたようなものだと思っています」

 こんなことを言われても村上春樹本人も困る。回答は「僕に言われても困ります。自分の人生なんだから自分で責任を取ってください」と相談主を突き放すようなものであった。

 だが、「村上春樹に影響を受けたせいで人生を台無しにされた」と感じる気持ちはわからないではない。村上春樹の価値観や考え方とそれに基づいた生き方は、多くの人が憧れて理想の対象にするようなものだ。同時に、その考え方や生き方は、凡人がトレースして真似するのがかなり難しいものでもある。「村上春樹のように生きる」ためには相当な「能力」が必要とされるのであり、能力もないのに表面上だけ真似しようとして生きる人には惨事が起こることは否めないのだ。


 村上春樹の価値観を一言でまとめてしまうと「個人主義」であるだろう。自由主義の要素も強いが、なによりも根底には個人主義がある。個性を抑圧して秩序を押し付ける「学校」を何よりも嫌うし、会社に所属して人の下で働いたこともない。世間のくだらない規範や空気を良しとしないし、同調圧力に屈してしまった人に対しては軽蔑を隠そうともしない。日本社会に面倒を感じたら外国に移住して数年間滞在するという判断ができてしまうし、また必要を感じればさっと日本に帰国することもできる。家庭や親族に縛られている様子もないし、友人や仕事上の義理がある相手に対しても相手との関係が悪くなることを恐れずに断固として反対することができる…。その価値観は作品にも反映されており、彼の作品に悪役が登場するときには「社会」の側に立った権力を持つ存在であり、大衆は容易に悪役に扇動される頼りない存在で、主人公は基本的に我が身一人で立ち向かう(場合によっては、ごく少数の理解者の力を借りることもあるが)。

 そして、彼の個人主義は自身の「能力」に裏付けされているところが大きい。作家としての成功が小説家としての能力に裏付けされていることはもちろんだが、それ以上に重要なのが、大学在学中からジャズ喫茶を開業してその経営に数年以上も成功していることだ。いくら当時の日本が現在とは経済状況などが違うとしても、個人で飲食店を開業するという決断は自分自身の「社会的」な能力に自信がなければできることではない。自分自身の才覚に自覚的であるからこそ「会社に入ったり同調圧力に屈したりせずに、自分の生き方や考え方を貫いていこう」と思うことができて、それを実行できるものなのだ。

 そして、「世間の風潮に屈しない」ことや「安易に他人に同調せずに、自分の生き方や考え方を貫くこと」は、一般論としても良いこととはされている。ただし、それは理想論であって、普通の人であれば多かれ少なかれどこかで同調圧力に屈して自分の考え方や生き方を曲げなければいけないものだ。…ところが、村上春樹はそうではない。というか、彼が世間に対して表向きに発信している情報(エッセイやインタビューなど)を見聞した限りでは、村上春樹は人生において一度も他人に己が身を委ねたことのなく、常に社会に対して個人で立ち向かって成功を収めることで自己の正当性を証明してきた、という存在に思えてしまう。それはある程度までは事実なのだろうが、おそらく村上春樹自身が開示する情報を戦略的に取捨選択してきて自分のイメージを構築してきた側面も大きいだろう(無意識な部分や、自分で構築した自己イメージに本人自身が影響されている点も大きいと思うが)。

 また、現代の作家というものは普通は自分の「弱さ」や「滑稽さ」をウリにすることが多いものだが、春樹はエッセイなどにおいても弱音を吐くことがほとんどないし(「苦しい目にあった」というエピソードは、ほぼ必ず、「それを克服した」という余談付きで過去形で語られる)、軽いユーモアや自虐は書いても自分のイメージを崩さない一線は守って「滑稽さ」を生じさせないようにしている。このことが、小説のみならず春樹本人のファンになる人を数多く生み出し、彼の生き方に憧れる人をも多く生み出す理由になっているのだ。

 一方で、春樹は自分の個人主義や生き方が特殊で優れたものであると誇らしげに書いたり自慢したりしないこともポイントだ。むしろ、自分の個人主義を普遍的なものであるかのように書かれている。彼の生き方はどう考えても特殊で超人的なものであるのに、まるで「これが普通の生き方であり、人が当然になすべき生き方である」という風に表現するのだ。そして、人生相談においても、個人主義を実践することを当たり前のごとく他者に要求する。価値観や生き方を押し付けているわけではないが、春樹のように個人主義的な生き方をしたくても様々な能力や事情からできない人が大多数であることは、いまいち理解する気がないようなのだ。

 …余談になるが、同僚だか友人だかへの嫉妬に苦しんでいる女性の相談に対して「僕は嫉妬という感情を経験したことがない」と返答していることが印象的だった。本当に嫉妬というものを一度もしたことがないのか誇張した表現であるかはわからないが、確かに、春樹のような生き方をしていたら他人に対するネガティブな感情にとらわれることはなさそうだ。だが、そもそも、嫉妬という感情を経験したことがないような人間離れした存在に対して人生相談をすること自体が的外れであるのだろう。


 さて、あまりに若い頃から春樹のエッセイや人生相談ばかりを摂取してしまって、それを相対視する他の価値観にも触れないでいると、彼の価値観がさも当然に遵守すべき理想のように思えてしまう。つまり、彼の個人主義は「能力」が前提となっていることに気付かないまま、同調圧力に屈しなかったり集団に与しない彼の姿勢や生き方だけを参考にして真似しようとしてしまうことになるのだ。

 …しかし、凡人である大半の人にとっては、春樹の個人主義は参考にならない。どこかで諦めて、社会に屈して世間に溶け込む凡人なりの生き方へと軌道修正しなければならないタイミングが訪れるだろう。おそらく、そのタイミングは早ければ早いほど本人にとっては幸福だ。だから、取り返しのつかない段階になってから「やっぱり自分にはこの生き方は無理だ」と気付いてしまった人が春樹本人に対して「責任を取れ」と言いたくなるのは、それがいくら理不尽で情けない行為であっても、わからないではないのだ。


 ついでに書いておくと、恋愛や異性関係に関する春樹の人生相談も、凡人の参考にはならないような回答ばかりであった。彼の個人主義と同じように、彼の女性観や恋愛観も「声をかけて好意を示したいと思ったらいつでもそれを行うことができる」ことや「欲しくなったらいつでもそこらから女性を調達して寝ることができる」ことなどの能力を前提としたものである。そのために彼の恋愛観は自由主義的で競争主義的なものとなっているし、それが根底では女性をモノとみなす保守的でセクハラ的な女性観とセットになっているのだ。とはいえ、一人の(性的に成功してきた)人間の実人生に裏打ちされたものではあるため、同じく女性をモノ扱いする側面を持ってはいても「恋愛工学」のような人工的で非現実的なノウハウよりはずっと中身を伴ったものではあるし、取捨選択すればライフハックとして使えなくもない面もありはした。

 …だが、特に男性の場合、そもそも好きな作家がいてその作家のホームページにわざわざ恋愛相談を寄せるような内向的な人物は性的に成功していないことが大半であるはずだ。そのような人物がプレイボーイからのアドバイスを受けたところで、前提となる能力が違うのだから、そのアドバイスを実行することは難しい場合の方が多い。やはり、彼らは相談する相手を間違えていたように思える。

 

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