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ブルクハルト「世界史的考察」その5

諸芸術の一番外れのところに、たぶん間違いなく、建築とうわべだけの親近性を持つ物として、音楽が来る。この音楽のもつ本質の根底を究めるためには、音楽を歌詞と関連させたり、ましてや劇における演出と関連させたりせずに、器楽として考察しなければならない。

音楽の置かれている位置は不可思議に謎めいている。詩歌、彫刻そして絵画は、いずれにしろ高められた人間生活を表現するものとして振舞うことがあるかもしれないが、音楽はこうした人間生活の比喩にすぎない。

音楽は彗星のようなものであり、それは人間生活の周囲を途方もなく広大で、高い軌道の上を回っているが、やがて突然また、ほかのどの芸術もなしえないほどに人間生活の近くにためらいがちに近づき、人間にその最も内奥の部分を解き明かすのである。

音楽はある時は幻想的な数学であるかと思うと、今度はまたただひたすら魂以外のなにものでもなく、限りなく遠くにありながら、しかも近くにあって親しみ深いのである。

音楽の及ぼす作用は非常に大きく、かつ直接的であり、そのため感謝の念はただちにその作曲者が誰であるかを問い、思わず知らずその人の偉大さを人々に言いふらしてしまう。

偉大な作曲者たちはそのことについて何ぴとも異論を立てることのない偉大な大家たちの中に数え入れられる。

彼らの不滅性となると他の芸術家たちの場合より不確かである。彼らの不滅性はまず第一に絶えず新たになされる後世の努力、すなわち演奏にかかっている。そしてその演奏はそれ以後の、そしていつも、同時代の作品のすべての演奏と競わねばならないが、一方ほかの諸芸術はその作品を二度とない最後のものとして提示することが出来るのである。

そして第二に音楽は我々の音組織とリズムがこのまま存続するということにかかっているが、それは永遠に続くものではない。

モーツァルトとベートーヴェンは将来の人類にとって理解しないものとなるかもしれない。これは当時の人々によって非常に高く称賛されたギリシャの音楽が現在のわれわれには理解しえないのと同じことである。モーツァルトやベートーヴェンはそんな時にはあくまでも、我々の時代の有頂天な報告に基づいて、それを信用したうえで偉大と言われることになろう、たとえばその作品が失われてしまった古代の画家たちのように。

(音楽についての抜粋でした。)

クラシックがどこまで残るかは分からないですけど、昭和の歌謡曲とかを今ガンガン聞くって人は、若ければそこまで居ないでしょうから、歌詞は良くても生き残っていくのは難しいんでしょうね。。

(ちなみに自分の好きなバンドとかは、syrup16g,grapevine,yuiさん(flower flower)とかですかね。誰か好きな人いるかな?)

わ〜い!😄