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最近、好きなこと。

最近、思う事がある。普段の、日常の過ごし方の「反動」が余暇の、休日の過ごし方に現れるのではないかと。
以前の私は休日に遠出するのが好きだった。刺激や非日常を求めて「日常」から必要以上に距離を取りたがっていたように思う。
当時の私は日々を「同じような事の繰り返し」と考えていた節がある。変わり映えのしない日々に反発して、何かいつもと違うことをしなければと休日を迎えることに息巻いていた。

最近、好きなことがある。公園に行き、本を、小説を読むことだ。
気温は少し低いが、日が照れば薄手の上着一枚で十分暖かい、そんな日がベストだ。
残念なことにもう散ってしまったが、金木犀の咲く時期が一番いい。やはり残念なことにその期間はとても短く、そう何冊も読まないうちにその芳醇な季節は去るのだが。

話が逸れるが以前、金木犀のお香を買ったことがある。実物に及ばないまでも乾いた部屋に満ちる空気が淡く染まるような良物だった。
しかし、再び購入することはなかった。自論だが金木犀は街中を歩く時にふと香るからこそ、良いのだ。常に充満させたり、香水として身に纏ったりするものではない。
見た目が控えめなのがまた、良いのだ。街中を歩く時にふと香るその香気で金木犀の存在に気付き、顔を上げて周りを見渡した時に初めて、あの控えめでありながら鮮やかな橙色の花弁を見つけるからこそ、良いのだ。
年中咲かないからこそ、良いのだ。街中でふと香る金木犀の香りが、私たちの気付かない内に既に季節が移り変わったことを知らせてくれる。咲き始めた頃には既に散る事を惜しむからこそ、私たちはできる限りにその儚く芳しい季節の一瞬を愛おしむのだ。

そんな金木犀が香る公園で、金木犀が散った今もだが、本を読むひとときが最近の私の好きな事である。
ベンチに座るよりも木の根に腰かけるのが好きだ。だから私は多少泥や草が付いても構わないように読書する時には必ずジーパンを履く。背中に樹皮の切れっ端が付いてもいいように高いジャケットは着ない。
これが私なりの「読書の正装」なのだ。

良い感じに日が差しつつ、揺れる葉っぱが日陰を作ってるような木を見つけたら腰掛け、JBLのスピーカーのスイッチを入れ、セブンで買ったホットコーヒーの飲み口を空ける。

最初の一曲目が大事だ。

Maroon5の『Memories』か、ハンバートハンバートの『横顔しか知らない』か、『人生のメリーゴーランド』や『いつも何度でも』、『風になる』辺りのジブリ音楽はいつ流しても間違いはない。平原綾香の『明日』やSimply threeの演奏する『See you again』も捨てがたい。

イヤホンで周囲の音を遮断して世界に没頭するのも良いが、公園で本を読む時には周囲にも耳を傾けていたい。音楽の中に風に揺れて擦れあう葉っぱの音や、子どもたちの笑い声や、犬の散歩をしてる人たちの何気ない会話が聞こえてくるのが心地良い。

最近、それなりに忙しい日々を送っている。「忙しい」という字を「心を亡くす」と書き表した人は本質を突いているとつくづく思う。幸いな事に私自身が心を亡くす程に忙殺されたことは今の所ないが、心を病む人たちは忙しかったのだろうな、と想像する。
忙しいと人は「余裕」を亡くす。余裕がないと人は「気付けない」。周りにある美しいものや温もりに。幸せは周りに転がっていると人は言う。確かにそうかもしれないが、人は忙しいとその事に気付けない。
人は忙しいと何かを恨みたくなってしまう。境遇だったり、ルールだったり、自分ではない誰かだったり。

平日、通勤で使う道を休みの日に通るだけで普段気付かなかったものと出会うことがある。私は会社の前の通りを、車通りの多い喧しい道としか見ていなかった。それが遙か先まで続く、美しいイチョウの並木道であることに今日まで気付かなかった。

今の仕事柄、「納期」や「期日」がつきまとう。複数の案件がいつも同時に私の頭を悩ませる。
その「反動」が、時間を忘れてたった一冊の本を読み耽る、という私の今の余暇に反映されているような気がする。ようやく話が最初の話題に戻った。

最近転職した私は今、日々を新しい場所と仕事と環境で過ごしている。目まぐるしい日々は以前感じていた「同じ日々の繰り返し」とはかけ離れたものだ。

遠くに行きたい、新しい刺激を受けたい、と無意識的に乾いてたあの頃とは違い、むしろ日常に身を浸していたい。穏やかで緩やかな時間の中にただ溶けていたい。

天気の良い日にコーヒーと本を持って公園に行き、フィクションの世界に没頭して、ふと本から目を離して顔を上げた時に、黄や紅に変わる途上の葉が陽光を受けて煌めいてる景色や、少女が鳩を捕まえようと足を忍ばせて近づいてる場面や、家族でシャボン玉を飛ばしている場面を見ると、心が凪ぐのだ。高揚感や達成感とは違う、暖かい幸福感がゆっくりと心を満たしていくのだ。

昼過ぎから夕方までそうして過ごした時に、側から見れば有意義でも生産的でもない時間を今日も過ごしたな、と思う。
そんな時、以前どこかで目にした言葉を思い出す。「生きていく上で必要のないものこそが、人生を彩る」のだと。
こうして、noteを書いていることだって何の意味もない。私が休みの日をどう過ごしているか、なんて誰が興味あるだろうか。
noteを書く時、どうしてもテーマや伝えたい事を設定しがちだし、本来そうあるべきなのだろうとも思う。実際そうして書いてきた。しかし、今日は本当にとりとめのない事をだらだらと書いてみたくなった。
誰にとっての得にもなりはしないが、とりとめのない日々と物事の積み重ねを人は人生と呼ぶのだから。

普段は時間に追われて有意義で生産的な日々を送っているのだ。休みの日くらい、私は時を忘れて有意義でも生産的でもない、空想の世界の中で私自身の心を満たしておこう。

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