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私のちっぽけな信仰心。

周りから見ても、私は決して熱心な信徒ではなかったろうと思う。

祖父母の代からキリストを信仰するクリスチャンの家庭に生まれ育ち、30年近くをこの宗教と信仰と共に歩んできた。10代最後の一年間を聖地であるイスラエルに赴き、聖書と信仰に向き合ったこともあった。
背いたことも、離れたこともないが、別に毎週教会に行く訳でもない。日曜の朝くらいゆっくり休んでいたいと正直、思う。
だが、そんな私にも「私なりの信仰心」があった。
我が国日本における宗教への風当たりは決して優しくない。
「洗脳」「弱者からの搾取」、精神的に脆い人間が「嵌ってしまう」もの、「金儲け」そんなネガティブなイメージを抱かない人間の方が少ないのではないだろうか。
総じて、「現実逃避」だと捉えられることが多い。現実に行き詰まった人が、現実では生きていけない人が、辛く苦しい現実から目を背けて、幻想的な「救い」を求めて、現実とは違う世界に逃避する、この「逃げ道」が宗教である、と。

私はこれを払拭したかった。そうではないと私自身の生き様で示したかった。
現実のいかなる障壁をものともせず、突破し、打ち克ち、この世のものでは成し得ないものを成すのが信仰だと、勝機のない戦いに勝利し、届き得ない高みに自身を押し上げるものが信仰であると、その確信とエネルギーこそが信仰だと、私はそう信じて生きてきた。

この信念は本質は今でも変わらず持ち続けている。しかし、これとは少し違う信仰を今の私は抱いている。

私はこれまでの人生で多くの挫折を経験したし、迷いや葛藤を経験してきた。
挫折や困難を十分に知ったつもりになってしまっていた。だが「社会」というものは私が思っていたよりも少しだけ、私が経験してきたものよりも少しだけ、手強かったようだ。

毎朝、出社前に必ず聖書の一節を読み、祈ってから出発するようになってから一年半ほどが経つ。

主は私の牧者であって、私には乏しいことがない。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主は私の魂を生き返らせ、御名のために私を正しい道に導かれる。
たとい私は死の影の谷を歩むとも、災いを恐れません。
あなたが私と共におられるからです。
あなたのむちとあなたの杖は私を慰めます。
あなたは私の敵の前で、私の前に宴を設け、私のこうべに油を注がれる。
私の杯は溢れます。
私の生きている限りは、必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう。
私はとこしえに主の宮に住むでしょう。

詩篇第23篇

これは私の燻っていた信仰心が目覚めた証だろうか。

そうではない。そうでもしないと私は恐怖で押し潰されてしまいそうなのだ。
毎日が怖くて怖くて仕方ないのだ。かつては希望しか見出していなかった「明日」が来てしまうことが堪らなく恐ろしいのだ。

私は自身のことを優秀な人間だと評価している。大抵のことは人並み以上にこなせる。不測に対応する適応力も経験も備えている。だからこそ以前の私は「強い」自分をより強くするものが信仰だと、そう思っていた。

だが私はかくも弱かった。弱くて脆かった。主よ、貴方が私を支えてくれなければ私は真っ直ぐに立つことさえできないのです。

だが今にして私は思う。強さを誇っていたかつての自分のままでいることは、強いと思いこんだままでいることは、弱くあるよりもずっと恐ろしいことであると。

私は弱いからこそ、神に祈り頼ることを知ることができた。神を知らなければ、私は嬉しい事があった時に何に感謝すれば良いのか、辛く苦しい時に誰に助けを求めることができるのか、知らずに生きていただろう。

正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。
主は心の砕けた者に近く、魂の悔いくずおれた者を救われる。
正しい者には災いが多い。
しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。

詩篇第34篇(17-19)

神を知らない私は、成功を自身の力だと自惚れ、尊大になりはしなかっただろうか。

神を知らない私は、目に映る景色に、野に咲く花に感動を覚えることができたのだろうか。

神を知らない私は、私に繋がる縁に、日々の巡り合わせに感謝することができたのだろうか。

私は非力で弱く、真っ直ぐに立つこともままならない、ちっぽけな人間に過ぎない。だがこのちっぽけさを私は嬉しく思おう。私の持つこのちっぽけな信仰心を、私はこれからも大切にしていこう。

誰かが弱っているのに、私も弱らないでおれようか。誰かが罪を犯しているのに、私の心が燃えないでおれようか。
もし誇らねばならないのなら、私は自分の弱さを誇ろう。

コリント人への第二の手紙第11章(29-30)

むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。

コリント人への第二の手紙第12章(9-10)

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