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論語と算盤⑥人格と修養: 5.修養は理論ではない

修養はどこまで行(や)らねばならぬかというに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは、最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行なうべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。
さて、この実際と学理の調和ということは、特に述べておかねばならぬのである。要するに、理論と実際、学問と事業とが互いに並行して発達せないと、国家が真に興隆せぬのである。如何ほど一方が発達しても、他の一方がこれに伴わなければ、その国は世界の列強間に伍(ご)することはできぬと思われる。事実ばかりで満足とは言われず、また学理のみでは立つことができないので、この両者がよく調和し密着する時が、すなわち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。
右に対する例証はたくさんあるが、これを漢学に求めてみれば、孔孟の儒教は支那においては最も尊重されて、これを経学または実学といって、かの詩人または文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある。しかして、それを最もよく研究し発達せしめたのが、かの支那宋末の朱子である。蓋(けだ)し朱子は非常に博学で、且つ熱心にこの学を説いたのである。ところが、朱子の時分の支那の国運はどうであったかというに、丁度その頃は宋朝の末で、政事も頽廃(たいはい)し、兵力も微弱にして、少しも実学の効は無かったのである。すなわち学問は非常に発達しても、政務は非常に混乱した。つまり学問と実際とが、全く隔絶していたのである。つまり本家本元の経学が宋朝に至りて、大いに振興したにも係わらず、これを採って実際に用いなかったのである。
しかるに日本においては、その空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用したため、かえって実学の効験を発揮したのである。これを善く用いたのは徳川家康である。元亀(げんき)、天正(てんしょう)の頃は日本を二十八天下と称して、国内麻のごとくに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽くしておったのである。その中(なか)にて家康は大いに達観して、到底武のみをもって治国平天下の策とすべきでないということを悟り、大いに心を文事に注いで、支那においては、死学空文であった朱子の儒学を採ったのである。当初、まず藤原惺窩(ふじわらせいか)を聘(へい)し、次いで林羅山(はやしらざん)を用いて、しきりに学問を実際に応用した。すなわち理論と実際とを調和し、接近せしめたのである。現に家康が遺訓の一つとして今日まで人口に膾炙(かいしゃ)する。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つことばかり知りてまくる事を知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」について考えてみるに、皆経学中に求めたものである。多くは論語中の警句中より成立している。当時、殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、蓋(けだ)し学問の活用、すなわち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるによることと思うのである。しかも家康がかくまで朱子の儒学を採って、これを実際に応用したけれども、元禄享保(げんろくきょうほう)の頃となっては、次第に種々(しゅじゅ)の学派を生じ、空理を弄ぶようになって来て、有名なる儒者は多かったけれども、これを実際と密着せしめたものは甚だ稀で、僅かに熊沢蕃山(くまざわはんざん)、野中兼山(のなかけんざん)、新井白石(あらいはくせき)、貝原益軒(かいはらえきけん)の数人に過ぎない。徳川の末の微々として振るわなくなって来たのも、やはりこの調和を失した結果であろうと思うのである。
以上は往時の事例であるが、今日でも両者の調和不調和が、その事物の盛衰を示している ことは、諸君のよく知られる所と思う。世界の二、三等国について見ると、明らかである。また一等国中にも、現に両者がその並行を失わんとしつつある国もあるように思われる。
翻(ひるがえ)って帝国は如何といえば、いまだ決して充分なる調和を得ておるということはできない。のみならず、ややともすれば離隔せんとする傾向さえ見える。これを思えば、実に国家 の将来が案じられるのである。
ゆえに修養を主とする者は、大いに爰(ここ)に鑑みる所があって、決して奇矯に趨(はし)らず、中庸(ちゅうよう)を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれんことを、衷心(ちゅうしん)より希望して止まぬのである。久換言すれば、今日の修養は、力行勤勉を主として、智徳の完全を得るのにある。すなわち、精神的方面に力を濺とともに、智識の発達に勉めねばならぬ。しかして修養が、単に自分一個のためのみでなく、一邑(ゆう)一郷、大にしては国連の興隆に貢献するのでなければならぬ。

本節では、「修養は理論ではなく、実際に行うべきこと」と強調し、学問と実践の調和の重要性を訴えています。渋沢先生は、理論と実践が並行して発展しないと国家が真に繁栄しないと主張し、一方が欠けると国は強国にはなれないと考えます。また、渋沢先生は、理論と実践の統合が国の富強と個人の完全な人格形成に不可欠であると述べ、徳川家康の例を挙げています。家康公は朱子の儒学を採り、学問を実践に応用し、日本の平和を三百年も維持しました。しかし、理論と実践の調和が失われると、国家の衰退が始まります。渋沢先生は、修養は個人のためだけでなく、社会や国家への貢献にも必要であると結論づけています。

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