10月8日

『その男、凶暴につき』と『ソナチネ』を観た。ものすごく興奮した。ビートたけしの演技にものすごく興奮した。歩いてくる、歩いている。立っている。
何を考えているか分からない。どちらの映画でも、ビートたけしが演じる人物が何を考えているか分からない。ほとんどしゃべらないし、しゃべるとしても他人から何か言われて答えるときだけだ。その話し方も、言われたことについて、「うん」とか「そうか」とか、何でもいいよというふうで、いっさい会話になっていかない。だからその会話によって物語が進展する、展開のきっかけが生まれるということがない。何も考えていない。それは、あの男の中で何をするべきか、すべて初めからが決まっているということだ。
何でもいい、やらなきゃいけないことは分かってるから。
ビートたけしの笑い方も、そのこととつながっていると思う。人は普通ああいうふうに笑わない。笑うとき人は、何かについて笑う。他人がしたことがおかしいからとか、必ず他人に対して笑いは開かれている。少なくとも、2023年現在では、そのような笑いしか社会には存在していない。でも、そうではない、ということだ。もっと閉じた側面、他人には理解しがたい、こいつなんで笑ってんだ? といぶかしまれてしまうような笑い、奇妙な笑いというものがある、ということだ。ビートたけしが笑うとき、何かがおかしいとか、面白いとか、そういう感情というか、他人へ開かれた感じ、理解可能な感じが少しもない。だが笑っている。だからそれは自分自身について笑っているのだろう。こんなところにいなくちゃいけないなんて、おかしなことになっちまったなあ、と自分自身、自分の状況を笑っている。

でも映画には観客が見て笑ってしまう、ふつうの意味でおもしろい場面がたくさんあった。『その男』で、麻薬を密売している男を追いかけるために部下と車に乗り込んで、一方通行でも何でも行けって言ったら行くんだよ、行かねえから犯人がいなくなっちまったじゃねえか、どこにいるんだよ、と言っていると、向こうの橋を犯人が走って行っている、いました、と部下が言う、いましたじゃねえよ、車出せよ、という場面とか、その後犯人を二回も轢いてしまうところとか。
『ソナチネ』はもっとずっと変で、最初と最後にヤクザの抗争がくり広げられるその中間では、海辺のアジトで仲間たちとだらだして過ごしている。その生活とも言えないような生活の時間の流れがまずおもしろいし、浜辺に土俵を作ってそこで紙相撲のように相撲をとったり(寺島進と勝村政信が紙相撲の相撲取りのように腕と足を直角に曲げて立っている。土俵の外の地面をビートたけしたちがトントントントンと叩く。すると紙の相撲取りとなっている二人が、トントントントンと土俵をあっちこっちに動いていく。また寺島と勝村が互いに四股を踏んで相撲を取るかと思ったら、勝村が寺島の方に行って、一緒に塩を撒いて、今度は二人とも西側で四股を踏んで、それが正面から捉えられる場面)、浜辺に落とし穴を作って寺島と勝村と大杉漣を嵌めたり、夜、浜辺で打ち上げ花火で銃撃戦をしたり、沖縄民謡を踊ったり。
それらがすべて面白くて、くすくす笑ってしまう。そしてその間にも、銃撃戦が突発し、寺島が殺されたり、敵の幹部を殺したり、気に食わないやつをトイレでぼこぼこにしたりする。その暴力には、何のストーリー性もない。というか、物語の進行のためには誰かが死んだりとか、そういうことが必要ではあるのだが、そこにのっかているいかなる抒情性も存在しない。だから誰かのための暴力ではない。無意味な暴力というか、あけすけな暴力の発動。あっけないほど無残に人が死ぬし、何度も何度も殴られる。殴るビートたけしには、やはりいかなる感情も、感情に基づいた理由も(『その男』で清平に妹のことを言われブチギレたとき以外は)読み取れない。
だから、この二つの映画で、笑いも暴力も同じ原理に基づいている。誰かのためではない笑いと暴力。笑いは、ただそこにあってしまうものについての、おっかしいなあ、という自己目的的な笑いで、暴力は、きわめて即物的な人間を破壊するためだけの暴力。笑いがあって、暴力もある、あるいはその逆、というのではないのだ。笑いも暴力も同じ原理に基づいているのであって、だから映画は一貫して一つのことだけしかしていない。笑いのような暴力と暴力のような笑い。(そのことが最もよく現れているのは『ソナチネ』でロシアンルーレットした場面だと思う。寺島と勝村が頭の上に缶を乗せて、それを銃で撃ちあう遊びをしている。そこにたけしがやって来て、ピストルに弾を一発だけ込めて、三回引き金を引く。そしてじゃんけんしようという。一回目、二回目とも寺島が負け、たけしが銃を撃つが空砲。そして何のためらいもなくたけしは「じゃんけんしよう」と言うのだ。そして今度は自分が負けてしまう。そして引き金を引く。結局、たけしは弾を込めるふりをしていただけだったのだが、それはそのゲームが終わった後でなければ分からない。たけしだけがそのことを知っていてふざけていたとは言えるが、たけし以外は知らなかった。本当に人が死ぬゲームをしていると思った。そして、実際に人が死んでしまったとしても、まったくおかしくなかった。そういう極限的な雰囲気がシーンにはみなぎっていた。たけしはまったくためらうことなく「じゃんけんしよう」と言い、どんどん引き金を引いていくのだ。その緊張が解けたとき、私は異様なものを感じた。今にも殺されるところだった、だがそれは冗談半分のゲームにすぎなかった。そこには笑いと常軌を逸した暴力性の充満があった)
そこには他人への理解とか共感とかいったものが一切存在しない。そもそもビートたけしの演じる人間には、少しも個人としての感情を読み取れない。そのような共感を呼びよせるための、感傷的なシーンも、身振りも、言葉も、映画には何一つとしてないのだ。世界を見て、にっと笑う。あるいは拳銃をぶっ放す。それだけだ。
だから、『ソナチネ』の最後、ビートたけしの演じる人間が自殺するのも、もっともだった。人が自殺したことですがすがしい気持ちになったのは初めてだった。でもこうなるしかないし、初めからこうなることが決まっていたように思った。観ている私たちには、男に共感すべき何ものも、理解すべき何ものもなかった。ただ不気味に笑い、人を殴り拳銃を撃つ男の狂気を観て、自分と言うもののあり方がぐらぐら揺すぶられる衝撃を受けた。

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