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オジサン達の脳内をトレースした「紅の豚」

先日「紅の豚」について少し触れた。

色んな所で考察はされているが簡単にまとめてみるとこんな感じ。

①宮崎駿氏は「紅の豚」について納得していない。
②原作は「飛行艇時代」
 ・ジーナは登場しない
  →映画ではジーナはヒロイン級
 ・マンマユート団が誘拐したのはJD、JK層
  →映画で誘拐されたのは幼女の集団
③フィオの行動は映画の方が積極的。
④ポルコの脳内は原作でも映画でも基本変化なし。

原作はポルコに中年男性を投影したように描かれていて、救出した女子大生とムフフみたいな脳内が見て取れるが映画ではそのあたりの脳内描写が見事に隠蔽されるような作りになっている。

大事なのは④で、ポルコの脳内は原作も映画も変化がないというところ。
ポルコは原作でも女の子に手を出していない。
映画版でもフィオの突然の行動に固まってしまうだけ。

このあたりは「カリオストロの城」でルパンがクラリスをぎゅっとできなかった理由と同じだと考えられる。
要するに世のオジサンたちの脳内と行動をトレースしたものだと言える。


ではジーナに対してはどうだろう?

ポルコとジーナの関係についてはググればいくらでも出てくると思うのでここでは詳しく言及しない。
それにきっちり詳細まで理解して映画を見ていれば答えはわかる。

この二人は腐れ縁みたいなものでポルコもフィオに対してとったような行動をとるとは考えられない。

生きているとごくまれに(10年に一人出会うか出会わないかぐらいのレベルで)100%レベルの理解者としての異性が現れる。
何かとカッコつけたい普通のオジサンたちにもそういう存在がいると思う。

ただそんな理解者と結婚できるのかと言えばそれはまた別の話。100%の理解者とはいい関係で終わってしまう事の方が多いような気がする。

そういうことに気づくのはそこそこ年を重ねてからだしその頃には既に別の相手と結婚してしまっているということもあると思う。

フィオとは別の理由で一歩引いてしまうわけだ。

ジーナの場合も3度の結婚歴がある。
ただ、3人とも死別している。
その3人とも共通の知人でありジーナとも旧知の中だったポルコはお互いによき理解者であっただろうというのは想像に難くない。


オジサン的にはフィオとの妄想を膨らませたい思いが湧いてくるのは理解できるが、「紅の豚」にはそんな結末は似合わない。

おさまるべきところにおさまるということにしたかったようだ。
どこまでも妄想であることに変わりないんだけど(笑)

というような背景を全て覆い隠すように飛行艇をきめ細かく描写して、豚のキャラを前面に押し出しながらも、しっかり作品中に断片を書き込んでくるあたり宮崎駿という人はエロい。



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