「他人の不幸は蜜の味」の逆を考える
「他人(ひと)の不幸は密の味」という言葉がある。
文字通りの意味なのだけれど、この言葉ってなんとなくイヤな言葉だなぁと思う。端的に言って「優しくない」言葉だと思う。
ドイツ語でシャーデンフロイデ(Schadenfreude)という言葉があるのだがこれも似たような意味を持っている言葉で、こういう感覚は日本特有ではないらしい。
この優しくない言葉を立体的に考えてみる。
「他人」とは自分から心情的に距離の遠い人というニュアンスだと思う。
自分が尊敬する人とか親しい人、愛する人が不幸になった場合は「蜜の味」を感じることは無いだろう。
つまり、嫌いな人とか関係ない人の不幸について「あざ笑う」とか「ざまあみろ」とかいう感情を持つことだと思う。
ここでいう嫌いな人、関係ない人にはもちろん自分が嫉妬している人とかも含まれている。
また近い人に対しても似たような感覚を持つことがある。
例えば柱の角に小指をぶつけて痛がっている家族の姿を見て吹き出すことがある。これって「あざ笑う」でも「ざまあみろ」でもなく単純におかしかったということで軽微な不幸みたいなものだと考える。
そこには悪意はなく「わかるぅー!!」とか「基本大丈夫」とかいう大前提の感覚がある。
これは根本的に不幸を喜んでいるという感覚ではない。
相手をちゃんと認めたうえで共感していると言える。
なので僕の感覚としては「他人の不幸は…」とは違うような気がする。
ここでは前者の嫌いな人についてもう少し掘り下げたい。
蜜の味の濃度について考えてみると、不幸の度合いの大きさと一定の範囲内では比例するが度を過ぎる場合はこの感覚自体がなくなるものだと思う。
例えばちょっとムカつく上司がいるとして、この上司がトラブルを起こして減給されるとなった場合は「ざまあみろ」だと思う。ただし減給にとどまらず解雇処分とかになった場合「蜜の味」と感じる人もいればそうでない人もいると思う。
つまり「他人の不幸は蜜の味」という言葉はある一定の範囲内だけで生じる特定の感覚だと言える。
前置きが長くなってしまった。
書きたかったのはこの感覚の逆の感覚。
幸福→不幸を喜ぶ感覚ではなく、不幸→幸福を喜ぶ感覚。
このアニメを見て不遇な境遇からの脱却が人に感動を与えると考えたというのがそもそもこれを書こうとしたきっかけになる。
人が不幸を蜜の味と感じるのは一定レベルまでだという考察をした。
逆はどうだろう?
例えばこのアニメでは主人公のヴァイオレットは尋常ではない不幸な境遇からスタートする。武器として育てられ、感情を持ち合わせておらず、家族というものもなく、最も信用していた人とも離れ、両腕をも失ってしまう。
嫌な言い方をするとこの時点で間違いなく同情票が集まる。
ヴァイオレットはこのマイナススタートから徐々にプラスへと変貌する。
アニメという枠の中では一気にプラスに持っていったように思えるが描かれていない努力というものは想像できる。
武器として育てられた部分の体力はドールとして生かされて、感情を少しずつ覚えていって、信頼できる人とのつながりもできる。
最も信用していた人との物語は最新の劇場版に描かれているようだがまだそれを見ていないので何とも言えない。
分かっている範囲で言えることはマイナスからプラスへのギャップが一定レベルであるがゆえに共感を得ているのだろうということ。
最も信用できる人に会うことができないというマイナス部分を残していることで共感できるポイントを残している。
心情的な距離はどうだろう?
これはこのアニメや主人公を好きか嫌いかというだけのような問題であるような気がする。
このアニメに興味が無かったりヴァイオレットという主人公に違和感を持っている人は心情的な距離が遠いので、ヴァイオレットに共感したり成長を喜んだりしてストーリーに感動することもない。
そう考えると「他人の不幸は蜜の味」とは反対の事象って成立するものだと思う。シンプルな言葉でいうと「好きな人が幸せになると嬉しい」みたいな意味合いなのだろう。
どうせなら「他人の不幸を蜜の味」と感じるより「好きな人が幸せになると嬉しい」と思える経験の多い生き方がいい。
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