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保苅瑞穂先生のこと

保苅瑞穂先生が亡くなられてから1年経つ。報に接したのはそれから少ししてからだが、プルースト研究者である先生が研究対象である作家のちょうど150回目の誕生日にこの世を去って行かれたのは、いかにも因縁ただならぬと感慨深く思ったものだ。
 
私にとって保苅先生は、私が東大駒場の学部一年生のときにフランス語の文法の受け持ちだった語学教師であり、ある意味ではそれだけの関係にすぎない。その後、現実には一度も再会することがなかった。先生が私のことを覚えておられたとも思えない。私はけっしてフランス語がよくできる学生ではなかったし、先生の記憶に残るような言動をしたこともなかったはずだ。
 
それから約30年が経過して、私自身が駒場のフランス語の教員になってみると、その間学生の一般的な語学力そのものが落ちていなければの話だが、あの頃の自分の出来具合は、あるいは中の上くらいだったかもしれない。しかし当時は中の下か、下の上あたりと思っていた。
 
その程度の平凡な学生で、英語さえよくできないのにフランス語なんて、と平気で口にしていた部類だったのだから恥ずかしい。よくできた同級生には、今は同僚になっているGさんもいる。現在はフランス語とはまったく関係のない仕事をしている人もいる。
 
今から思えば、劣等意識を植えつけられたのも無理はなかった。なにせ初級文法を一通り終えたばかりの1年の秋、まだ銀杏の葉が色づくよりも前からネルヴァルの『オクタヴィ』を講読することになったのだから。

当時の自分には、出てくる単語の半数以上が辞書を引かなければ見当もつかないような珍妙なアルファベットが並びひしめいているテクストに見え、時制や活用の知識の土台もぐらぐらだったから、フランス語の勉強自体が億劫になってしまった。
 
『オクタヴィ』のテクストとの格闘だか睡魔との格闘だかわからない地点から、当時朧げにイメージできた自然描写や悩める恋の話は、フランス語力の向上とは関係のないところで妄想が膨らむばかりで、これはけっして悪い面ばかりではなかった地方の男子校を、卒業してそのまま上京してきたばかりの私が、やはりその弊害のツケを払うのに必要なプロセスであったのかもしれない。
 
ともあれ、フランス語の力は相当怪しい状態で本郷の宗教学に進学したことは間違いない。大学院に進むことを考え、さて外国語が2つ必要となったときに、フランス語に対する苦手意識は強烈にあったが、これからまったく別の外国語を始めるよりはと思い、フランス語を好きになろうと自己暗示をかけて、基礎の基礎からやり直すことにした。
 
それは具体的には保苅先生の授業で使った教科書(京都大学フランス語教室編『新書等フランス語教本――文法編』四訂版、白水社、1993年)に立ち戻り、手を動かしながら何度も繰り返すことだった。こうして保苅先生の授業は、私の記憶のなかで反芻されることになった。初回の授業で、辞書は『ロワイヤル仏和中辞典』が「一生モノ」ですと言われたこと(その後今までに3冊使い潰した)。「フランス語の単語で最後の e は読みません」。「 s と s に挟まれた母音は濁ります」。このあたりは最初の1、2回目の授業で言われたことで、この段階では理解もきちんと追いついていたから、割と鮮明にイメージを復元できる。「単純過去の語幹は過去分詞を使えるものが多いです」。これは授業で実際にそう言われたかというと、少し怪しい。場面を復元しようとする自分の操作に、多少あとからの手が加わる感じがする。

手元に残っている大学1年のときに使ったフランス語(文法)の教科書
京都大学フランス語教室編『新書等フランス語教本――文法編』四訂版、白水社、1993年
Manuel pratique de langue française, Grammaire, 4e éd., Hakusuisha, 1993

大学院に進み、博士課程でフィールドをフランスに移し、留学準備のときには、保苅先生が放送大学の教科書として編んだ『フランス語IV('98)――フランス語の名文を読む』を使った。この放送の映像を見た記憶はない。ラジオで聞いた覚えは定かではない。当時親しくしていた年上の友人が「保苅先生は声がいいよね」と褒めていて、保苅先生は「ダンディ」で「声がいい」ということは学部1年生のクラスでも多くの人がそういう意見で一致していたので、保苅先生によって編まれたテクストを読めば、その声が脳内再生される思いをした。今から思い返せば、実際にラジオを聞いたか、聞かなかったかは、それほど大きな差ではない。
 
アナトール・フランスが新学期にリュクサンブール公園を横切っていく昔の自分の姿を描いたテクストからはじまり、プルーストからは「マルタンヴィルの鐘塔」の見え方が移動と時間のなかで変化していくテクストを選び出して終わるこの教科書を読む頃には、意味を取るのに調べるのが必要な単語数は、両開きのテクスト全体で10程度に減っていた。プルーストが専門の保苅先生からフランス語を習った自分が、プルーストのテクストにはじめて原文で触れたのも、このときだったと思う。

保苅瑞穂『フランス語IV('98)――フランス語の名文を読む』(放送大学教材)
初版は1998年、私の手元にあるのは2000年発行の第3刷

もしも私が最初から語学のよくできる秀才型だったら、保苅先生は最初にフランス語の手ほどきを受けた先生というにとどまっており、出会っていても出会い直さなかった可能性がある。鈍才型だったから、実際に習っていたリアルタイムでは、とても吸収することができなかった。そうした出会い損ねのために、出会い直すことになった逆説があると思っている。
 
保苅先生とのもうひとつの出会いは、吉田健一の愛読者としての横顔の発見である。20代半ばに留学を控えてヨーロッパの精神を知りたいと思っていた私は、先に記した年上の友人から勧められて吉田健一の著作に親しむようになった。「ポスコロ・カルスタ」全盛期になかなか反時代的な振る舞いをしていたことになると思うのだが、そもそも近代の遺産を正負両面にわたって受け止める態度が前提となっていなければ、ポスト・コロニアリズム、カルチュラル・スタディーズの重みも軽くなるよりほかはない。また、宗教学をやっていた割には、当時の自分は救いから遠く(今も遠いかもしれないが)、禅を組むよりは絵を描いて見ることを学ぶほうがよい、いずれにしても教養不足を書物で補わなければそもそもお話にならない状態だったから、吉田健一が繰り返し説いた人生の喜びや文学の楽しみに、救いを見出す思いをしていた。
 
集英社の『吉田健一著作集』の月報に、保苅先生が文章を寄せていたのはその頃ひとつの驚きだったが、今回大学1年生のときに使った教科書を見返していてあっと思ったのは、そこに昔の自分が書き込んだ文字を見るかぎり、不定代名詞のところで、保苅先生は « chacun » という語を「めいめい」という訳語で学生に説明したようだということである。今の自分なら「各人」とか「それぞれ」という訳語が最初に念頭に浮かぶところだが、思い当たったのは吉田健一の葬儀の際に河上徹太郎が読んだという吉田訳のラフォルグの「最後の詩」にある「簡単な臨終」である。 

この世に来るのが早過ぎた彼は、騒ぎ出さずに去つたのだ。
それだけのことなのだから、人よ、私の周りにゐる人達よ、銘々お家に帰りなさい。

Il vint trop tôt, il est reparti sans scandale ;
Ô vous qui m’écoutez, rentrez chacun chez vous.

翻訳は吉田健一『訳詩集 葡萄酒の色』岩波文庫、180ページ

ひょっとして、この詩と訳詩が保苅先生の念頭にあったか取り憑いたかしていて、« chacun » を「めいめい」と学生に言ったのではなかっただろうか。
 
吉田健一が亡くなった年の『ユリイカ』特集号で、保苅先生は吉田の『金沢』について論じている。そこでは、小説の主人公である内山が、杯を傾けるほどに「自分と自分が見ているものの違いがなくなる感じ」を覚えていき、その自分は「いつもの自分よりも大きくなっているのかも知れなかった」が、「それならばその自分はいつもよりも光と影があり、殆ど音を立てているのが聞こえるように流れていて庭の飛び石に苔の柔かさで触れていた」という箇所を引用している。そして、引用した一節の生命は「苔の柔らかさで」にあると述べている。

見ることは見るものとその対象との距離を前提にするものだ〔……〕が、内山は距離をおいたままで庭の飛び石に触れている。つまり見ることのいま一つの定義は、内山の体験が語っているように、離れてものに対しながらそのものに触れるということである。

保苅瑞穂「『金沢』――精神について」『ユリイカ 特集=吉田健一』9-13、1977年12月号

見る対象に対して距離を置いて対象化するのではなく、距離をおいたままで柔らかくそれに触れるというのは、五感のなかでは最も知的で最も官能的でない視覚にも視覚ならではの官能性があることを思わせる。元学生としては、ここでは官能の性的な意味合いはひとまず傍におくことにして、先生は学生に対しても距離を取りながら優しい眼差しで触れていてくださったのではないかというようなことを言って、早々と話をまとめてしまう誘惑にも駆られたりするのだが、そこを耐えてもう少し続けると、視覚の触覚化あるいは触覚化された視覚というのは、記憶とも大いに関係するはずで、水のようなところのある吉田健一とプルーストを読むこととも溶け合う保苅先生ご自身の文学観や時間・生活・人生に対する態度を理解する手がかりとしても、大事な論点ではないだろうか。
 
現実には再会できずじまいだった保苅先生と、再会できる可能性がおそらく最も高かったのは、退職後にパリに移り住んだ先生が、2017年秋に日仏会館で辻邦生について講演したときだっただろう。ところが、あいにく私はそのとき在外研究でカナダにいた。東京にいたら、間違いなく足を運んでいたはずで、お話しする機会があれば、昔フランス語を習った者ですとおずおずと名乗り出ていたかもしれない。
 
講演内容は『日仏文化』88号(2019年)に収録されている。修行時代の辻邦生がパリでプルーストを読み、「歓喜の思い」に貫かれたことが話の前半に出てきて、話の後半はプルーストの『失われた時を求めて』のある場面と辻邦生の『西行花伝』のある場面の類似性が重ねられる。その一方は、「見出された時」で自分の才能のなさに田舎町で落胆する主人公が、パリに戻ってきてゲルマント邸に招かれた際に中庭の敷石に躓いてよろける場面である。思わず別の敷石に足を置く格好で体を両足で支えた瞬間、昔ヴェネチアの「サン・マルコ洗礼堂の不揃いな二つの敷石の上に足をのせた感触とまったく同じ感覚」が甦り、主人公を幸福感で差し貫く。他方は、余命があと4年と迫っていた老年の西行が、若い時以来2度目となる東北への旅の途中、狭い山道で杉の根を跨ぎ越えようとした場面である。40年前もまったく同じ杉の根を跨いだことを、身体のほうが忘れていなくて、意識がはっとさせられる。

そんなことは、遥か昔のつまらぬ出来事として私はすっかり忘れていた。だが、それを、身体のほうは忘れていなかった。忘れるどころか、その跨いだ歩幅の感じ、そこに当たっていた日の光、風のそよぎ、谷間の渓流の音、足裏の苔の柔らかい感触まで、昨日のことのようにまざまざと覚えていたのであった。

辻邦生『西行花伝』新潮文庫、1999年、642-643ページ
保苅瑞穂「辻邦生が読んだプルースト」『日仏文化』88号、2019年、79ページに引用

この場面を「明らかにプルースト的」と言う保苅先生は、「ここで辻さんがプルーストを意識していないといったら、嘘になるでしょう」と述べて話を先に進めているのだが、「足裏の苔の柔らかい感触」と書いた辻邦生に、保苅先生はきっと吉田健一の『金沢』からの影響も看取してはずだと私は想像する。
 
『西行花伝』は、西行を師と仰いだ藤原秋実という虚構上の人物が、師を失ってのち、あるいは生前の師を知る人を訪ね歩き、あるいは師の言葉を思い返して、自分が及びもつかない人物である西行の像を再構成することを試みる設定で、あの人のことを書けるだろうかという自問からはじまる物語は、「師西行はこうして満月の白く光る夜、花盛りの桜のもとで、七十三年の生涯を終えた」という文のあと、以下のように書かれて結ばれる。

 のちに俊成殿が西行を偲んで次のように書いたのは、最後の師の言葉に強く心を動かされたからであった。

    かの上人、先年に桜の歌多くよみける中に

  願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃

   かくよみたりしを、をかしく見たまへしほどに、つひにきさらぎ十六日、望日をはりとげけること、いとあはれにありがたくおぼえて、物に書きつけ侍る

  願ひおきし 花のしたにて をはりけり 蓮の上も たがはざるらん

 おそらく俊成殿のこの歌以上のことはもう書くことができないだろう。もし何かひとこと書くとしたら、桜の花に陶酔る日、ぜひその花の一枝をわが師西行に献じてほしいということだ。師は機嫌のいいある日私にこんな歌を示されたからである。

  仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば

辻邦生『西行花伝』新潮文庫、1999年、706-707ページ

 プルーストを愛読することに生涯の多くの時間を費やした保苅先生が、20世紀を代表するこのフランスの作家の生誕150年の誕生日に、彼の地で「をはりとげけること」は、やはり「いとあはれにありがたくおぼえて」おかしくない巡り合わせである。ひっそりと、とぶらい偲ぶとするならと紐解いたのは『プルースト 読書の喜び――私の好きな名場面』。そこには明示的には言及されていない吉田健一や辻邦生の姿も立ちあがってくる気配がする。

保苅瑞穂『プルースト 読書の喜び――私の好きな名場面』筑摩書房、2010年

#保苅瑞穂  #プルースト #吉田健一 #辻邦生





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