応援と消費について/オタ活は応援ではない

「応援してます!」

(そんなことはないけど)仮に、道端で推しに遭遇したら、私はきっとそう伝えるだろう。

時々、SNSでもそう送ることがある。
これからも応援させてください、応援してます、と。



いや、応援って何?

正直なところ私は、オタ活は消費だと思っている。
聞こえは悪いが、あくまで我々オタクは推しという商品を買っているだけなのだ。

CDや雑誌ならわかりやすいだろう。物があるから。そうでない無形のもの、舞台やライブでも、結局はそこでのパフォーマンスを買っているに過ぎない。


だから私は、推しを応援しているとは思っていない。


ただ、本人に伝えるとき、伝わるかもしれないときに最も的確な言葉が「応援してます」なだけだ。


応援とは、とんでもなく傲慢なことだと思う。


真に応援が出来る人間というのは、それこそ選ばれし者。その親や友人、かつ、見返りを求めずに背中を押し援助する存在だけが、応援していると言えるのではないか。


もちろん、オタクが金を払うことでそれが数字となり、次の仕事に繋がるなら、それを応援と捉えることも出来る。

でもそれは、オタク側が持ち出していい話では無い。


例えば、(本日2度目のそんなことはないけど)推しが「お金が無いから芝居を続けられません」と言ったとしよう。
そうしたら私は、我々は喜んで金を渡すだろう。
それが相手のプライドを傷つけることになるのでは、という懸念は一旦置いておいて。


ただ、これは果たして応援と言えるのだろうか。
だって我々は推しの芝居が見たい。それを期待して、金を渡すのだ。これは応援ではなく、やはり消費なのでは?という気がしてならない。

消費が悪いことではない。
ただ、少しだけ、苦しくなる。


私は、きちんと夢が叶わなかった人間だ。
いや、叶わなかったというより叶える努力さえ出来なかった人間だ。まぁそんな人間はごまんといて、そんな中のただの1人なわけだが、

どうにもこうにも“夢”というものに弱い。


夢が絡む映画や舞台では、もう、すぐ泣いてしまう。恋だとか愛だとか、そういうものの受容体がない代わりに、人一倍夢に弱いのだ。


そして同じく、夢追い人にも弱い。

絶対に夢を叶えて欲しいと思うし、でも叶えて欲しくないとも思う。
私が見られなかった景色を代わりに目に焼き付けてほしいと思う反面、そこには私が立ちたかったのにと不貞腐れる。


そんな、よく居る、どうしようもない人間だ。
けれど、だからこそ推しからは離れられない。
そこにいるのは、少なくとも私よりは夢に近い人だから。


そして私の中にあるのは純粋な「応援」ではないことを思い出す。


私は、夢を叶えるどころか応援すらもできない、ただ消費することしか出来ない、つまらない人間だと突きつけられる。

でもだからといって、他の生き方はもう知らない。


私はただ、いつまでも、いつまでも、死ぬまで、永遠と、羨望と嫉妬の混じった目をしたままの消費者なのだ。

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