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草下シンヤ『怒られの作法──日本一トラブルに巻き込まれる編集者の人間関係術』感想

私が草下シンヤさんの存在を知ったのは、丸山ゴンザレスさん経由なので、たった数年前のことである。彼は作家や漫画原作者として活躍している一方、彩図社という出版社で編集長を務めてもいる。
ここ最近投稿している読書感想文は、彩図社から出版されたものや、『裏社会ジャーニー』(草下さんがプロデュースを務めるYouTubeチャンネル)や氏のTwitterで取り上げられた作品がほとんどで、要するに彼のアンテナを張るジャンルに悉く関心を寄せているということだ。

だから彼についてとてもよく知っています。と言いたいのでは無い。他の記事でも書いたかも知れないが、私は、良くも悪くもその人の人格と仕事とを結び付けて考えることが出来ない。
良い面では、例えば殺人や性加害等、許し難い犯罪行為をした者であっても、その人の作品に対する捉え方は変わらない。努めて切り離そうとしている感覚も無く、本当に、心から、作者の人格と作品には何の影響も無いと思っている。

それは及ばずながらも、自分も創作活動をしている点によるのかも知れない。以前投稿した半生記の中で、敢えて倫理的に破綻した過去の行為を記したが、あれでも随分秘匿しているつもりである。実際は書ききれないほど多くの罪を重ね、多くの人を傷つけて生きて来た。人格と仕事が比例するのであれば、私の書いたこれまでの如何なるnoteについても、誰からも反応を貰えていないだろう。
また、このSNS時代に創作活動をしていると、同じく創作活動をしている人々との接点が生まれる。その人の作品が見られる場(ライブハウス、ギャラリー等)に足を運び、親しい関係になることもある。そうすると、当たり前だが彼らのパーソナルな部分も見えてくる。凄い作品を生み出していても、話せば自分と変わらない人間で、良いところもあれば悪いところもある。失言もすれば、ファンからの一言に落胆もする。
それは、メジャーなアーティストであっても変わらないだろう。私たちが受け取ることになるのは作品であって、作者の人間性では無い。

悪い意味でというのは、「ファンなら当然知っていること」を知らないという意味である。好きなバンドでもバンドメンバーの名前を知らなかったり、有名な逸話を知らなかったり、年齢や出身地も分からないことが多い。
だから草下さんのファンだと名乗りたいが、彼がどういった性格なのかは分からないし、あまり興味も無い。著作や関わっている仕事から、裏社会関連が好きなことくらいは流石に察しがつくが、その程度だ。
それでも幾つか想像する余地はあって、YouTubeでの発言や話し方、物腰、雰囲気、仕草、見た目、ツイート等から抱く印象はある。冷静で、穏やかで、理知的で、論理的で、人間関係のバランス感覚が優れていて、義理堅い人物といった印象だ。

本著では、草下さんがこれまで経験した「怒られ」の実体験に基づいて、各場面で「“怒り”とは何であるか」についての考察を巡らせながら、彼なりの対処法や、怒りに対する際の姿勢が述べられている。
氏の著作は恐らく全て読んだが、あまり自身のパーソナルな領域にまで言及されることは無く、本著でほぼ初めて彼の個人的な部分に触れられていると感じた。
先に述べた印象からすれば、草下さんは「怒られ」という事象からは無縁の人物に思える。表社会とは異なる裏社会の人間関係も、癖のある人間との仕事も、そつなくこなしているように見えるからだ。
また、彼自身怒っているのも想像出来ない。仮に怒ったとしても、淡々と「これはこうで、こうなり、こういう意味である。私の意図するところはかくなるもので、あなたの指摘するそれとはこういった点で異なる」と説明・説得し、怒っていた相手も何も言い返せず、鞘を収めて納得していそうである。

その為、本著では「怒り」という感情を通し、思いがけず彼の私的な領域の端緒が垣間見られ、人間観について知れたのはファンとして良かった。
結果的に私の抱いていた印象はあまり外れていなかったが、それは彼がこれまで人から怒られ続けたからこそ、築き上げられたものだった。

本著で扱われる「怒られ」は、友人との諍いや仕事でのミスといった誰もが日常的に体験する場面はもとより、インターネット上での炎上や裁判、果ては戦争についてまで、広く人間の中にあり、発出される「怒り」という感情について触れられている。

大事なのは、相手との距離感を正確に測れるものさしを持つことです。そのためには相手をよく観察し、よく話を聞くことが必要です。
怒っている相手と戦いたくない、逃げたいという気持ちもわかりますが、相手の怒りに向き合うことは喧嘩をすることとはまるで違います。怖い、逃げたいと思うのは、相手の感情に目が向いているからです。対話の目的はそこにはありません。相手が怒っている原因を知り、その善後策を講ずることに意識を向けるべきです。

太字箇所は本著に従ったが、個人的に共感したのは「対話の目的は感情では無い」という部分。
感情だけで無く、何か注意すると(つまりこの場合は私に対する相手に「怒られ」が発生している訳だが)、それとは関係の無い内容で以て反論しているつもりになる人がしばしば居る。例えば、私が「頼んでいた例の件、どうしてやっていないの?」と少し詰める言い方をしたとしよう。すると相手から「お前だってあの時ああしなかったではないか」と反論が返ってくる。
“反論”と書いたが、ここでの相手の発言は、私が述べた“論”に何一つ重なるところが無く、よって反するものでは無い。たった今、問題になっている点と、相手の発言とは何ら関係が無いのである。私が以前、依頼に応えなかった件に対する復讐として、今回の件を自覚的に引き起こしたのであれば別だが、そうで無いなら、その件はその件として、発生した時点で伝えるか、改めて別の機会を設けるべきだ。ここで持ち出したところで関連性が無いのだから、対話として成立していない。

私は結構怒るというか、周囲の誤りや失言、失礼な態度についてはっきり意見を述べるほうだと思う。それは、単純に謝罪を求めているからでは無い。どうしてその言動をとるに至ったのかを知りたいからであり、同時に自分が何故傷ついたのか、どういった被害を受けたのかを知って貰いたいからだ。そして、「(相手が/私が/両者が)今度からはこうする」という解決策を導き出し、共有したいからだ。

上の引用のように、怒られているという事態に呑み込まれたり、私が挙げた例のように、注意から話し合いへと展開せず、ムッとして脊髄反射的に無関係の話題を持ち込み単なる口論に発展してしまったりすると、結局何も解決されず、同じことが繰り返されるだけである。
「対話の目的」がどこに置かれているのかを知ることは、怒られる場面のみならず重要な行為だと思う。

第2章「人はなぜ怒るのか」を読むと、こんな人が上司だったら私でも頑張れるのに…と彩図社の部下の方たちが心底羨ましく感じられる。先にある印象の中では述べなかったが、初めて草下さんが出版社の編集長だと知ったときから、「さぞ信頼出来る上司なんだろうな」と思っていた。
その予想も的中した。管理職にとって必要なのは、熟練していることは言わずもがなだが、部下が仕事しやすい環境づくりと、彼らが招いたミスに対して責任を負うことだと思う。責任を負うというのは、前者とも重複する部分があり、それはミスの処理だけで終わるのでは無く、ミスを起こした当人と「今後どうすればよいのか」を話し合うところまで含意している。

私の部下にも、コミュニケーションや進行管理が苦手な編集者がいます。シングルタスク思考というか、仕事自体は丁寧で質が高いのですが、複数の物事を同時に任せるとテンパってしまいミスをしやすいタイプです。
(…)(引用者注:部下に対し)注意するだけではなく、なぜこのようなミスが引き起こされるのか考え、改善する必要があると考えました。
そこでまず「慌てやすい性格であること」を自覚してもらったうえで、やらなければならないことは必ずメモに残すように約束させました。そして毎日終業の30分前に、今日やり残したことがないか確認する時間を設けるようにしました。もちろん叱り方は様々だと思いますが、自分はそこまでやって初めて「叱る」ことになるのかなと思います。

文中で具体的な言及はなされていないが、恐らく発達障害者の部下との接し方に目配せをしているのではないかと思う。医者や専門家では無いので具体的な名称は挙げられないが、草下さんが発達障害について知らないとは考えられない(他にも、愛着障害であろうヤクザとの接し方についての記述もある)。
上の引用は、私が述べたところの「責任を負うこと」そのものである。自分のミスにより、取引先や関係部署に迷惑が掛かっていることくらい、わざわざ言われなくても十分に理解している。それを頭ごなしに怒られたところで、「次はミスしないように気をつけよう」といった前向きなモードに即座に切り替えられる人より、しばらくモチベーションが下がり、あるいは更に緊張して焦ってしまい、ミスを重ねてしまう人のほうが多いのでは無いだろうか。上司から怒られ慣れていない新人なら尚のことそうだと思う。

発達障害者である私は、完全に引用内にある部下と同じシングルタスク思考だ。過去、マルチタスクを要される業務に就いたことがあるが(正社員はほとんどそうだ)、毎日のようにミスを連発していた。シングルタスクであれば、同じ工程を繰り返せばいいが、マルチタスクだと途中で別件が入ったり、異なる取引先とのやり取りを同時進行しなければならず、必ず何かしらの手順が抜け落ちたり、頼まれていたことを忘れてしまったりする。
そこで上司たちがとった行動は、ただ怒るか、私を担当から外すか、そのどちらかだった。見かねた先輩が励ましてくれることはあったが、「こういうふうにしたらいいんじゃない?」と建設的な提案をされることは無かった。

正直、「どんなことでもメモをとり、そしてそれを見返すのを日課にする」というのは、会社勤めをする者であれば最も初歩的なことだ(それを行った上で、ミスをやらかすから発達障害者はおっかないんですけどね…)。
それでも改めて提言してくれると、メモをとる重要性を再確認出来るし、何よりミスをして落ち込んだり冷静さを失っている中で、上司が“一緒に”改善案を考えてくれるというのは、心理的な面で効果が大きいと思う。一人で何もかも抱え込まなくてよい、上司は自分の弱点に向き合って理解しようとしてくれている。そう考えることが出来さえすれば、精神的に余裕が持てるし、自分のキャパを超えていると感じたらその人に相談しようと思える。結句、ミスを未然に防げるという訳だ。

先述の通り、本著では「怒られ」の中にインターネット上での炎上も含まれている。
炎上している当事者の言動が、法律や人倫に悖るものだったとする。それに対して批判的な意見を述べるのは間違っていない。しかし、その件とは無関係のこと──身体的特徴を侮辱したり、「死ね」「殺す」といった脅迫的な言葉を使うのは、絶対にやってはいけないと思う。
“批判的な意見”といったものの、その線引きは非常に曖昧である。感情的になっていないとしても、小馬鹿にしたような物言いや、敬語を使っていない等、個人的に「それはどうなの?」という引っ掛かる文章を多々見掛ける。

何となくだが、特にツイッターに於ける「リプライ」がいつの間にか「コメント」と呼ばれるようになったことと、少なからず関係があるのではないかと感じている。ニュース記事に対してコメントを書くのと同じ感覚で、個人に向けてリプライを送っているような気がするのだ。
ニュース記事の向こうには何も無いが(ライターは居るが)、ツイートの向こうには一人の人間が居る。その人は、会ったことも話したことも無い場合がほとんどである。初対面の人と会話をする時、いきなりタメ口で「は?こいつクソだろ」「◯◯キモいから嫌い」「死ね」「ブス」等、口にするだろうか?少なくとも対面でその人に言えない言葉は、インターネット上でも使うべきでは無いと思う。

私は、中学生の頃に一度、本当に小さい規模だが一度だけ炎上を経験したことがある。その頃はまだ炎上という単語は無く、主に2ちゃんねるに自分のホームページやブログのURLが転載される、「晒し」が主流だった。
その時運営していたホームページでは、とある漫画作品の二次創作小説を載せていた。1日1000カウンター弱回っていたので、ツイッターに当て嵌めれば500人くらいフォロワーが居る状態といったところだろう。
ある時期、他のホームページのほとんどが、毎晩のようにキャラクターの萌え語りをするチャットを催すようになった。それに対し、私はブログで「最近みんなチャットばかりしていて、小説やイラストの更新をしていない。それならチャットメインのサイトにすればいいのに」といった苦言を呈した。
今考えれば、何でそんなことを書いたのだろうと思う。自分のホームページをどう使おうが、管理人の勝手である。とはいえ、深い考えも無く書いたもので、特定の誰かを想定しているつもりは無かった。

当時はツイッターも無かったので(あったかも知れないが、まだ現在ほど利用されていなかった)、読者との交流はウェブ拍手という、今でいうところの質問箱のような、匿名でメッセージを送れる機能が主流だった。
くだんのブログを投稿した翌日以降だっただろうか、そのウェブ拍手に「お前のせいで好きなホームページが閉鎖した、死ね」「2ちゃんに晒されてるよ。自業自得」「気に食わないならお前が閉鎖しろ」といったメッセージが何通も届いていた。
あの時の感覚は今でも忘れられない。文字通り血の気が引くような感覚。心臓がバクバクと脈打ち、恐怖で何も考えられない。本当に怖かった。
この経験があるから、私はインターネット上で一度も誰かを叩いたり、炎上に加担したことが無い。炎上していなくても、単に話題になっているコンテンツを挙げることすらなるべく避けるようにしている。話題になっているということは、それだけ衆人の目に晒される可能性が高く、誰がどう受け取るか分からないからだ。

SNSをやっている芸能人は、本当に大変だと思う。多少慣れているかも知れないし、知名度があるというのはアンチも増えるものだと割り切っているのかも知れない。それでも、人間なのだから誹謗中傷コメントには傷つくだろう。
本著でも書かれていたが、木村花さんのように、誹謗中傷のせいで命を絶ってしまわれた方は、残念ながら何人も居る。自分の人格を否定する言葉が、無機質な同一のフォントで、文字だけで何通も届く。それが一体どんな影響を与えるのか、リプライやコメントを送る前によく考え直して欲しい。正当な批判のつもりであっても、物言いに棘が無いか、きちんと推敲して欲しい。また、その人の発言で“自分”が傷ついたとして、その人は“自分”に向けて発言をしているのか、一度振り返ってみて欲しい。

個人的には、犯罪者に対してであっても、過度なバッシングはしてはならないと思う。何故なら犯罪行為に対応するものは法律であり、言葉による暴力は私刑に他ならないからだ。誰かを裁くのは人間では無い。法律である。
もし判決に納得がいかないのであれば、正しい手順を踏んだうえで法改正を求める抗議活動を行えばいいと思う。加害者の家族や友人知人のプライバシーを侵害したり、人格攻撃をするのは間違っている。

話がだいぶ逸れてしまった。本著には、一般企業で働いていれば共感出来るエピソードも沢山あるが、やはりヤクザや半グレ絡みの事案が面白い。「骨の一本折られるかもな」と腹を括り、怒られの現場に行くというのはそうそう無い。あと、ヤクザでも半グレでも無いが、オダカのくだりは思わず笑い声が漏れた。
そして何より、草下さんの人間愛がとても伝わって来た。バランス感覚もだが、愛情があるからこそ難しい裏社会の人間関係の中でも信頼されているのだと思う。よい本でした。

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