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「ドイツ零年」ロッセリーニ監督//人間のスタートとゴールをカットに納める

まじで、なんで今までちゃんと見ていなかったのか唖然とする。傑作。もういうまでもなく傑作であり、かつて(今もだけど)敬愛していたフェデリコ・フェリーニの原型みたいなものが見える。カメラワークしかり、フェリーニは「ドイツ零年」の裏っ返しみたいな作品だなと思って見ていた。

ワンカットが長い、長いのだけど、「流れている時間を撮る」というよりも、「人間がひっきりなしに交差している様子」を撮っているので、展開が目まぐるしい。カットの代わりに人がシャッターするというか、カットを割らない強い意志を感じる。ひっきりなしに人が動き、それを追うカメラの存在感も大きく、撮る側の意志がかなり強い作品だと感じた。

当然、ひっきりなしに人が意味なく動いているわけではなく。ある登場人物が明確に、どこからどこへ、なんのために動いているか、その意志のスタートがカットの頭に来ていて、そのゴールを見届けるようにカットが終わるのも印象深い。カットそのものが物語である、とこのブログで何度も言っている気がするけれど、まさにこういうことだし、映画は「人間」を撮っているのだよな、と改めて心に留めた。大事なのにすぐ忘れてしまう。

カメラは基本的に人を追う

基本的に流れるように撮っているので、流れていない時の落差がまた刺激的である。特に「切り返し」の撮影にはドキリとさせられる。基本的に登場人物が心理的に「対峙」している時にのみカメラは「切り返している」。
日常生活で対峙する場面は、確かに誰かと向き合うシチュエーションが多く、「いざという時しか、人と面と向かって喋らないもんだよね」と深く納得。なんでテレビドラマとかエンタメとかすぐに切り返すんだろう、なんだんだよあれ、と悪態さえつきたくなってしまう。「切り返し」のもったいぶりに、「おおお」と感動してしまうのであった。

もう一つ、「ゆるい画角」にもドキリとした。
今まで近い距離で被写体を追い、カメラがぐるぐる回っていたのだけれど、やや距離を置き、冷静な視点で登場人物の行動を撮っているカットが度々登場する。別になんてことない会話を長回しをしており、非常に「嫌な感触」が残る。「なんで展開のないカットを見続けなきゃいけないんだ」という感触なのかもしれないが、どちらかというと「これは悪いことが起きる予感だ」というフリになっている。よくみるとセリフとか、演技とかがそういうフリを投げかけているのかもしれないけど、「ゆるいサイズの長回し」が物語展開のフリになることに感激してしまった。

この場面が最高

技術的なものばかりに目が行ってしまったけど…
戦後間も無く街がぐちゃぐちゃな中で展開するので、視覚的にも戦後がいかに酷い状況だったか驚いてしまうし、物語も人々がいかに苦しい生活を強いられていたのか、嘆きたくなってしまう。

この景色はきっと日本にもあったのではないか、とやけにリアリティがあって何度も見るには苦しいものがある。だけど、この映画は「見ているのが辛い」を凌ぐたくさんの学びがあり、一つ一つカットを覚えるくらい見たいと思う。



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