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極景-7-

 #告白①#
 
 僕は可愛げのない子羊で彼女は媒介者だ。ようやく告白を開始した。
 僕は掻い摘んで、できる限り事実へ忠実になり再現するように努めた。家族構成から始まり、国立の中学校へ通っていたこと、国立の特異性、先生との出会いと圧倒的能力と存在感について、突然訪れた両親の離婚のこと、母が仕事を始めようとしていたこと、環境の変化に順応できず僕の行動が制御不能に陥ったこと、先生はそれに気づいていたことを、所々で区切りながら話した。彼女は小さく頷きながら僕のありのままを静かに受けとめようと、きっと……全力で努めてくれた。彼女も僕もグラスに口をつけ、互いのが空になっていくのを眺めていた。彼女が喉渇いたでしょ、と言って、チェイサーを注いでくれた。確かに渇いていた。一息で飲み干した。彼女は自身のグラスにワインを注ぎ、僕のにも注いでくれた。話に集中させるための彼女の気遣いだろう。
「ありがとう」と僕は言った。
「いまの話が私の眠りの間に考えるというか思い出していたことなのね?」
「その通りだよ。自分なりに再現はできたと思う」
「なんか、相当な馬鹿みたいね」
「僕の話が?」
「違うわよ。私が」
「えっ、なんでそうなるの?」
「翔一くんが苦悩している横で呑気に眠っていた自分が恥ずかしい」
「それが僕を救ってくれていたんだよ」
「気休めには相応しい言葉かもね。でも私は勝手に傷ついているの。その傷を癒すために、翔一くんのそれからをもっと詳しく聴きたい。翔一くんを癒すには程遠くて、それこそ気休めにしかならないのかもしれないけど、全てを聴くことで自らの傷を塞ぎたい。いいかしら?」
「それが僕の希望であるし、詠子さんの希望でもあるなら、喜んで話すよ」彼女は壁掛け時計に目を遣り、
「意外と時間は経っていないね。もう一本頼もうか?」と言った。僕も飲みたいと言って、同じものにすることにした。彼女も僕も随分と気に入っていた。
 
「それからのお母さんや翔一くん、弟さんは、どうなっていったの?」
「うん。その前に父のことを話しておきたい。その方が理解しやすいと思う」
「そうか、そりゃそうだよね。原因作ったんだもんね」
「いまとなっては、僕は原因とは捉えていないんだ。あくまで、ただのきっかけにしか過ぎなかったと思う」
「うん、うん。では、そのきっかけの話を聴こう」
「父は相当な無理をしていたようなんだ。それは特に経済面においてなんだけど、僕らの住むマンションのローンやら生活費、自らの新しい家庭のそれら全てを父ひとりが背負っていた。僕の母には収入がなかったし、新しい奥さんは子供を産んだばかりだから同じく収入はなかった。略奪婚と一般的には呼ばれるものじゃない?それを新しい奥さんの実家は決して認めなかったそうなんだ。もちろん、互いが成人の男性と女性なんだから、婚姻届は出していた。でもね、その実家は一切関与しようとしなかった。経済面でも子育て面でもね。父はそれなりの高収入だったんだけど、両方にいい顔をすることが現実的ではないことに気づき始めた。なんの計画性も確実性も持っていないのに、僕ら親子に『お金の心配はしなくていい』と約束したことが問題だったのだと思う。
 母は父が随分と追い込まれていることを察していた。おそらくだけど、仕送りが遅れることが続くとかがね、あったのだと思う。だから母は就職活動をしていたんだ。僕はただ怖くて理由を尋ねられなかった。僕らを悩ませる新しい種であるに違いないことはわかっていた。僕は本当のことから目を背け続けていた。
 
 父は無駄で傍迷惑でしかない延命措置を取っていた。会社のお金を私的流用し、取引先からのキックバックを得ていた。それはわずかな期間で会社に知られることになった。会社が社会的な体裁を考えたのか、父への温情措置だったのかは知らないんだけど、明るみにされることはなかった。しかしながら、当然雇用が継続されることにはならなかった。体裁的には自主退職扱いになったけど、実質は解雇だった。いくらのお金を不正に入手したのか僕は知らない。退職金はその一部の返済に充てられた。まあ、退職金支給があったことそのものが奇跡的に思えるけど、きっと会社側には温情とは違う事情があったんだと僕は推測している。
 そして僕ら母子は路頭に迷うことになった。父名義であったマンションは売って、その全ての売却益を父は持って、飛んだ」
 ここで一旦間を空けた。僕の話への理解度は問題ないことが彼女の佇まいでわかっている。ただ一方的な話はしたくなかったし、会話を成り立たせるためのリズムを作りたかった。それには彼女の問い掛けが不可欠だった。
「いまのところは随分と酷な経験だね、としか言いようがないんだけど、その後お母さんは、どういう行動を取ったの?」
「まずは、住居探しだね。母の実家は地方にあって決して裕福ではないんだけど、最大限の支援をしてくれた。転居した先はアパートで間取りは2DK。
 前のマンションとは明らかに違って、内見するまでもなく外観から狭くて老朽化が進んでいるのはわかった。母は思春期の僕らを気にして、私はダイニングキッチンで寝るから、二部屋はそれぞれで使ってって言ったんだけど、僕らは全力で拒否した。母にはゆっくりできるスペースを持って欲しかった。なんとか説得に成功して、それで僕ら兄弟は一部屋で暮らすことになった。
 さっき就職活動がうまくいってなかったって言ったじゃない?いわゆる普通の会社には就職できなかった。資格を持っている訳でもなく、十年以上も仕事していなかったし、いくつかの派遣会社からは紹介され受け入れてくれそうな企業もあったんだけど、時給面や、休日の取りやすさとか、僕らのためだけに母は別の道を選択することにした。僕の学校行事は平日の昼間に集中しているし、毎日ではなかったんだけど弟のサッカーの送り迎えとかがあったからね」僕には彼女と同じリズムに乗れている確かな実感があった。
「翔一くんは随分とあっさりした物言いだけど、そのときのお母さんの苦労や心配には、掛けられる言葉がないくらいよ。想像するだけで胸が痛い」
「僕は自分のことだけで精一杯だった。声を掛けられなかっただけではなく、具体的なことはなにもできなかった。でも弟は違った。サッカーの送り迎えの間には、できる限り楽しい話をするようにしていたみたいだし、家事も率先してこなしていた。もちろんそこには、サッカーは辞めずに続けなさい、と言った母への感謝の気持ちがあったのだと思う……どっちが兄なのかって感じだったよ」
「兄弟ってどこかは似ているけど、当然別人だからね。私には翔一くんと同じ歳の妹が居るんだけど、芸術家肌でね、ずっと自分のしたいことだけをして暮らしているの。でもね、両親からの支援は一切されてないし、しっかり自立しているの。頻繁に実家に顔を出しては、いま自分のやっていることを説明して、心配させないように気遣いもできる。まあ、バランスよね」ああ、私の話をしている場合じゃない、と彼女は言って、
「それで、お母さんはどんな職業を選んだの?」と続けた。
「一言で済ませば水商売、夜の仕事を選んだ。給与面、時間の自由度を優先させたんだ。僕は、そんなことはして欲しくなかった。恥ずかしかった、自らの体裁ばかりを考え、平然と職業蔑視していた。これからの話の終盤で、ずっと誰にも隠しておきたかったし、思い出すことも拒み続けていたことへ僕は触れるだろう。冷静を保っていられなくなるかもしれない。そのときは、」
「大丈夫。私に翔一くんを安定させる素養があるかないかはわからないし、気休めを言うつもりもないけど、互いに自分を信じるしかないでしょう?私が話を聴きたいって言ったのよ、どんな事態が起こったとしても……私には覚悟がある」彼女が自らを鼓舞しているのが痛みとして伝わってきた。つい数時間前に彼女は、自信がないの、あるいは失われてしまったの、と言ったのだ。彼女と僕は見つめ合った。彼女の目には混ざりものが一切ない。彼女の覚悟が、すっと僕の胸の内に落ちていった。
「ありがとう。僕も覚悟する」深く息を吐いた。彼女も同じようにした。
「じゃあ、話を続けて貰えるかしら」
「母は、どんどん疲弊していった。母にはお酒を飲む習慣がなかった。それに身体を適応させるのも大変だったろうし、接客自体もそうだし、酔っ払いの相手をするのはもっと辛かっただろうと思う。母の働くスナックは主に会社員が利用するお店だった。住宅地にある地元のおじさん、おばさんに支えられているようなスナックではなかった。一見の客も少なくなかったし、たちの悪い常連も居た。母は精一杯、いい女で在ろうとした。
 僕は母の疲弊に呼応するように、負の感情に侵食されていった。それはもちろん、僕自身の問題であって、母とその仕事が直接的な原因ではない。多感な歳頃だから、影響を受けやすかっただけに過ぎないし、対して弟はずっと普通だった。むしろ逆境を楽しんでいるように見えた。
 学校での僕の様子は誰の目にも異常に映っていただろうと思う。授業中にトイレに頻繁に立ったり、教師の話が全く耳に入ってこなかったりした。友人たちとの会話中では、急に黙りこくり、気に障る言葉があれば、声を荒げることもあった。次第に友人たちは僕と距離を置き始めた。それは中学三年の始め頃だったはずだ。僕は自身を保ち、なにも考えないために、勉強にだけ集中した。授業には全くついていけていなかったから、学校の図書室や自宅近くの図書館で、平日も休日も関係なく勉強し続けた。付属高校には、どうしても進学したかったんだ。それが唯一、自らを守れる方法だと信じ込んでいた」間を空けた。彼女のためというよりも自らのために。疲れを解すように首と手首を回した。僕の目の前に居る彼女は間違いなく媒介者だ。子羊が狼になろうが、ハイエナになろうが、蛾になろうが、プレパラートに載る単細胞生物になったとしても、告白を最後まで見届けてくれるだろう。
「先生も距離を置き始めたの?」
「いや、先生は静かに観察しているように僕の目には映っていた。先生から声を掛けてくれることを、自分勝手に期待し続けていた。先生はいつも、想像力が全てなんだと、繰り返し僕らに言っていたことを思い出した。あるとき気づいたんだ。先生は僕の変容について想像しているだけなんだと、そして、もう既に見抜かれていることにも。だから僕も先生のことを想像しようとした。先生がなにを考え、計画し、行動しているのかを。最初はうまくいかなかった。でも、それを繰り返していると、ぼんやりと輪郭が見えてきた。先生から過去に発せられた言葉の数々、行動を振り返っていると、輪郭だけだったものが写実主義の絵画のように現実的なものとして脳裏に映った。
 先生はおおよその人生設計を終えて、それを計画通りに進めている。時間は先生の計画を進めるにとって最も大切な要素だった。一日は二十四時間であり、それは誰に対してもフェアだ。先生は一分一秒も無駄にしない人間だ。話をしたいなら、僕が時間を作って先生にお願いすべきだったんだ。先生はそのときをただ待っているだけだった。先生が僕に相対する準備を終えていることは明らかだった」
「ちょっと待って。圧倒的な人だとは聴いたけど、そんな中学生が実在するとは思えないんだけど」
「詠子さん、それは当然の感想だと思う。僕だって先生を直接的に知らなかったら、そう思うだろうし。でも、これはファンタジーでもなければ僕の誇大妄想でもないんだよ。現実にあったことなんだ。さっき詠子さんに言ったこと覚えているよね。できること、できていることだけを徹底的に伸ばし、できないことをすると……って話」
「もちろん覚えているよ。頑張って平均かそれより以下にしか達しないのならって話だよね?」
「うん。実はそれね、先生が中学生のときに教えてくれたことの受け売りなんだ」
「そうだったんだ……それを中学生にしてね……もう、なんか敗北感でいっぱい。でもまだ興味の方が勝っている。先生はさ、その能力をどうやって身につけたの?訊いたことはある?」
「直接的には尋ねていないけど、大体はわかる。圧倒的な読書量によって、もたらされたものだよ。先生は読んで知識をただ詰め込んでいった訳じゃないんだ。筆者が書く必然性、目的はなんなのか、納得がいかない場合は執拗に調べた。全く逆のことが書かれている学説で検証したりとかさ。特に数値や統計データへは敏感だったと思う。なにかのバイアスが掛かっているんじゃないか、誰かへの忖度が働いているものじゃないかとかね。
 小説だったならば、そこに書かれていることが普遍性――将来に渡って読み継がれる価値のあるものかを重要視した――作品には敬意を持ったとしても作家へは懐疑的だった。破滅的で傍迷惑な生き方しかできなかった作家は少なくないしね。
 まあ、得てしてあることだけど、そういう人物だからこそ、後世に語り継がれる作品を生み出すことができたのかもしれないし、対して読者は、自分とは全く違う人物が居て、違う人生があることを知る――その非日常感へ――魅了されるのかもしれない。ちょっと、僕の考えも話しちゃったけど、おおよそは、それで間違っていないと思う。先生は、読書体験によってのみ想像力が鍛えられると、ほぼ断言していた」
「ほぼなの?」
「先生はどんな可能性も排除しないんだよ。いつ想定外のことが起きるかわからない。ましてや、読書をしたくてもできない状況にある人も居るだろうし、それは障害を抱えているとかね。先生の求めていることは最大公約数であり他者との関わりによって発生する最大公倍数なんだ。それから漏れてしまう人々が居る可能性も先生は十分に理解していたしね」
「ごめん。ちょっとついていけなくなっている。最大公約数とか最大公倍数って、なんのことを言っているの?」
「公約数や公倍数の説明は省いていいよね?」
「それくらいはわかるわよ……得意ではないけど」
「オッケー。例えば、僕と詠子さんのふたりだけが住む島があったとしよう。そこで僕らは別々に暮らしていることを想像してほしい」
「うんうん、いいよ。なんか寂しいけど」
「僕らは別々に暮らしている訳だから、自分の食料は自らが調達しなきゃならないじゃない?毎日、釣りに出掛け、鳥を罠にかけたりとかね。それで得られる日々の食料は僕らの努力もあって毎日増えていくんだ。1、2、3、4、5とね。これの最大公約数はいくつだと思う?」
「2・5なんじゃないの?」
「それは平均値。答えは『1』なんだ」
「引っ掛け問題じゃない!」
「いやいや、そうじゃない。これからの説明をするための準備運動だよ」
「最大公約数は、割り切れる数値の中で最大のものを指すんだ。だから、さっきの数値を、3、6、12、24、48に置き換えたとしよう。これの答えは?」
「3でしょ」
「その通りだよ。それはどの数値にも当て嵌まる共通の要素と言える。先生の言う最大公約数は『誰にでも当て嵌まる最も大切な要素』を指している。ここまではいいよね?」
「わかった……と思う。続きできっと理解が深まると思う」
「それでいいと思う。僕が説明する順番の問題だから。では、説明を続けるね。さっきは小さな数値で計算したからわかりやすかったんだけど、例えば、100、1000以上のランダムな数値を複数集めて計算すると、最小の数値は100にも関わらず、最大公約数は『2』なんてことも起こるんだ。この計算は複雑だし、話の本質と外れるからしないでおく。先生の行動原理は『できる限り、誰にでも当て嵌まることを提供したい』ってことなんだ。そして、最大公倍数とは……さっき言った、島でふたり別々に暮らしているって設定をふたりで暮らすことに変える。協力し合うことによって、魚や鳥の捕獲方法が複数あるいは無限に増やせるかもしれない。それは捕獲数を最大限に増やすことを意味している。一言で済ますなら、協力の可能性は無限大ってことだし、先生は『協力した総合結果は、ひとりあたりの貢献度に関わらず均等に分配されるのが望ましい』という考え方を持っている」
「ようやくわかった……先生と呼ばれること……志しの高さと言っていいのかしら?それで、先生の言う『誰にでも当て嵌まることを提供する』っていうのは、具体的にはなにを指すのかしら」
「教育だよ」
 
 彼女は、そうか、そうか、と自身の脳細胞にある点と点を繋げて線に導こうとしているようだった。きっと娘さんのことも想像していることだろう。一方の僕は自身の話の途中で、他者である先生の話をしたことで、より客観性を手に入れたような心持ちになった。
「お話の腰折っちゃったよね」と彼女は言った。
「いや、むしろ助けられたよ。こんなにたくさん会話することは滅多にないから、僕にはリズムの取り方がわからないんだ。ちゃんと喋られるような気になってきた」
「では、続きを聴きたいんだけど」
「うん。そうしよう。僕は先生に声を掛けるタイミングを見計らった。側に他の友人が居ないときに、先生に相談したいことがあるんだと言った。先生は、では放課後に図書室で、とだけ言った。
 図書室の隅っこの方に僕らは腰掛けた。僕がどうやって切り出そうかと躊躇っていると、先生は、君は問題を抱えている、それは僕らの年代では家族か勉強か恋愛か……苛めに限られると思うんだけど、どうだろう?と言った。僕は他人事のように、そうだね……と言ってしまって、なんか恥ずかしくなったんだ。きっと赤面していたと思う。先生は、消去法で考えるなら、家庭環境に君は適応できなくなっている、間違っているかな?と言った。僕は、ただ頷くのが精一杯だった。先生は、無理はしなくていい、いまから僕の当てずっぽう的な推測を話すから、君はそれについてインプットすることだけに専念して欲しい。いまは、アウトプットするには適したタイミングではないと思う。
 結論から言う。君は『うつ病』か『躁うつ病』を患っている可能性がある。僕がそう推測したのは、もちろん君の行動を観察し検証した結果だ。加えて、ひとつ断っておくことがある。友人たちが君から離れたのは、僕が彼ら彼女らに、そうした方がいいかもしれないと告げたからだ。最も避けなければならないのは、友人たちが君の症状に影響を受け、共倒れすることだと思う。
 残念ながら僕は医者ではない。アドバイスはできても診断することは不可能だ。僕の当てずっぽう的な話に君はショックを受けたかもしれない。しかし、治療を受けるのは早ければ早い方がいい。君は僕の大切な友人だ。救いたい。今日はここまでにしておこう。ゆっくりで構わないから検討してみて欲しい、というようなことを先生は僕に告げた。
 先生は、いつの間にか席から消えていた。
 僕は、うつ病?躁うつ病?……ショックを受けるとかじゃなく、その単語だけが頭の中をぐるぐる回って、実際に目眩を起こして、席から転げ落ちたんだ」
「……きっと、そのときの翔一くんは、慰めとか癒しを先生に求めていた訳じゃないんだよね。それでもあまりに現実的過ぎる推測を突きつけられたことで、まだ中学生だった翔一くんが前後不覚っていうのかしら、そういう状態になったのはわかる。私だったら、どうなっていたのか、全く想像がつかないわ……まだ続きを聴きたいんだけど、大丈夫?」
「もちろんだよ。僕は語り尽くす。ただ詠子さんが辛くなったら、そのときは遠慮なく言って欲しい」
「ええ、そのときがもしも来たらね。興味の方が勝っていて来ないと思うけどね」
「では、続きを話すね。僕は落ち着くまでに少しの時間は必要だった。先生は僕にインプットに専念して欲しいと言っていた。縋れるのは先生の言葉しかなかったのだから、僕は図書室にそういった類いの本があるんじゃないかと思って探した。二、三冊あった。その中で、最も簡単そうに見えた本を軽く読んだ。真正面から向き合うほどの気力はなかったしね。そこに書いてあった症状は、僕に当て嵌まることもあれば、そうではないこともあった。うつ病や躁うつ病は、如何なる病気もそうであるように、ひとりひとり症状が異なるんだ。ついでというか、目に入ったから他の精神疾患についても読んでみた。それらよりは先生の言った病名の方が腑に落ちた。
 数日考えた。僕はその頃、不眠にも悩まされていた。疲れがリセットされない脳みそで、精一杯にね。僕は母に相談するしかないと思い始めた。アウトプットしてもいいタイミングか自分では判断できなかったから、また先生に教えを請うた。先生は小さく頷き、それがベターな選択だと思う、と言った。
 家に帰ってから、出勤前の母に言っていいものだろうか、負担にならないだろうかと悩みはしたものの、いつ言ったとしても結果に変わりはないだろうと思って、学校での僕の振る舞いから始まり、先生から受けたアドバイスのこと、僕なりに学んだこと、病院へ行きたいことを纏まりなく話したのを覚えている。母は、ごめんねと謝った。自分自身も翔一の異変には気づいていたし、クラスの担任からも連絡があったから……と言った。母は涙を零しながら、何度も何度もごめんねを繰り返した。感情の外壁が決壊した。僕は、泣き、鼻水を垂らしながら、座布団に顔を埋め、何度も何度も畳を叩いた。
 母が出勤した後、弟が、お兄ちゃん、大丈夫だよ。いや大丈夫ではないんだろうけど、俺も一緒に戦うからさ、って言ってね、また号泣だよ。もう本当にどっちが兄なんだかって、情けなくもあり、頼もしくも思い……救われたのは間違いない」彼女はごく自然な優しさでティッシュを渡してくれた。僕は止め処なく流れる涙を押さえ続けた。
 ……どれくらいの時間が経ったろう。痺れた脳を活性化するのは容易ではない。まだ終わっていないんだと自らを鼓舞しようとした。
「ゆっくりでいいのよ。ついでに私の涙を受け止めて」彼女も頬を濡らした。なんでだろうか。僕が涙を流し、呼応するように彼女が流すこと――それはきっと同情などではない――なにかを一緒になって溶かしているんだと思えた。
 ひとしきり互いに泣いた。ゆっくりと溶け出したものは、僕の脳を活性化する作用があった。彼女は察知したのだろう。どう準備は整ったかな、と言った。
「うん、お陰様で。なんとかいけそうな感触がある。では、続けるね。母に話してから、あまり間を置かずして、心療内科へ行った。医師へは主に母が症状を伝え、僕が更に必要と思えることを、つけ加えるような具合で相談した。抑うつ状態であるのは、おそらく間違いないだろうが、躁うつかどうかは現段階では判断できないと言われ、睡眠導入剤と抗うつ剤を処方された。
 薬で症状が容易に改善されるってことはなかった。睡眠導入剤は幾ばくかの眠りを与えてくれたけど、抗うつ剤は効いていると思えなかった。鬱々としている気分や衝動的な苛立ちを抑えるには至らなかったから、何度も薬を変えて貰うことになった。症状が治まってきたと思えるようになれたのは二ヶ月くらい経ってからだった。先生には心療内科へ行ったこと、薬を色々と変えながら治療していることを伝えていた。先生はいつも真剣な眼差しで僕の話を聴いてくれた。友人たちが、徐々に僕との距離を縮めているように感じられた。なにも語られなかったけど、先生がなんらかしらかの行動を起こしていることは僕にはわかった。担任教師には母から状況を伝えて貰っていた。
 症状が八割方抑えられているように僕が手応えを感じ始めた頃、先生に、提案があるんだが、と声を掛けられた。放課後の教室でふたりきりになり、随分と君は回復してきているように見える。しかし、いつなんどき再発するかわからないだろう?と、先生は言った。僕は、医師にも言われていることだったから、そうかもしれない、と答えた。先生は、そこでさっき言った提案なんだが、数人の友人には明かさないか?と言い、友人たちは、もう受け入れる準備を終えていると続けた。君に断らず悪いとは思ったんだが、状況についてニュアンスだけは、もう伝えてある。賢明な彼ら彼女らは、静かに受け止めていたよ。もしも再発したときは、彼ら彼女ら、もちろん僕も含めてね、微力ながら助けになりたいと願っているんだ、どうだろう?と尋ねられた。僕に提案を断る理由は全くなかった。ありがたい、でも上手く伝えられる自信がないんだ、と正直な気持ちを伝えた。先生は、心配しなくていい、僕らなら上手くやれる、と断言した。こういうときの先生の言葉には圧倒的な説得力があるんだ。僕は、うん、やってみる、と答えた。先生は席を立ち、教室を出た。すぐに、友人たちが走って入ってきた。中には息を切らしている者も居た。僕は、まず迷惑を掛けてばかりいたことを謝ろうと思ったんだけど、ひとりの女子が、ごめんね、なんにもわかってあげられてなくて、なんにも力になれなくて、と言って泣き始めたんだ。僕の視界は滲んでいった。皆が皆、もうなにも言わなくていいから、と声を揃えて言ったんだ」

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