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極景-5-

 #僕と谷田詠子#
 
「最近さ、なにか変わったことってあった?」と谷田詠子は僕に尋ねた。今日の僕の振る舞いに、普段との違いを感じ取ったのだろうか。もう二年の関係だ、新鮮さはないが、それに因って沸き上がった欲を削ぐということはなく、慣れた手順を踏めば、互いが納得する結果になることはわかっているし、独り善がりにならずに済む。
「満足できなかった?」僕は率直に尋ねた。
「ううん。ごめん。そういう意味じゃないの。いつも通り今日もすごく満足している。ただ、最近あまり会話していないなと思って、ただの足掛かりに過ぎない、きっかけのようなものが欲しいだけなの」僕らは一ヶ月に一度か二度、こうして密室だけの関係を続けている。初めて会った日は、さすがに食事とお酒と会話を必要としたが、二度目以降,待ち合わせはするものの、部屋へ直行するのが常だ。僕はそれが彼女へのマナーとさえ思っていたし、僕は僕で自身のことは必要最低限のこと、つまり、職業や年齢、どの辺りに住んでいるのかを除けば、彼女に明かしたくなかった。もっと言えば、僕はほとんどどの人物にも、自分のことを積極的に話すことはない。誰とでも一定以上の距離を超えて近くなると、途端にその人物への興味を失い、関係を継続する意味を見出せなくなる。それには、成長過程と先天的なのか後天的のものかはわからない自らの性が関係しているのだろう。いまのところ、それと向き合う必要はなく、克服に迫られたことはない。仕事となると容易に済まない場合もあるにはあるが、フリーランスという立場上、会社員ほど、プライベートを明らかにする必要性もない。上司も居なければ、同僚も居ないのだから。
「そうだね。あまり会話はしていないね。でも、それは最近に限ったことでもなくて、ずっと、そうだったよね?それが僕らには相応しいのかと思っているんだけど」
「翔一くんが、そういうのを求めていないのは十分わかっているし、余計な詮索をしているとも思われたくないんだけど、私には家族以外の繋がりって翔一くんしか居ないのよ。ああ、でもそれを重く受け止めないで欲しいの。翔一くんとの、軽いって言うのかな、この関係には随分と救われているのは事実だから。さっきも言ったけど、家族以外の誰かとちょっと会話して、きっかけが欲しいだけなの」彼女の求めるきっかけの先にある目的地には全く見当がつかなかったが、拒絶する必要性は不思議と感じなかった。
「最近変わったことって、特にないかな。いつも通りだね。僕は特に新しい刺激を求める方じゃないし、新しい刺激の方も僕にはあまり興味を持ってはないように思う」彼女は、それについて考えるような、あるいは次の一言を慎重に選んでいるような気配を出した。こういう雰囲気になってしまうのは、彼女との関係に限ったことではなく、僕は十代後半になってから一部の近しい人を除く他者を大なり小なり緊張させてしまう習性というか空気感を身につけたらしい。谷田詠子と知り合う前に同じような関係にあった女性に、それは直接的な言葉として発せられた。
「あなたは大体において紳士的な振る舞いだけど、実際は自分のことしか考えていないのよ。自分が気持ちよく過ごすために紳士的な振る舞いをしているだけで、誰かのことを尊重し、思い遣ったりすることって、きっとないのよ。私はあなたと居ると楽しい、でも安心したことは一度もない。一緒に居る間中、私が間違った言葉を遣えば、あなたがいつでもこの関係を終わらせる準備を終えていることが私には、いいえ、あなたの周りに居る人たちみんなが、きっとわかっていると思う」とかなり具体的な指摘であった。そんなことをその彼女がわざわざ言ったのは、行為が盛り上がっている最中、彼女が息も絶え絶えに、ねえ、私のこと好き?と尋ねたのがきっかけだった。彼女は谷田詠子同様に既婚者であったし恋愛関係と呼べるものではなかったから、僕は言葉に窮し、行為を止めてしまった。彼女が求めていたのはもちろん本当の言葉なんかではなかった。ただ、その場を盛り上げる散り花のような言葉で構わなかったのだ。責任を取る必要もない。そんなことは僕にもわかっていた。ただ、そこでそれに応じてしまうと、もう後戻りできなくなるような気がした。これから毎度訊かれ毎度それに合わせるのは演技であったとしても息苦しくなると思った。無論、その日以降、僕からも彼女からも連絡を取ることはなくなった。
 
 谷田詠子は、引き続き会話をしたいようだった。僕も引き続き拒絶するつもりはなかった。こういう関係であるのには彼女には彼女なりの事情があり、僕には僕の事情があった。持ちつ持たれつの間柄であるのは間違いない。男女問わずどんな関係であれ、一旦始まったら、一方的なものではいられないことくらいは僕も知っている。それで疲弊してしまうことが少なくないから、僕はお気楽なフリーランスのライターをやっているし、女性と一般的な『つきあう』という形を取ることができない。
「自分のこと以上に大切な存在ってある?」と彼女は僕に尋ねた。僕は質問の指し示す意味に確信が持てず、
「自分のことというのは、つまり自分の命ってこと?」と問い返した。
「突き詰めると、そういうことなんだと思う」と彼女は他人事のように答えた。
「思うって、どういうこと?」
「私には自信っていうものがないの。あるいは失われてしまったの。私には社会的立場のある夫が居て、娘も居る。でも、それは当然だけど自分自身ではないのよ」僕には彼女がなにを言いたいのか推し量ることができなかった。なにか質問するなり、声を掛けてあげた方がいいことはわかった。でも、なにを言っても無責任になる気がした。僕は、随分と前から独身者とつきあうことをやめた。既婚者とは、つかず離れずの関係が作れるだろうという短絡的な発想だったのだが、女性特有の性には既婚、独身などなんの関連性もなかった。しかし一定以上の距離を必要としている僕にはそれ以外の選択肢を見つけることはできなかったし、自らの性衝動は全く抑えられなかった。
 谷田詠子と知り合ったのは出会い系の類いだった。最初から既婚者とわかっていたし、そうでなければ、会うことはなかった。僕は既婚者を求め、彼女も経験から独身者を求めていた。彼女は、既婚者とは連絡を取り合うことに工夫や配慮が必要だし、自由になる時間も限られているからと言った。僕から彼女に連絡をすることはない。彼女が会いたくなったときに連絡をしてくる。僕はそれに都合をできる限り合わせる。
 無責任になるのを承知で口を開くことにした。きっと彼女は僕に責任なんて求めやしない。ただの話し相手を求めているのだ。自分の言葉で傷つけたくはないという緊張感があったから、横に居る彼女の方には向かず、天井を眺めながら話し始めた。彼女は寝返りを打った。横顔に視線を感じる。
「一般論かもしれないけど、自立した自信を持っている人間なんて居ないんじゃないかな。みんなが誰かの支えを必要としている。それに多分だけど詠子さんの言っている自信って、誰かに愛されている実感とそれに応える自分の愛情みたいなものなんじゃない?傍目から見れば、詠子さんの家っていうのはうまくいっている印象を与えるかもしれないから、第三者には、なにへ不満があるのって言われるかもしれない子供も居るんだし自分を優先した生き方している場合かってっていうような批判も起きるかもしれない。もちろん、いまのところ僕らはうまくやっているから、明るみに出ることはないと思う。
 僕はね、愛されるのにも体力が必要なんだと思うんだ。詠子さんはご主人に、もちろんお子さんからも愛されているし、必要とされている。いまはそれに応えられる体力が足りないんじゃないかな。だからこそ、自分以上に大切な存在ついて考え、頭を抱えているんじゃない?的外れかな?」僕が一息に話したからだろう。彼女は、ゆっくり言葉を咀嚼しているようで、すぐに反応することはなかった。僕には相手の反応を待つ緊張感に全く慣れる気配がない。僕はかなり自己中心的な考え方をするという自覚がある。それは防御本能のようなもので、誰にも踏み入って欲しくない場所があるからだ。しかし自己中心的な考え方の度合いと反比例するように、打たれ弱い。否定され、拒絶されることに免疫がない。彼女は、ゆっくりため息を吐き、彼女の特徴であるのんびりとした口調で話し始めた。初めて会った日、幼さの残ると言ってもいい、その口調を微笑ましく感じ、この女性となら長く続けられるかもしれないと思った。
「誠実に答えてくれてありがとう。なんかただ嬉しい。翔一くんがちゃんと話をしてくれたのって、初めて会った日以来じゃないかなって思う。もちろんそれを責めている訳じゃないから。さっき言ったけど、翔一くんに救われているって言ったのは本心だし。私ってやっぱり贅沢なんだよね。こういう関係を求めたのは自分なのに、翔一くんから、それ以上を欲しがっちゃっている。でもね、いまの台詞は救われたな。愛されるのにも必要とされるのにも応える体力が必要か……そんなこと思いつきもしなかった。いつか体力が満タンになる日が来るかなあ?」僕は軽はずみな言葉を掛けるべきではないと思った。でも正直な気持ちは伝えたかった。
「正直に言うね。それは来るかもしれないし、来ないかもしれない。誰にもわからないと思う。でも、僕のところで構わなければ、いつでも羽休めをするといいよ」
「嘘でも、来るよって言ってくれたらいいのに」と、彼女は笑いながら言って、
「だけど、それが翔一くんのいいところ。優しくされ過ぎたら離れられなくなるから。ひとつだけ、つけ加えたいことがあるの。うちは翔一くんの思っているような家庭ではないのよ」と少し鼻声で言った。横を向くと、彼女の目尻には流れるものがあった。彼女のために家庭については触れるべきではないと思ったし、これ以上は僕に抱えることはできない。
 彼女はひとしきり泣いた後、幾分かすっきりした様子で、今日は時間があるから、少し寝てもいいかなと言った。僕には急ぎの仕事はなく異論もなかった。彼女の流した涙によって、自分の垢のようなものが少し洗われたような気持ちになっていたし、幾分癒されているこの感覚にもう少し浸っていたかった。
「もちろん、僕もそうしたい。少し一緒に寝よう」彼女は、ありがとうと言って、ものの数分で寝息を立て始めた。
 
 僕も数分は目を閉じていた。眠りの予感はあったが、彼女との会話から発生した緊張の膨張と収縮から抜け出すには至らなかった。
 ふと先生のことを思った。実際はふととは言えないほど、頻繁に思い出しているし、先生から発せられた言葉に思いを馳せることは少なくない。先生とはいまでも何人かで集まり一年に何度か食事し酒を飲む関係だ。中学、高校と先生の考え方や感性の鋭さを側で体感してきたのに、なんでここまで僕と先生には差がついてしまったのだろうか。
 同じ付属高校に進学した後、先生は必然のように東京大学に合格し、選択肢は少ないよりは多い方がよいという合理的な考え方で、アメリカの大学も幾つか受け、ハーバードを含む全てに合格した。それについて同級生の誰も驚かなかった。先生は中学でも高校でも圧倒的だったのだ。アメリカの大学入試には推薦状が必要だから、英語のあまり得意ではない担任教師は相当苦心した。受験期に、その教師は優秀過ぎる生徒を持つのも考えものだと自嘲気味に語った。一方の僕はやはり東京大学志望だったのだが、気負い過ぎてセンター試験に失敗し、都内の私立大学に進むことになった。
 先生は東京大学に進学した。同級生の誰もが、それは入学時期の違うアメリカの大学への準備期間のようなものと捉えていたし、皆が皆勝手に、先生が僕たちの手に届かない存在になることに期待していた。将来、あいつと同級生だったんだよと、武勇伝として語るときが来るのを夢見た。しかし先生は結局、アメリカへ渡らなかった。先生は日本でやるべきことをやりたいと言った。アメリカには、それからでも構わないし、別に行かなくてもいい。アメリカ人の友人やビジネスパートナーが欲しくなったら日本で見つければいいしね、と先生は、説明を請うた僕らに答えた。でも、なにがやりたいのかは語らなかった。それは確実だって手応えを得られたときに言うよとだけ、つけ足した。
 僕は一浪して先生と同じ東京大学へ行きたかった。でも、これから記すできごとによって環境は一変し、それを選ぶことはなかった。
 僕が中学二年のとき、父と母は突然、離婚した。両親から経緯の説明は受けたが、自分の家庭がそういう状況にあることへ全く気づいていなかったことに愕然としたし、それ以上に、これからの自分の暮らしが不安だった。いちばん心を痛めていただろうし、いつも僕の味方であった母のことを気遣う余裕はまるでなかった。
 父は随分と前から母とは違う女性とつきあいがあった。母はそれに気づいてはいたが、敢えて放っておいた。子供にとって両親の関係というのは、見えているようで見えていないことがほとんどだ。恋愛してからの結婚であることくらいはわかる。でもその恋愛関係が継続されているものかなんて、少なくとも僕にはわからないことだった。ひとつ違いの弟は静かにそれを受け止めているように振る舞った。僕とふたりきりで居るときに、公立では珍しくないからと言った。きっとそれは強がりだったはずだ。兄として掛けるべき言葉があったんじゃないかと思う。でも、僕には余裕が全くなかった。
 最初に家族四人で話し、離婚は決定事項であることを伝えられ、母はその場を外した。父の考えなのか、母の考えなのかはわからなかったが、父自らの口で息子ふたりには伝えることにしたようだった。
 父はつきあっている女性が妊娠したと言った。
「その子は産みたがっているし、俺もその子とこれからの人生を歩んでいきたい。お前らには、本当に申し訳ないと思っている。でもお前らふたりは俺の息子であることにはこれからも変りがないから、精一杯のことはしていくつもりだし、お金の心配はしなくていい」僕の記憶が確かならば、父はそう言ったはずだった。それは残される僕と弟、そして母に向けた最低限の約束だと思った。僕も弟も、父に言いたいことは山ほどあったはずだった。でも、いざ口を開こうとしてもなにも出てこなかった。自分たちにできることはなにもないように思えたし、感情的になり涙を零すなんてことは絶対にしたくなかった。もう決まったことなんだ、と自分をただ諦めさせるのが精一杯だった。
 それから離婚の手続きは、僕らの知らないところで粛々と進められているようだった。父は母にマンションの残っている住宅ローンは払い続けると言ったそうだ。母はもし一戸建てだったら、近所づきあいもあるから引っ越しも考えるところだったけど、マンションにしておいて助かったわ、と言った。
 
 もう全く眠気はなかった。隣を確認すると谷田詠子はまだ気持ちよさそうに眠っている。僕の隣で、こんなに安心して眠る女性を見るのはいつぶりだろうか。彼女は僕のふたつ上だから、確か三十七歳なはずだ。もう立派な大人の女性だ。そして……誰かの支えを必要としている。僕のことも少しは頼りにしてくれていることがわかった。いつまでも続けられる関係でないことはわかっている。だからこそ余計に貴重で大切に思える。しかし僕は他人と一定の距離が必要な人間だ。彼女の距離の取り方に随分と救われていると思う。
 
 僕は、こうして先生のことを思い、それをきっかけにして自らの過去を反芻することがある。その度に、もう終わったことじゃないか、と自分に言ってみる。印象派の画家が元の絵画の上に全く違う絵を描き、絵の具を塗り重ねて作品に深みや立体感を出そうとするように、僕も自らの過去に彩りを加えようとするのだが、決まってモノクロで不穏な仕上がりになって、よくない衝動が湧き起こりそうになる。
 離婚が成立し、父は家を出た。僕ら兄弟の様子を確認する名目で、たまに家にやってきた。親子関係が途絶えないように努力をしているつもりだったのだろうが、僕にとっては全くの逆効果だった。新しい女を作り、子供を作り、母を捨て……僕らのささやかな幸福を破壊した男。そういう風な目でしか見られなくなった。弟の方がはるかに理解力と寛容さがあった。父の前では息子として、しっかり存在していた。母は成長期の子供には、時々ではあっても父の存在が必要だと考えていたのだと思うし、経済的な面で自立することは不可能であったから、父の顔を立てるという側面もあったのだろう。僕は、そんないろいろ全てが許せなかった。母のことをサポートしたいと思いながらも、くだらないことで何度も反発した。母にはただ、辛いんだよ、と泣き言を零せばよかったのだと、いまだからこそわかる。
 一般的な中学生が通る反抗期とは見た目は変わらなくても、僕のものは質的には全く異なった僕は自分の無力さに腹が立ち、解決の方法が見つからないことに苛立ちを隠せなくなっていった。あぶくのようになり輪郭を失った自意識が膨張と収縮を繰り返した。
 母と相談の上、中学校には離婚の報告はしないことに決めた。僕らは父の姓をそのまま使っていたので、わざわざ言う必要もないと判断したのだが、僕の変容の急激さに、教師もクラスメートも困惑しているのは明らかだった。授業中、落ち着かなくなって、何度もトイレに立つようになり、教師に指名され解答を求められたときに、なにを訊かれたのかさえ、わからないという失態を繰り返すようになった。教室にただ居るだけで落ち着かなかった。密室に閉じ込められているような閉塞感に襲われた。
 僕の通っていた中学校には知り得る限り、離婚している家庭はなかった。弟の通う中学校とは違った。結婚した夫婦の三分の一が離婚するというのは、この学校には全く当て嵌まらない。もちろん、生徒たちが中学校や付属高校を卒業した後に離婚した家庭はあるのかもしれない。でも、そのときの僕が、そういう事実があることを知り得たとしても、なんの慰めになっただろうか。僕にとっての事実は、ただひとつだった。この学校で離婚しているのはうちだけということ。
 僕は理解者を必要としていた。
 それは母であるべきなのかもしれないが、母はそれ以前に、僕たち兄弟の保護者であった。日々の生活を回すこと、家事全般はあるし、加えて弟がユースチームでサッカーをしていたから、練習は車で送り迎えし、試合になれば応援に割かれる時間も長く、僕ばかりの相手をしていられる状況になかった。
 なぜか母は離婚から半年くらいしてから仕事を始めようとしていた。一般的な家庭では兼業主婦の方が過半数以上を占めているが、僕の通っていた中学校では、仕事を持っている母親というのは特別な技能を持っているか起業家に限られていた。八割から九割は専業主婦だった。夫の収入が高いことが前提ではあるのだろうが、働くことが困難なほど学校行事が多かった。当然ほとんどの行事は平日に行われる。苦労が増えるのは間違いないのに母は仕事することを選んだ。それには避けられない事情があったのだが、そのときの僕はなにもわかっていなかった。僕の反応がよくないから父の足が遠のいていて、その隙間を埋めるための手段のひとつくらいにしか思っていなかったし、父の不関与は僕の精神衛生上、悪いことではなかった。
 先生は、僕の変容にいち早く気づいているようだった。でも、気にはしているが、なにかを尋ねるとか、心配している素振りをすることはなかった僕が教師やクラスメートたちにも気づかれているなと思い始めた頃になっても、先生はなにも行動に移す気配はなかった。僕は先生に期待をしていた。もちろん、それは叶わない片思い、いやただの身勝手であることはわかっていた。でも、そのときの僕のただ狭くて、狭過ぎる世界で救世主になり得たのは先生だけだった。先生だけを信じていた。
 母は数え切れない履歴書を作り、数え切れない企業へ送り面接を受けた。母はどんどん疲弊していった。肌は潤いを失い、目には映らない埃にまみれていくようだった。僕には尋ねることができなかった。どうして、そこまでして働きたいのかと訊いてしまうと、なにかが終わってしまう予感があった。

 もう一度、谷田詠子の方を見ると、まだ眠っている。子供のお迎えや食事の準備は大丈夫なのだろうか。時計は十五時の少し手前だった。起こすのに気は引けたが、肩を軽く揺すった。彼女は、少し驚いたような表情を浮かべてから、
「ああ、翔一くんは、もう起きていたんだ」と言った僕はそれには答えずに、
「いま十五時くらいなんだけど、詠子さんは時間が大丈夫なのかと思って」と言った。彼女もそれには答えずに、
「翔一くんは、大丈夫なの?」と言った。
「僕には今日、なんの予定もない。だから気に掛けてくれなくて平気だよ」
「実はね。夫は海外へ出張中なの。今日はどうしても翔一くんと会いたかったから、娘の幼稚園のお迎えは私の両親にお願いしているの。幼稚園が午前中だけだったから、それでね。いまごろ、娘はおじいちゃんとおばあちゃんに、いっぱい甘えているはず。悪いお母さんだと思う?」
「さすがに立派だとは言えないね。不良だ」と僕は軽口を叩くように言った。
「そんな言い方、酷いんじゃない?でも確かに不良だよね。不良、不良、不良」と彼女は響きが気に入ったのだろう。連呼した。
「翔一くん、寝てなかったでしょ?」
「なんで、そう思うの?」
「なんか雰囲気。寝起きには見えないから」
「うん。眠ろうとはしたんだけどね。ただボーッとしてたんだ」
「私、いびきをかいていなかった?」
「全くかいていないよ。すやすや眠っていた。ただ……」
「えっ、なに?なんかした?寝言とか?」
「ううん。可愛かった」
「もう、なに言っているの。これでも歳上なんだから、からかわないでくれるかなあ」
「違うんだ。僕の隣で安心して眠る女性を見るのって随分となかったから。素直に嬉しかったんだよ」
「そっか。じゃあ私も言葉通りに受け止めるよ。でも、翔一くん、さっき嘘吐いたでしょ?」
「えっ、なんのこと?」
「翔一くんがボーッとすることなんてないと思うんだ」
「じゃあ、なにをしていたと思うの?」
「きっと、考えごと。多分、私じゃ理解できないような難しいこと」難しいかどうかは別にして、彼女の勘の鋭さには驚かされた。この二年の間柄でいまさらだが、初めて親近感のある会話をしているだろう。彼女の悩みのようなものに触れ、僕自身に変化があったのかもしれない。ただ身体を合わせることを重ねても、全く手が届かない場所がある。それは虚しい行為だからというような抽象的な理由ではない。実際的に相手のことを、しっかり想像することを積み重ねることによってのみ、辿り着ける場所なのだ。先生はそれを、物理的な目と心の目をじっと凝らして見極めるんだ、と表現した。
 彼女は、もしよかったらだけど、と断ってから、
「翔一くんのこと、もう少し知りたい。私が理解できるかは自信ないんだけど、なにを考えていたのか教えてくれない?」と言った。僕は迷った。これ以上深入りさせることに因って、なにが起きるのかわからなかったからだ。過去の女性たちと同じか、もっと酷い思いをさせるかもしれない。でも、僕はなにかを変えたかった。このまま、ここに立ち留まっているよりは彼女に甘え、言えること全てを吐き出した方が一歩でも半歩でも進めるかもしれない。あまりにも酷い状況を作り出さないように、そう、それこそ、想像力を総動員して、彼女の反応や気持ちの移ろいに慎重になればいい。場合によっては告白を途中で止めればいいのだ。
「詠子さんは、今日どれくらいの時間が取れそう?」
「さっき言っていなかったけど。今日って金曜日じゃない……実は娘はそのまま実家で過ごすことになっているの。だから、そうだね。終電までか、もしくは始発で帰れたらいいかな」
「あら、そうなんだ。やっぱり、詠子さんはあれだね」
「あれって、なに?」
「不良」
 もう!と言いながら彼女はとても楽しそうに笑った。
 僕らは食事を摂りに行くことにしたが、その前にどうしてもお風呂に入りたかった。ひとりになる時間、空間が必要だった。
 彼女は察してくれたのだろう。湯船を溜めてくれた。交互にシャワーを浴びて、僕はゆっくり湯船へ浸かり、これからの数時間だけでいいから自らが無垢な存在で居られるように願ったし祈った。ホテルのエレベータに乗ってから、どちらかともなくキスをした。このまま始まるんじゃないかと思うくらい熱を孕み親密だった。ロビー階に着いて身体を離したが、僕の胸にはしっかり彼女の体温の名残があった。

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