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極景-8-

 #告白②#
 
 活性化された脳は、もう痺れることはなかった。閉店の時間が気になったし、それよりもっと彼女の気力の残量が気掛かりだったから、残りの話は今度にしようか?と尋ねた。彼女は、それに答えず、
「翔一くんは、お母さんと弟さんとお友達たちに救われたんだね。きっと、自分はなんの力も持っていない、全てはその人たちが、もう一度立ち上がる環境を整えてくれたんだって思っている。でもね、私はこうも思うの。その人たちは翔一くんを救うことで、自らのことも救っていたんだろうってね。私は最後まで話を聴きたい。それが私自身を救うことになるんだろうって感触があるの。閉店は二時だから、まだ随分とあるわ。翔一くんは、どう?」
「詠子さんが求めてくれるなら断る理由はない。では、続きを始めようか」
「その前にメイクを直してきていいかしら、もうマスカラが酷いことになっているから」
「ごめんね……」
「そんなことはいいから、翔一くんも顔を洗ってリフレッシュしてくるといいよ」
 鏡に映る顔には、薄っすらと伸びてきた髭以外、特段変化はないようだった。水を顔に浴びせると酔いから少しばかり覚醒していく感覚があった。
 個室へ戻ると、まだ彼女は不在だった。メイク直しとともに実家へ電話して娘さんの様子を確認しているのかもしれない。
 戻ってきた彼女は完璧に美しさを取り戻していた。
「綺麗だね」
「酔っている?」
「少し酔ってはいるけど、正直な感想だよ」
 彼女は、そんなことは、どうでもいいから、もう一本飲もうよ、と言った。スタッフへ声を掛けて、締めに相応しいものと厄介な問い掛けをしたのだが、彼はワインセラーに向かい、あっさりと一本携えて戻ってきた。これについて説明は致しませんが、今日の締めには相応しいはずです、と全く感情の伴わない口調で、ほぼ断言した。僕らは彼に反論やら質問するつもりは全くなかった。彼がそう言うのなら、そうなのだろうと信じられた。
 
「深い、深いね。飲み続けているのを忘れちゃうくらい新しい気持ちにしてくれる」と彼女は感想を述べた。僕は仰る通りだと思った。彼には特殊な能力が備わっているのだろう。では、続きを聴こうかしら、と彼女は言った。
「そうしよう。ほぼ再生した僕は、そのまま付属高校へと進んだ。先生や友人たちとのつきあいは、より濃密になっていった。誰しもがそうであるように、僕らも大人への階段を上って行った。先生は高校でも圧倒的だった。外部からの進学生も僅かながら居たんだけど、誰も先生に勝負やら議論を仕掛けるような者は居なかった。先生と出会ったときから感じていたことではあるんだけど、朧げだったオーラのようなものが、くっきりと輪郭を持つようになった。先生を取り巻く人々は必然的に増えていった。こんなことを言うと教祖的な存在に思われるかもしれないけど、見てくれは同じだとしても、本質は全く異なっているんだ。誰のことも従わせないし、自らの考えを押しつけることはなかった。問われれば答えるというスタンスは中学の頃からなにも変わっていなかった。そういう意味では、先生はいつも受け身だった。
 僕の高校時代は、ただ楽しかった。先生や友人たちと共に学び、共に遊んだ。エピソードはたくさんあるんだけど、この話の本質からは脱線するだけだから割愛するね。
 先生はアメリカにある複数の大学に受かったんだけど、東京大学の法学部で学ぶことを選んだ。一方の僕はセンター試験に失敗して、私立大学の文学部で社会学を専攻することにした。母は、東京大学に行きたいんでしょ、一浪くらい、どうってことないから、もう一度チャレンジしたら、と言ってくれた。その頃の母は別の店に移り、雇われママのポジションに居た。離婚当初より家計には幾ばくかの余裕があるようだった。でも甘えるのは忍びなかったんだ。諦めるというより覚悟を決めたって感じだった。
 社会学を選んだのには、先生の存在が大きく影響している。人間とは?その集合体である社会の構造とは?文化とは?なんてことを学び、想像力を逞しくしていきたかった。先生はいつも人を観察し、想像力を発揮し推測し検証することが常な人物であったから。同じ学問ではないけど、方向性はそんなに違っていないんじゃないかって思っていた。実際は、まるで違ったんだけどね。先生の思慮はそんな浅いものではなかった」
「ちょっと確認なんだけど、ずっと治療は続けていたの?」
「うん。続けていた。何度か薬を飲み忘れることはあった。そうすると目眩がし、やはり鬱々としてくるんだ。それを離脱症状と言うんだけど、薬は手放せないものになっていった」
「躁うつではなかったのね?」
「いや、いまの僕には躁うつの診断がされ、治療が施されている。大学時代の話は飛ばそう。ただ先生や友人とはいまも、つきあいがあるってことだけは伝えておくね。
 躁うつの診断がされたのは、僕が会社勤めを始めてから、二年弱くらいのときだったかな。働くまでは、わからなかったんだけど、僕は与えられた業務を、ただ遂行するということができなかった。自分自身のままでは居られなくて、自作自演で役作りをしていたようなんだ。その役は『完璧な演技』を必要としていた。僕に限らず社会で演技しながら暮らしている人は少なくないと思う。僕が違ったのは、常にハイテンションで居ないと演じ切れない点だった。それは傍目からだと、一所懸命に働いているようにしか映らなかったと思う。妙に明るかったり、声が大きかったりするような、わかりやすさはないんだ。
 自覚症状が出たときには、もう手遅れだった。
 僕には大学時代からつきあっている彼女が居た。彼女には僕の病気のことは、もちろん話していた。彼女から再三に渡って、おかしくなっている、と言われていた。過労死認定レベルの残業をこなし、求められてもいないのに同僚の仕事を手伝ったり、プライベートでは使いもしない家電や多量の衣服を買ったりね。彼女から心配されることが、どんどん重荷になっていった。社会人になって一人暮らしを始めていたから、僕の変容に気づいていたのは彼女だけだった。現実から逃げ、彼女の目を盗み、複数の女性と関係を持っていった。お金をたくさん遣い、性関係が乱れるのは躁症状の典型的なパターンと言われている。わかっているのに、自制することは全くできなかった。彼女は、それでも僕を見捨てることはしなかった。何度も何度も、ただ心配なの、翔一が死にそうな気がするって……
 それでも、僕は医師に相談することもせずに同じような暮らしを続けていた。
 その日、いつも通り深夜になって仕事を終えて、帰宅した。
 玄関に彼女の靴があったから、来ていることはわかった。いつも通りテレビを視ながら僕を待っているか、もう寝ているか、どちらかだろうと思った。
 でも、彼女はテレビの前にもベッドにも居なかった。
 僕のサンダルでも履いてコンビニにでも行ったのかと思った。
 いいや、サンダルは玄関にあった、そんな訳ない。
 違和感しかなかった。ベランダに出て、見下ろした……なにもなかった。
 当然だ、ベランダの鍵は掛かっていたのだから。
 鼓動が、その響きが、どんどん大きくなっていった。
 灯りの点っていない風呂の扉を開けた。
 彼女は湯船に浸かり、頭を壁にもたれ掛け眠っているように見えた。
 灯りを点し、声を掛けた。全く反応がなかった。
 彼女の肌には、ほとんど温もりを感じられなかった。湯船から引っ張り出し、鼓動を確認した。それは本当に微かなものだった。救急車を呼び、その間に彼女の身体を拭い、クローゼットから彼女のパジャマを取り出し着させた。これ以上体温が奪われないように、布団を被せた。
 僕がパニックになっている場合ではない、なにが起きたのか?
 彼女は手首を切ったりしていた訳ではない。
 テーブルを眺め、ゴミ箱を開いた。
 僕の睡眠導入剤の殻が多量にあった……
 
 救急救命士と医師による懸命な措置のお陰で、彼女の命は取り留められた。もう少し多く摂取し、もっと発見が遅れていれば……難しかったでしょう、と告げられた。
 事件性も検討され、僕は取り調べを受けることになった。なにも話せなかった。事情説明が必要なのはわかっていたけど、全部が言い訳にしかならないのは明らかだった。僕が彼女の命を奪いそうになったことには違いないのだから、罰を受けて当然だと思った。
 翌日の夕方頃、僕は解放された。刑事さんは多くを語らなかった。彼女を大切にしてやれよ、と一言だけ。母が迎えに来てくれたんだけど、なにも話せなかった。母は僕になにも説明を求めなかった。
 その翌る日、彼女の元を訪れようとした。でも、なにを語るべきなのか、なにを謝るべきなのかは、わからなかった。ただの自己満足でしかない訪問は、病室に居た彼女の両親により拒まれることになった。
 これほど自分の存在を消したいと思ったことはない。でも……朦朧とした意識の中ですら、死ぬことだけは違うとわかっていた。これ以上、彼女に重荷を負わせてはならない。
 
 僕は自分にできることをしようと考えた。医師の元へ行き、症状の変化を告げた。彼女のことは話さなかった。病気はきっかけですらなく、踏み留まれなかった僕自身の問題だった。躁うつの診断がなされ、処方薬が変わり、しばらく仕事を休んだ方がいいとアドバイスを受けた。休職に入ることを母に伝えると、帰って来なさい、と心配を掛けてばかりの僕へ言葉を掛けてくれた。その頃の母は独立し小料理屋のオーナーになっていた。母は僕ら兄弟にはいつも優しいし、たゆまない努力を継続し、逞しさを手に入れていた。僕は確かに母を頼りたかった……でも……苦しませ傷つけた彼女のことを放って置いて、自分が安全地帯に逃げるのは違うと思ったんだ。母には、苦しくなったら必ず帰るよ、とだけ答えた。母は、必ずよ、翔一の部屋もあるんだから、と念押しした。
 僕は日にちの感覚がうまく掴めなくなった。仕事をする訳でもなく、通院する際以外は、ただ家に居るだけだからね。きちんと早く寝て、朝起きることの繰り返しだけはできた。
 それから、彼女へ会うことは二度となかった。
 いつのことだか、もう思い出せないんだけど、彼女から短い手紙が届いた。
『翔一、ただ生きて。それが私の唯一の願いであり、祈りなの』
 僕は、僕自身の行為によって彼女が苦しみ耐えかね、自らの生を絶とうとしたんだと、とんでもない思い違いをしていたことに、気づかされた。
 彼女は命懸けで僕へ、死んだらどうなるかを伝えようとしたんだ」
 
 僕には告白し終えた解放感などまるでなかった。ただ、無視し続けていた都合の悪い事実を語ったことで、やはり立ち留まっている場合じゃないことだけは、わかった。
 詠子さんは、僕の話を聴くことが、自らを救うことになると言っていた。自分のことよりもそっちの方が気に掛かった。
「正直に言うと、いまの私では軽はずみに感想を言えるような話ではないわ。ただ、その彼女が、いまどういう暮らしを送っているのかは気になる」
「僕もずっと気に掛かっていた。当分情報は全く得られなかったんだけど、数年経って大学の友人から、彼女が結婚したと知らせを受けた。それで僕の罪が軽くなることはないし、立場上赦されることではないけど、胸の内で祝ったんだ」
「そう……それから翔一くんは、どうしたの?休職していたんでしょ」
「休職期間を経て退職した。組織で働くことが自分にはできないことがわかったから」
「先生には彼女のことを話したんでしょ?」
「ううん。誰にも話していない。母はほとんどを察しているようだけど。話すのは今日が初めて、詠子さんが初めての相手なんだ」
「それを喜んでいいのかはわからないけど、私が求めたことだし、まだ知りたいことがあるの。そのことを自分なりに考えて決めたいことが私にはある」

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