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極景-16-

――ゼロから『1』――
 
 僕の元へ、出版社経由で幾つかの取材依頼があった。僕は乗り気ではなかった。語るべきことは、もう僕の手の元を離れ、物語上にだけ存在しているように思えたが、友人である編集者とお世話になった編集長の手前上、断りはしなかった。インタビュアーや記者の期待するような受け答えは全くできなかった。編集長は、それでいいんだよ、と慰めてくれた。君はモノ書きだ。書き続けることでのみ、伝わることがある、と言ってくれた。
 
 僕は極端に外出しなくなった。ひろしとふたりっきりで、過ごしたかった。一仕事終えたから燃え尽きたという訳でもなく、病状が悪化している訳でもなかった。物語を書いていたときと同じように、集中したかった。癒しのために、ひろしの存在は不可欠だったが、彼が始終家に居る僕のことをどう思っているのかは謎だった。
 釈放されてからの先生には一度も会いに行かなかった。先生からの連絡もなかった。友人たちは折に触れ、先生の動向を電話やらメッセージで教えてくれた。僕は先生に近づき過ぎると見えなくなるものがあるとわかっていた。
 文部科学省内では、先生の復職を願う者が少なくなかったそうだ。しかし、どんなに世間の同情を買っていたとしても、殺人者を受け入れるほどの風を起こすことはできなかった。
 友人のひとりが教育系オンラインサロンの主宰者となった。実質の運営を先生が行なっていることは、此度は出版社の力を借りていないのに、あっと言う間に拡散されていった。初期会員は両手で数えられるほどしか居なかったが、会員のほとんどが実名と立場を明らかにして、加入していることを情報発信すると、会員数の伸長は急激な成長曲線を描いていった。先生の知名度と『教育』という、どの分野に所属する者にとっても無関係では居られない命題がテーマであることも相まっていたのだろう。皮肉でしかないが、文科省はもちろんのこと、多様な省庁の役人や、議員も加入した。オンラインであるが故に、地方の教育機関に勤める教員も加入できた。民間企業の管理職やコンサル職も加入した。ムーヴメントが起きていることは疑いようのない事実だった。
 先生は得た収入のほとんどを自らが殺めた男性の遺族である両親へ賠償金として渡そうとした。遺族は、むしろこちらが払うべきだと言って、固辞した。
 先生は遺族へ、一度うちの妻と娘ふたりのお墓に来て貰えないでしょうか、赦されるなら、私にも息子さんのお墓で手を合わさせてくだい。それでもう終わりにしましょう、と言った。その後、遺族は月命日には必ずのように墓参りしているようだった。先生は収入の遣い道について検討した。先生らしくなく、すぐには答えへ辿り着けなかった。
 
 変わらず、僕は、ほとんど家から出ることはなかった。
 僕は先生の計画について推論しか持っておらず、まだ布石を打っただけだ。
 集中してさえいれば、波動はいずれやってくる。雨上がりの水溜りに、ぽつぽつと、なにかが落ち水面を震わすような状景だ。始まりは速く、次第に緩慢になる。
 波動に全神経を重ね合わせると、意識は徐々に後退し、本能的に自我の膨張が始まり破裂の寸前、僕は現実世界から、もう何度目になるだろうか、ゼロ世界――偽物だけで構成される世界――に入った。僕はゼロを構成するゼロ――偽物――になる。ここを経由しないと歪みの中には入れない。偽物の僕が偽物を掻き分け、歪みの中――言葉の響きとは真逆な穏やかな世界――へ侵入すると、瞬く間に、現実世界に弾き出され、ほんの束の間、不純物のない『1』になれる。それが、唯一の効能であり、意識的に求めていることだった。少なくとも僕には、この作業を経ないと不純物を取り除くことはできない。
 ……僕は泣き虫だ。ソファに寝転がり、涙を溢れさせていると、何かを感じ取ったのだろう、ひろしが僕の胸に乗り、目尻を舐め続けた。

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