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極景-10-

 #彼女の決意#
 
「では、教育の話を聴かせて欲しいんだけど、翔一くんの体力は大丈夫?」
「今日の僕は調子がいいみたいだ。だから気に掛けて貰わなくて大丈夫だよ。詠子さんの娘さんに関係のあることの方がいいと思うんだ。いま、いくつだっけ?」
「五歳よ。幼稚園の年中さん」
「どんなことが聴きたい?」
「すごく漠然とした感じなんだけど、いい?」
「もちろん。答えられるかどうかは自信ないけど」
「当たり前のことだけど、将来、不幸にはなって欲しくないなって思っているの。平凡でいいから、ちゃんと生きられる力を養って貰いたいって願っている。そのために母親としてできること、すべきことがあったら聴きたい」
「娘さんは、どんなことに興味があるの?」
「まだ五歳だからね。公園でお友達と走り回ったり、好きなアニメを観たり、テレビから流れる音楽に合わせて踊ったりしている。敢えて言うなら、絵本は好きみたいね。ほぼ毎晩読み聞かせしているの」
「まずね、すべきことって、のはないと思うマストじゃなくてベターでいい。絵本の読み聞かせは、とってもいいよ。想像力を養ってくれるから。絵本って読んでみると、詠子さんの持つ感想と娘さんの持つ感想って、全く違うってことない?」
「あるある。読んでいて、私がよくわからないなあって思う絵本でも、娘は、楽しい話だねとか、寂しい話だねとか、言うんだよね」
「大人になると、経験による先入観があって素直に読めないって場合もあるし、おかしな探究心を出して、この絵本のメッセージは、とか余計なこと考えちゃうこともある。素直に絵と物語を楽しめばいいだけなのに、なかなか難しい。
 先生と幼児教育について何度も語り合った訳ではないから、これからする話は先生から聴いたことと僕の考えを織り交ぜたものになると思う。それでもいいかな?」
「もちろんです。よろしくお願いします」と言って、彼女は軽く頭を下げた。
「では、始めるね。可能な限りでいろんなものに触れる機会は作った方がいい。娘さんが飽きるまでは、絵本の読み聞かせは想像力を養い続けるひとつの手段に成り得るだろう。もうやっていることかもしれないけど、絵本は本人に選ばせる方がいい。興味のないものだと持続性がなくなる可能性があるから。
 触れるというのは、一例だけど、都市部で育っている訳だから山や海、自然の側に連れて行くのが望ましい。つまらなそうにするかもしれない、その場合は少し工夫して欲しい。例えば、山の中を登っていくケーブルカーに乗せるとかね。なんの感想も持たないかもしれない。でも、きっと記憶には残る。いま世界中で起きている環境問題へ、都市部の思い出しかない子供より、理解が深まるだろうし、単純に自然に触れるのは精神衛生上いい。コンクリートジャングルに囲まれているのは大人でも疲れるんだから。
 都心でも自然に触れられる場所がある。僕がお勧めなのは神宮外苑だ。四季折々の風景に囲まれながら散歩するのは癒されるし、優しい気持ちになれる。そこにお母さんとの会話が加われば、最高だと思う。詠子さんも神宮外苑へは行ったことあるでしょ?」
「あるね。両親に連れられて子供の頃に何度かと、高校生のときに、つきあっていた男の子とデートしたときかな。いまは、たまに車で通り掛かるくらい。翔一くんに言われて思い出したんだけど、子供の頃はあそこへ行くのが楽しかったし、ただ気持ちよかった。道幅も広いから、子供ながらに開放感を味わっていたんだと思うの。でも、デートのときは全然楽しくなかった。あれ、こんなだったっけ?ってなるくらい拍子抜けしたの」
「それはタイミングの問題じゃないかな。当時は恋愛に夢中だっただろうし、自然オタクな高校生でもないと楽しめないよ。もし詠子さんがひとりで行ったなら、子供の頃を思い出したりして、違う感想を持ったと思うな。加えて……相手がよくなかったんじゃない?」
「それ、あるかも。全く会話が弾まなかったんだよね。私、男性を見る目がないのよ」
「それ、僕のことを言っているの?」
「それ、要検討ってことで」
「……まっ、仕切り直しってことで。あと触れると言えば芸術作品だね。絵画や音楽、特に古典と呼ばれるものへ触れられる環境を整えることかな。数々の歴史あっての現代だからね。それらを知れば現代アートやロック、ポップスへの理解も深まるだろう。絵画はもちろん実物を観る方がいいんだけど、展覧会は観客の方に圧倒されるかもしれない。いまは印刷技術がよくなっているから絵画集でも十分だよ。まずは、子供部屋やリビングに置いておくだけでいいと思う。興味が惹かれれば、自ずとそれを手に取るだろう。モネの睡蓮やゴッホのひまわり、ムンクの叫び、ピカソのゲルニカ、綺麗って思ったり、怖いって思ったりして、いつかは作品の意味や背景を想像し自分なりの答えを持つかもしれない。
 自宅のリビングでクラシック音楽を邪魔にならない程度の音量で流すといい。親子間の会話の方が余程大切だから、あくまでBGMとしてね。
 芸術作品を観る聴くことを日常化することで、感性がどんどん磨かれていき、将来なにができるようになるのか――それは仕事するってことだけじゃなく――可能性を広げることに繋がる。以上が幼児教育について、いまの僕に言える限界だろうな」
「教えてくれてありがとう。いまは少し寒いから神宮外苑には春になったら行ってみる。多分走り出すだろうから、追い掛けるのが大変だろうな。でも、楽しそう。絵画ね、観せてみたいなとは思っていたのよ。ただ置いておけばいいんだもんね。なにかしてあげなきゃっていう押しつけがましい責任感に自分自身が押し潰されそうになるときがあるの。親の役目は環境を整えること、選ぶのは本人がすること、そういうことだよね?」
「少なくとも僕はそう思っているし、母にはそうやって育てられたからね。ああ、あとひとつ大切なことがあるのを思い出した」
「なに?」
「娘さんが幸せな気持ちになるのは、詠子さん自身が笑顔で暮らすことだと思う。おそらく、それは一番難しいことだろう。僕は母の笑顔に救われたし、疲弊しているときは、それに引っ張られた。僕に子供は居ないけど、難しさはわかっているつもり」
「翔一くんの言葉で、いまのが一番響いたなあ。というか痛いくらいだよ。いまから私は自分のことを翔一くんに話しながら、自らがなにをできるか考え、可能なら、決意をしたい。その作業につきあって欲しい」
「喜んで手伝いさせて貰うよ」
「私ね、離婚を決意していたの。もう実家の両親には事情を説明して、了承を得ている。実家に戻り両親と娘と私とで四人暮らしをしようと思っているの。両親に頼ってばかりは要られないから、もちろん働くつもりよ。職を得ることが簡単ではないのはわかってはいるんだけど、上手くいかないときは、元の結婚相談所に戻ることも視野に入れているの。元の同僚に出戻りが数人居るから、そこは大丈夫だとは思うんだけど、結婚に失敗している私が、できるのかしらって疑問もあった。でも、そういう経験が逆に活かせる可能性もあるんじゃないって、考え方を変えたの。
 翔一くんに、初めて会ったときに、夫とは妊娠してから一切の性生活がなくなっているって言ったじゃない。最初は性欲を解消したいだけなんだって思っていた。しばらくして身体の問題なのか気持ちの問題なのかは、わからないんだけど、どんどん夫へ関心を持てなくなっている自分が居ることに気づいたの。夫が私へ関心を持っているとも思えなかった。
 イクメンって言葉あるじゃない?あれって、とっても癪に触るの。なんか立派なことでも、やっているかのように煽る気持ち悪ささえ感じる。女性が育児するのは当たり前で、男性がやると称賛に値する。女性にはイクメンに相当するような言葉ってないよね。子供って、女性ひとりで妊むことってできない。一緒に家庭を築いたなら、それを育み、守るのが普通だって思っていた。夫は育児へ一切タッチしないの。もちろん、何度も何度も相談したし、怒りをぶちまけることもあった。でも、なんの手応えも感じないばかりか、幾度も汚い言葉を浴びせられ、頬を叩かれたことあった。私にとっての翔一くんは、性浴を解消するための相手だけじゃなく、夫との関係によるストレスの捌け口でもあったの。でも、翔一くんになにかを打ち明け、相談するのは違うと決めていたの。それは翔一くんのことを思ってとか、親切心でもなければ、マナーでもないの。答えの出ないとわかっている相談をして、これ以上自分自身を疲れさせないためだった……
 もう無理だったの。私の感情を抑え込むことは。他人からすれば、母親失格だとかモラルがないとか、言われるかもしれない。でも、そんなのは私の知ったことではないの。勝手に罵声を浴びせればいい。私が気に掛けているのは、夫との関係悪化が娘へ与えるかもしれない、よくない影響についてだけ。離婚について両親には説明したけど、相談するには至らなかった。私と似たような境遇に居る女性の情報が欲しかった。
 自宅のパソコンで色々調べた。参考になることもあれば、そうでないこともあった。気になったところはブックマークすればいいんだろうけど、共有のパソコンだから、そうもいかなくって、閲覧履歴からそれを探そうとしたの。なかなか見つけられなくて、随分と過去まで遡ることになった。で、思い出したの。ある訳ないってことに。私は夫に見られる訳にはいかないから毎回履歴を消去していたんだったって。自分自身呆れたわ。自らの習慣すらわからなくなるほど、馬鹿になっちゃったって。
 そうすると、冷静になるというか、なんか頭がスッキリしてきたの。開きっ放しにしていた閲覧履歴をボヤッと眺めていると不穏な感じがしたそれをポチッとしてみた。そのページはログイン状態が保持されていたの。出会い系の類いだった。もちろん、私のじゃない。やり取りの履歴を遡った。夫は結婚当初から女性をお金で買っていた。最近では未成年や女子高生まで手を伸ばしていることがわかった。
 私は、その画面をカメラに記録した。
 離婚を切り出すきっかけが与えられた気になった。
 素直に応じない場合は、写真で脅し慰謝料を踏んだくろうと思った。
 会社に送るよとか、警察に通報するよとか言えば楽勝だと考えた。
 ……でもね、今日、翔一くんからいろんなお話を聴いて、私自身が罪人であるにも関わらず、全ての責任を夫に擦りつけて、自らを正当化しているだけなんだと気づかされたの。
 ……もう何度かは、夫と向き合ってみようと思う。それでも互いにわかり合えないようだったら、覚悟を決めるつもり……私、これで前に進めるかなあ」
「正解はないと思う。でも、僕は全面的に詠子さんの決意と覚悟を支持する」
「……ねえ、お願いがふたつあるの」
「なんだろう?」
「もし離婚することになったら、卒業旅行につきあって」
「もちろん、喜んで」と僕は答えたものの、その日は来ない気がしたし、会うのも、きっとこれが最後になるのだろうと思った。
「もうひとつは、先生のフルネームって訊いて大丈夫?インタビュー記事とかあったら、読んでみたいと思って」
「まあ、大丈夫だと思う。彼は官僚の割に露出する機会が少なくないからね。名前で検索すれば記事はすぐに見つかるはずだ。タナカケイジ、普通の田中に、刑事の刑、司ると書いて、田中刑司」
 僕らは、終電前に帰ることができた。電車に揺られながら、もう連絡が来ることもないだろうな、とぼんやりとしながら、彼女との思い出を反芻した。家に戻るとシャワーを浴びる余力はなく着替えるだけして、あっという間に眠りに落ちた。
 
 ないと思っていた彼女からの連絡は、幾日も経たないうちにあった。
「先生がテレビに出ているの!逮捕されたって!」

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