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極景-13-

 #沸点と氷点#

 その日、田中刑司は、いつも通り終電で帰宅した。国会会期中はタクシーを利用せざるを得ない場合も少なくないし、泊まり込むこともある。彼は全国に六百万人以上居る児童の未来を案じているが、自らの娘ふたりの育児、教育に関しては妻に任せっきりなっており、家事においては全く力になれていないことへ申し訳なさを感じていた。
 
 妻は、長女を身籠った折に、官舎から一戸建てへの引っ越しを望んだ。官舎内に存在する役人の妻同士のヒエラルキーにはストレスしか感じていなかったし、憶測とも呼べない数々の噂話には飽き飽きとさせられていた。彼女は娘をこの環境で育てることにはリスクしかないように思えた。
 また、一戸建てに越せば、官舎とは違って多様な地域住民との交流が少なからず発生するであろうことは、育児においてプラス材料に感じられた。官舎内は、役人とその家族の集合体であり、多様な考え方を生き方を認め合う風潮になく、死後硬直を連想させた。
 彼女は彼が通勤するのに不便を感じさせないよう慎重に物件探しを行った。また彼女自身も出産直前までは仕事を続けるつもりであったので、乗車率の高過ぎる路線近郊は避けた。
 彼女にはもうひとつ拘りがあった。子供はふたり育てたかったから、子供部屋ふたつ、そして彼の書斎の確保だった。彼は、帰宅後も書類に目を通すことも少なくなく、官舎内では彼女の就寝後にリビングの灯りの照度を最低限に落とし、起こす羽目にならないよう気遣っていた。越してからは気遣いをさせたくなかったし、自らが働いているからこそ、ひとりになる時間の大切さがわかっていた。初めは建て売りも視野に入れていたが、間取りを考えると注文住宅にならざるを得なかった。予算はオーバーすることになるが、設計図と完成イメージを見せると彼も同意した。
 越した先は閑静な住宅地の見本のような街だった。高齢者、若いファミリー、ひとり暮らしの学生たちが偏ることなく共存していた。望んでいた通りに適度な近所づきあいがあり、ある親切な高齢者夫婦は彼女の娘へ自らの孫のよう接してくれ、ときには食事をご馳走になることもあった。娘も、その夫婦を、おじいちゃん、おばあちゃんと呼び、彼女が買い物に出掛けるときは、快く子守を申し出てくれた。
 彼女は深刻な問題をひとつ抱えていた。職場に彼女に好意を寄せる男性が居た。知り合ったばかりの頃は同期であったこともあり、仲間同士集まって飲みに行くこともあったし、年賀状の遣り取りもあった。彼女は友人のひとりとしか捉えていなかった。
 夫へ知り合うまでに何度か告白され、その度に傷つけないよう配慮は怠らず断り続けた。夫とのつきあいが始まってからも、それは断続的にやってきた。夫と結婚してから数ヶ月は、その鳴りを潜めていたが、その男性は、二番目でもいいから、と言ってくることが、しばしばあった。彼女は恐れさえ抱いたが、自らの振る舞いにも問題があるんじゃないかと考え、夫には相談しなかった。娘を身籠ってからは、さすがにその男性も距離を置き始めた。彼女はようやく安堵した。
 長女を出産して職場に復帰すると、その男性の振る舞いは落ち着いているどころか、エスカレートし始めた。ありもしない噂話を流し始めた。実は、昔彼女とつきあっていたことがあって、彼女の浮気が原因で別れることになった、その浮気相手が彼女のいまの夫だ、と。噂話が流れていることを教えてくれた同僚女性は信用の置ける人物ではあったが、それ以外の職場仲間が、どう思っているのは確認のしようはなかった。その男性のありもしない噂話は下世話なものにまで及んでいた。同僚女性は彼女が傷つくだけだと考え知らせはしなかったが、その男性へは激しく抗議した。その抗議は至極真っ当で正義感溢れるものであったが、皮肉にも反作用を起こすきっかけとなった。
 その男性はストーキング行為を始めた。街で過ごす彼女の写真を会社のデスクの抽斗に入れた。
 娘への危害の可能性を感じた彼女はようやく夫へ相談した。すぐに警察へ相談することにした。しかし、現段階では、その男性がつきまとい行為をしているとは断定できない、住居近辺の見回りは強化する、とだけ告げられた。無論、彼の危機管理はそれだけに留まることはなかった。警備会社との契約、防犯カメラの設置を行い、彼女へ会社をすぐに辞めるように説得した。家のローン支払いを考えると、彼女には躊躇いがあったが、彼から、お金の問題ではない、君と娘にもしものことがあったらと想定して欲しい、と言われ、納得した。
 彼女は上司に退職したい旨を伝えた。時短勤務であっても能力の高い彼女は代えのきかない仕事を任されていた。当然、上司は、なにが理由なのか、と尋ねた。彼女は、主婦業に専念したい、とだけ答えた。上司は容易に騙されてくれなかった。これからしばらく休んでいいから、退職願いは預かりとさせてくれ、と言って、その場は終えた。
 上司は賢明な人物だった。秘密裏に情報収集した。上司は彼女が退職を望んだ理由へ辿り着いた。無論、その男性に気づかせないように最善の注意を払った。彼女にはこの会社で引き続き活躍して貰いたい。その男性をよくない意味で刺激してはならない。両立させるのは困難な作業に傍目からは見えるが、上司は唯一の解決方法を見出していた。
 その男性に海外赴任を命じた。社内では誰の目にも栄転したように映り、その男性の自尊心を擽るのは容易く、これで彼女から遠ざけることにも成功する。その男性は子供時代を海外で暮らしており英語に堪能であったので、上司が上層部を説得するのに時間は要さなかった。上司は、その男性を退職へ追い込む方策も持ち合わせていたが、かなりの可能性で彼女が逆恨みに合うだろうと想定していた。それは絶対に避けなければならなかった。
 上司の計らいについて彼女は夫へ報告した。完璧な安全とは彼には思えなかったが、彼がその上司であったとしたら、同じ方法しか取れないだろうと思ったし、生きている限り完璧な安全が存在し得るものでないことは自明だった。
 その男性が赴任したのは海外現地法人であったので、ほとんどの動向を彼女は知り得なかった。
 しばらくして彼女は希望通りにふたり目の娘を身籠った。産休に入る直前になって、その男性が休職しているらしいという情報が入ってきた。真偽は定かではないが、その男性自身の自尊心を満たす程の成果を上げることができなかったのが原因ではないかと囁かれた。その内、精神を患っているという情報も流れ出した。そして、休職期間を満了し、その男性は退職し、消息不明となった。
 妻は夫へ知り得た情報を伝えた。彼は当然、その男性が日本に帰ってきている可能性が高いと思った。もう危険性はないかもしれない、しかし、彼はそれで胸を撫で下ろすことはできず、私立探偵を雇い、その男性の居場所を特定させ、しばらく動向を追わせた。
 わかったのは、ひとり暮らしをしていること、通院と買い物以外は、ほぼ外出せず、引き篭もり状態にあるということだった。
 
 彼は、自宅の鍵を開けようとした。閉まっていなかった。違和感に因る不安に彼は襲われた。廊下に所々、乾いた血痕があった。彼の鼓動は限界レベルに達し、呼吸することすらままならず、肺はほぼ真空状態に陥った。
 リビングの扉を開けた。一見して全員が生き絶えているのは明らかだった。それでも、ひとりひとりの鼓動と脈、体温を何度も確認した。妻の身体には、死後硬直が現れていた。ふたりの娘は複数箇所を刺されており、全身の血が流れ出しているように見えた。
 彼は朧げな意識の中で、どうにか決断を下した
 防犯カメラの映像を遡って確認した。
 その男性が映っていた。
 テーブルの上にあった妻の財布の中身を確認した。
 彼は投げ捨ててあった包丁を拾い、柄の部分を布で拭い、自らの手で握り締めた。
 車に乗り込み、その男性の家に向かった。
 その男性の部屋をノックした。
 返事がなかった。
 もう一度ノックし、警察ですと告げた。
 目の前に現れたのは返り血を浴びたままの、その男性だった。
 真空状態における沸点から氷点へのプロセスは背中合わせあり一対だ。
 彼の感情は沸き立ち、刹那で凍結した。
 
 これが事件の概要だ。
 彼が、なぜ警察に通報しなかったのか。その男性は三名を殺害し、強盗を行っている。極刑になるか、心神喪失や心神耗弱による犯行と見なされ無罪になる可能性があった。彼は、理屈上では自らの手で決着をつけたかったであろうし、衝動的に発生した殺意――いや、それは本能的な反射なのかもしれない――を真空状態では抑えようもなかった。
 そして、無駄とはわかっていても、いろんな偽装工作を施した。全部自分がやったと見えるように。彼にとっての事実は、家族を守れなかったのは自らの責任であるという一点だけだった。

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