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極景-6-

 #支え合うということ#
 
 随分と時間を掛けてホテルを出たから、外は既に薄暮の世界だった。時間は十七時を少し回ったところ。路地を彩る銀杏の葉は眩く、冬と呼ぶに少し早い、そういう季節だ。肌寒くはあるが、コートの必要さは感じない。僕は薄手のニット、彼女はニット地のストールを肩へ軽く掛けている。
 僕はいつも感じることがある。ホテルに入る前と出るときでは、その建物が僕へ与える印象が全く別のものになっているのだ。入る前は多少の緊張感と高揚感によって、風景に気を配る余裕がなく、記憶にほとんど残らず、ただの建物にしか過ぎない。一方、出るときは密室からの開放によってもたらされる気持ちの余白を埋めるように、周りへ視線を向ける。ホテルマンの配置や装飾やロビーで交わされる会話の数々。ホテルは実に多彩な人々によって利用され、運営されている。泊まる、食事を摂る、人によっては部屋を荷物の置き場所としてだけ利用することもあるだろう。それだけではない。僕らのような関係の人々も居るだろうし、ラウンジや密室が相応しい会話もあるだろうし、なにかの取引のようなものが行われることもあるだろう。
 運営する側には支配人が居て、フロントマンが居て、ドアマンが居て、ルームキーピングをするスタッフも居る。雇用形態は正社員も居れば、有期雇用者も居る。最近では外国語の話せる学生のアルバイト先としてもまずまずの人気のようだ。実際に働いているスタッフには多種多様な苦労があると思う。それもホテルという誰のことも拒絶しない箱の性質かもしれない。紳士淑女な客が多いとは思うが、傍若無人に振る舞うことを常としている客も居るだろう。僕には、そんな解釈とは無関係に、ホテルを出る際に誰に向かってという訳でもなく、軽い会釈をする習慣がある。『僕を受け入れてくれた箱』に礼がしたくなる。
 彼女は、いつも礼儀正しいよね、と僕へ言った。
「まあ、そんな大層なものじゃないんだよ。癖みたいなものなんだ」
「こんなこと言うのもあれだけど。うちの夫なんか、酷いんだから」
「へー、なにが?」
「外へお食事に行ったときとかね、接客してくれるスタッフさんの対応が、自分の基準に満たないと思ったら、あからさまに苛めるの。料理の出てくるタイミングばかりさ、気にしていたら、その場が楽しくなくなると思うのよ。なのにネチネチ言うの。あそこの席よりうちの方が先に頼んだのに、なんでだとかさ。この前、接客してくれたスタッフはよかったのにとかさ。私は、ただ楽しく過ごしたいの。そういうことに気づかない人なの」
「それは大変だね。そういう振る舞いについて詠子さんは指摘したことないの?」
「もちろん言ったことはあるよ。でも俺様主義だから、なにを言っても効果はゼロ。たぶんだけど、自分が間違っているなんて発想自体が彼にはないんだろうね。まあ間違っていることよりも、人の気分を悪くさせていることくらいに気づく……なんていうのかなぁ」
「感受性もしくは繊細さかな」
「そうそう。それそれ」と彼女は言いながら、到着、ここのお店だよ、翔一くんに満足して貰えるかしら、と言った。
 このイタリアンレストランは僕がお風呂に入っている間に彼女が予約しておいてくれた。彼女は、熟考したんだから、と言い、また繰り返し、私だって熟考するんだから、と言った。僕はそれがとても面白かったし可愛く思えて、飲んでいた炭酸水を吹き出しそうになった。
「あれ、私なんか変なこと言った?」
「ううん。ただ気遣ってくれて嬉しかっただけだよ」
「またまた、嘘吐いているね」
「いや、うん、あの、その」
「えっ、なに?私なに言われても平気だから。歳上なんだからさ」
「じゃあ、言うよ。でも怒らないで欲しいんだ」
「怒らないよ。お姉さんなんだから」
「詠子さん、ちょっと天然だよね」
「私、それ言われるの、すごく嫌いなんだけど」彼女は自らの宣誓を破棄し、不機嫌になった。僕は謝ったり、脇をくすぐってみたり、ちょっと距離をおいてみたり、また近づいては頭を撫でたりして、なだめることに努めた。髪の毛にキスをして、本当に可愛いと言った。
「本当?」と彼女は尋ねた。
「本当だよ」
「嘘吐きなくせに」
「もうできる限り正直に言うよ。約束する。でも中には言えないこともあるとは思う。それは理解して欲しい」
「じゃあ、許す」彼女の方が約束を反故にしたのだから納得できない部分もあったが、争っても仕方がないし、経験上、天然と呼ばれることに嫌悪感を持つ女性が居ることは知っていた。僕のミスでもある。
 
 その店は地下にあって、階段を降りる必要があった。ヒールの高いパンプスを履いた彼女の足元を注意しながら、
「話は戻るんだけど、なにを熟考してくれたんだろう」と、僕は尋ねた。
「内緒」と彼女は言ったが、それは席に通されて、すぐにわかった。しっかりとした壁があり、全く圧迫感を与えない広めの個室を取ってくれたのだ。僕の話がどんなものになるか、僕にもわからない。隣にすぐ他の客が居るような場所では無理かもしれない。
「この個室すごいね。本当にありがとう。金曜日だから見つけるのも大変だったでしょ?」
「うん。いろんなサイトを見て、ようやく見つけたの。私がガヤガヤしているところ得意じゃないから、翔一くんは、もっとだろうなって思って」
 
 僕らはコース料理を選ばなかった。お腹を満たすことよりも、互いにお酒と会話を楽しむ方を優先したいことを確認し合った。アラカルトなら、アヒージョとゴルゴンゾーラや少々癖が強目のチーズの盛り合わせがお勧めであることをスタッフから聞いて、それに従うことにした。
 彼女が一杯目は、スパークリングがいいな、と言った。僕も同感だった。その後は赤ワインにするかい、と尋ねると、彼女はまずスパークリングを飲んでから考えようと言った。
 おそらく彼女には僕の緊張が伝染していることだろう。互いに暗闇の中を手探りしているのだ。苦心してようやく手に入れたとしても、役に立つどころか、足枷にしかならないかもしれない。だからこそ、先のことは決めない方がいい。彼女の慎重さは、僕への気遣いでもある。僕は記憶の奥底にしまい込み、いやそれは向き合うことへ、ただ抗っていただけで、僕の視野から消えることは一瞬足りともなかった。ただ思考と想像を停止していたに過ぎない。卑怯で不誠実なこんな僕に向き合おうとしてくれている彼女のことは傷つけてはならないと、胸の内で呟いた。
 スパークリングで乾杯してから、互いに感想を言い合った後は、沈黙が訪れた。その沈黙は無重力空間に浮かぶ目視不能な物質のようだった。一旦力が加われば一方的な方向へ進み続けることへ抗うことができない予告に思えた。僕らはただ浮かんでいた。力を加えすぎず、互いを抱きとめるように視線を交わしたが、自らの口からなにが飛びてくるのかわからず、僕はきつく唇を閉じていた。彼女は、もう!と言って、子供のように、けたけたと笑った。
「さっき言ったよね。翔一くんのこと知りたいってさ。私が言ったのよ。わかっている?」
「もちろん、わかっているよ。いや、でも」
「いいんだってば。とにかくそんな深刻な顔はしないで。たかだか私だよ。なんにも起きないから。なんの力も持っていないんだから。少し翔一くんは勘違いしているんじゃないかな。自分が言ったことで、私を嫌な気持ちにさせるとかさ。言葉には責任を持たなきゃいけないとかさ。そういうのってさ、自意識過剰って言うんだよ」
「十分わかっている。僕は昔もいまも自意識過剰だ」
「はい!これで、こんな話は終了。私からバンバン質問していくから、翔一くんはそれに答えていって。答えたくないことはいいよ。でも私は不機嫌になるのをきっと隠せないから、それは覚悟しておいてよ」彼女はとても優しい。もう二年にもなるのに、僕はそんな単純なことにも気づけずにいたのだ。僕は心を閉ざすことでのみ、自分を保っていられると信じ疑うことはなかった。だから、この二年、彼女と一定の距離を取り続けた。さっき、自分で決めたんじゃないか、もうそんなことは終わりにするんだと。
「オッケー。もう渋い顔からは卒業するよ。きっと詠子さんに甘えてしまうと思うけど、構わないかな?」
「なに?お酒が入ると赤ちゃん言葉とかになるの?」それはそれでウケるんだけと彼女は言ってから、ドンと来いと自らの胸を叩いた。僕はようやく地上に着地できた心持ちになり、彼女の真似をするように、けたけた笑った。
「でもさ、話の順番って大切だと思うの。まずは軽そうなところから始めていいよね?」
「うん。詠子さんの知りたい順番でいいよ」
「じゃあ、まずは……そうだね。うん。いまはどんなお仕事しているの?ライターさんだよね」
「取材に行く。それを記事にする。それを出版社にデータで提出するという繰り返しなんだけど、いまはテクノロジーやら新しい政策、経済に詳しい学者とか研究者やジャーナリストへ話を聴きに行くことが多いね」
「そうなんだ。いまフリーランスなんだもんね。どうやってお仕事を貰っているの?自分で営業するの?」
「僕は営業が不得意なんだよ。ご指摘の通り、自意識過剰だし、人と一定の距離を必要としている。営業って自らを売り込むってことだから、僕には向いていないんだ。
 複数の出版社に友人が居て、仕事はその伝手がほとんどで、残りはたまにどこかで僕のことを知った人がメッセージを送ってきて依頼を受けることもある」
「ちょっと具体的に知りたいんだけど、最近ではどんな記事を書いたの?」
「うーん。なにが適当だろうか。まっ、いいか。ベーシックインカムって言葉聞いたことある?」
「うーん。なにかのニュースか記事で、その単語は聞いたことはあるけど、意味はわかっていないな」
「多くの人がわかっていないと思うし、単語を覚えていることだけでも稀なことだよ。まあ一言で済ますと、行政が国民ひとりひとりに最低限のお金を支給するってことなんだ。その代わりに生活保護とかは廃止することになる」
「えっ、そんなことしたら、誰も働かなくなるんじゃない?」
「まあ、そういうことを言う人も居るけど、実際はそうならないと思う。あくまで生活を成り立たせるための最低限の支給なんだ。それで納得する人は、ごく一部に限られるはずだ。例えば、マンションを買ったり、車を買ったり、おしゃれしたり、ママ友と少し贅沢なランチを食べるなんてことは不可能な額なんだ」
「それは苦しいわね。でも、なんでそんなことを行政がわざわざしなきゃならないの?」
「しなきゃならない訳ではないんだ。あくまで、まだ研究段階だからね。ヨーロッパでは実験が行われている国もある。いろんな理由のひとつにしか過ぎないけど、貧困が社会的問題になっているじゃない?ここで僕が言うのは、絶対的貧困のことを指すんだけど、贅沢なんかで、毎日の暮らしが、例えばそうだな、一日の食費を百円以内に抑えざるを得ないような状況の人を救うことをひとつの目標にしている」
「でもさ、じゃあ生活保護でいいんじゃない?それで最低限の暮らしは確保できるんじゃないの」
「現在では、そういう風な制度設計や社会的な風潮になっていないことも背景にあるんだ。そこで少し尋ねたいんだけど、詠子さんのご主人は会社員だよね?」
「うん。投資会社で働いている」
「もちろん、厚生年金には入っているよね?」
「そうだね。いまは給料明細って電子化されているから見ることはないんだけど、年金機構から送られてくる書面にはそう書いてある」
「それで、ご主人はその会社を定年退職するときには、退職金を貰えるよね?」
「幾らかは知らないけど、貰えるはず」
「僕を含めて、個人事業主にはそういう保障制度がないんだよ。国民年金の場合、支給額は六万円前後、いまでも生活するには苦しいし、きっと僕が貰う年齢に達したときには、家賃を払うことすらままにならない。対して厚生年金の場合の支給額は勤務時代の収入によって差はあるけど十万円から三十万円くらい。豊かに暮らすとまでは言えないかもしれないけど、退職金と合わせると最低限な暮らしは保障されるだろう。
 社会的な風潮というのは、どんなに生活へ困窮していたとしても行政へ助けを求められない人が少なくないんだ。ご近所にバレたら……とか、そもそも自分の責任でこうなっているんだとか、理由は個々にあって決してひとつではない。
 そして困ったことに年金受給を受けていると生活保護支給額は最低限に暮らしていける金額へ減額されるし、一例だけど車の所有は原則認められない。例外としてバスや電車とかの交通インフラが整備されていない場所に限っては認められることもある。しかし車の市場価値が高いと、売却せざる得ない場合もある。そうなるとどうだろうか……車がないって致命的だと思わないかい?」
「確かに、その通りだね。私は東京生まれの東京育ちだし、お金で苦労したことがないから……いまさらだけど無知な自分は恥ずかしい。この歳で専業主婦としてお気楽にやっている。抱えている問題なんて小さいし。自分と家族がまあまあの暮らしができること、家庭としての幸福だけを守れればいいとさえ思っている。環境の違う人のことへ関心を向けようとは思うんだけど、なにも行動に移せていない。言い方を変えると無視して過ごしている。でもね、言い訳にもならないけど、常になにかはしたいと思っているんだよ。なにもできないかもしれないけど……」彼女は自信なさそうに小声へなっていった。
「詠子さんにできることだけをすればいい。逆に言えば、できないことはしない方がいいくらいなんだ」
「それって、どういうこと。無理は禁物ってこと?」
「もちろん、そういう意味でもあるよ。人は誰しもが得手不得手を抱えている。日本人特有の部分も大きいんだけど、多くの人が自分のできていないことへフォーカスし過ぎる傾向がある。できていないことを頑張って平均かそれより下回るレベルにしか達しないのなら、それはその人じゃなきゃならないっていう価値を持たないことに繋がりかねない。自分の仕事や社会的活動が評価されないのは、知らず知らずのうちに自らを疲れさせるし、その活動を長続きさせられないかもしれない。
 だったならば、極端な言い方をするけど、できること、できていることを徹底的に伸ばす方が価値を持つし、場合によれば希少価値的な存在にまでなれるかもしれない」
「できること、できていることか、なるほどね。今度じっくり考えてみる」
「でも、詠子さんの言葉を借りれば、無理は禁物だからね」
「了解です!」と彼女は敬礼するように手をおでこに当てた。小難しい話できっと面倒に違いないのに、そんなことを彼女はおくびにも出さない。いい意味で、育ちがいいのだろうと思った。
 アヒージョとチーズは届けられていたが、互いに口にしていなかった。スタッフはなんの感情も込めず定型句を告げるように、チーズひとつひとつの説明をしていったが、ゴルゴンゾーラ以外は記憶に残らなかった。僕は話すことへ集中していた。見たことのない種類のチーズへ手を伸ばした。酸味も臭みも強かったが、頭をすっきりさせる作用を感じた。彼女はゴルゴンゾーラを手に取り、うん、ゴルゴンゾーラだね、と普通のコメントを残した。アヒージョは完全に熱を失い、具材はただ沈んでしまって僕らへの期待はとっくに捨てているように見えた。スパークリンググラスはもう随分前から空になっている。
「どうだろう。僕はまだ話したいし、詠子さんのことをもっと知りたい。赤ワインを頼まないかい?」と、提案した。
「あら、さっきまでとは別人みたいね。お酒が入ると変身しちゃうのかな?」
「お酒はもちろん好きだけど変身はしないと思う。詠子さんにただ甘えているだけ」彼女は、ねえ、それってさ、と言って、こう続けた。
「言葉は違うけど。私のことを頼りにしてくれているってことでいいのかな?」
「その通りだよ。詠子さんとのこの時間は、きっとこれからの僕の支えになるはずだ」僕は、その確信を持つには至っていなかったが、ただ信じたかった。身を委ねたい相手は彼女だけだった。
「悪くない展開だな。私って頼られるの好きなの。さっき自信がないって言ったけど、頼られた瞬間は頑張れるの。でもね……我慢したり継続するってことができなくて、だから……」
「それ以上は言わなくていい。それはわかるし、僕も同じだから」
「翔一くんは、やっぱり優しい。気遣いみたいなものがすごい」
「それについては、これからの話によって、全く反対の印象を持たれるかもしれない。それでも構わないと思っている。それで、赤ワインは頼む?」
「うん、飲もう。今日は飲み明かす?」
「詠子さん、お酒が強いの?」
「強くはないと思う。ゆっくりと飲むのが好きなの。結果的にたくさん飲んじゃうこともあるんだけどね。夫がさ、お仕事忙しい人だし、たまの外でのお食事でも、心ここに在らずって感じで、お仕事のことばかり考えているのよ。言葉には出さないよ。でも、そういうのって伝わってくるじゃない。だから、最近はゆっくり飲めたことってないな」
「そうなんだ。僕もね、ゆっくり飲む方が性に合ってるんだ。僕がご主人のことをフォローするのは全くの不適任者だとは思うんだけど、企業で働くってのは苦労も心配事も多いことはわかる。僕も少しの期間だけど、会社勤めしていたことがあるから」
「へー、そーなんだ。私も、もちろんあるんだよ」
「確かにそれはそうだろうね。お子さんもまだ小さいしね。どんな仕事をしていたの?」
「なんだと思う、ていうかなにしていそう?」
「難しいなあ。うーん。ご主人との出会いも加味して、同じ会社かな?」
「ファイナルアンサー?」
「うん。もう思いつきそうにないから、ファイナルアンサー」
「不正解です!正解は……結婚相談所」
「そうなんだ。全く知らないジャンルのお仕事だなあ」
「そこで夫と知り合ったの。彼は登録者だったの。結構年齢が高目だったし、偏屈な考え方をしているから、なかなかマッチングが成功しなくて私は苦労したの。おかしいでしょ、紹介する側とされる側が結婚するなんて」
「まあ、恋愛の始まりはひとそれぞれだから」
「はい!ここで、私のつまらない恋愛事情の話は終了。赤ワインを頼もう」
 僕らはフルボディにすることで意見は一致したのだが、彼女は癖の少ないものが好みだった。僕は自分の好みは言わず、スタッフへ要望を伝えて、数種類勧められ、彼女がそのうちの一本を選んだ。
 赤に染まっていくグラスを眺めていると、少しばかり高揚してきた。僕は闘牛士に翻弄される牛でもないのにと、おかしなことを考えた。
「いい色だね、濃い、濃い」と、彼女はグラスを持ち上げ眺めながら言った。
 二度目の乾杯には緊張からはとうに解放された親密さだけがあった。彼女は味に満足したように、うん、うんと頷いてから、
「そう言えば、さっきの話の続きを訊きたいんだけど」と言った。
「えっ、ベーシックインカムの話?」
「そう」
「興味あるの?」
「そこまでじゃないんだけど、思い立ったが吉日って言うじゃない?まずは知りたいことは訊いておきたい。訓練、訓練」
「なにが知りたい?できる限り簡潔に説明するよ。じゃないといくら時間があっても足りなくなるだろうし、詠子さんは飽きちゃうと思う」
「残念ながら、その通りだと思う」
「じゃあ、なにを話せばいい?」
「財源はどうするの?それだけ教えて」
「方法はいろいろ検討されているんだけど、ふたつだけ紹介するね。前提として、いまの年金やら生活保護などの社会保障制度を廃止し、全てをベーシックインカムに置き換える。これはこの後に紹介する両方に共通している。
 ひとつ目は、ひとりあたりの支給額が五万円程度なら、増税しなくてもいいという試算がある。しかしながら、それだけで暮らせるとは到底思えない。だから支給額七万円だったり、それ以上の試算も行われている。財源は富裕層への増税も検討材料に入っている。
 ふたつ目は、国が通貨をたくさん発行し、全国民に配分するというシンプルな方法なんだ。ここまではいいかな?」
「ついていけていると思う。でもさ、ふたつ目に言っていた国が通貨をたくさん発行するのって、インフレ起こすよね。通貨の価値が下がっちゃうんじゃないの?」
「その通り。価値が下がる。経済成長することが確実な国なら楽観視できるかもしれないけど、いまの日本の場合は容易ではないと思う。ただ、この方法論を信じる人は少なくないし、いまの僕の知識では否定はできない。詠子さんにちょっと考えて貰いたい。一万円の紙幣を刷るのにいくらコストが掛かると思う?」
「その質問の感じだと……何十円とかじゃない?」
「うん。その通り。何十円で刷ったものを一万円で僕たち国民へ日本銀行は結果的に売っているんだ。一見すると九千九百円以上の利益が出ているような印象が残る。その利益に見えるものは積み重ねると数百兆円にのぼるから、それを全国民に還元すればいいという方法論なんだけど、反論する学者や研究者も多いんだ。その利益的なものは、日本銀行にとっては負債として計上されている。負債の説明は割愛するけど、借金なんだから、遣っちゃ駄目だって考え方ね。
 ただ、これは返済期限のない負債なんだ。だから、それを国民に配っても大丈夫だろうという人も居る。僕に正解はさっぱりわからないし……詠子さんにも僕の説明がさっぱり伝わらなかったでしょ?」
「簡単ではなかったけど、翔一くんが簡潔に説明してくれたから考え方は知れたし、そういう議論が必要な世の中になっているんだってことは理解できたと思う翔一くんは、そういう社会保障的なことが専門なの?」
「全く……違うんだよ。来た依頼を成り行きに任せて受けていたら、ほとんどノージャンルになってしまったんだ。元々勉強することは好きだし、知らないことは調べる癖があるから苦でもなかったんだけど、いまは、ちょっと辛いというか楽しめなくなっている」
「そうなんだ……好きだからこそ続ける苦労っていうのもあるんだろうね。これからは違うことがやりたいの?」
「僕は読んだり書いたりが変わらず好きだから、ライターを辞めるつもりはないけど、これからは主に教育や家庭の問題を扱えるようになりたいんだ。ただ肝心の需要がない」と言って、僕は自嘲気味に笑った。僕らはずっとお酌し合ったりせず、自分のグラスが空けば、めいめいが注いでいる。もうボトルにはほとんど残っておらず、その空白の分だけ、充実感に満たされている。そして……今日はとてもリラックスできていることがわかる。僕は他者と過ごしていると往々にして自分の状態を把握できないことがある。間違いなく彼女から滲み出ている包容力のようなもののお陰だ。
「もう一本いかない?」と、彼女の方から声を掛けられた。
「もちろん」
「じゃあさ、これは美味しかったけど、今度は翔一くんの好みのものにしよう。さっきは私に遠慮して言わなかったでしょ」
「さすがだね。僕は特徴があるものが好みなんだ。チャレンジして貰ってもいい?」
「うん。そうしよう。私ね、食べものの好き嫌いは、人の好き嫌いに通ずるものがあると思っているの。まあ、それは母の受け売りなんだけどね。飲み物に関しては違うと思うよ。甘いものが苦手な人も居るし、健康的にもどうなのかって問題もあるし、ましてやお酒はね、アルコール自体が無理な人が居るから。私は両親からの遺伝によってアルコール耐性はあるから、是非チャレンジしたい」スタッフに声を掛け、ワインリストを求めた。癖が強過ぎず、それでも個性はしっかりあるものがいいと要望を伝えると、彼は少し考えて、しばらくお時間をください、ワインセラーにいいのがあるかも知れませんので、と言って部屋を出た。きっと一分も待っていないだろう。彼は一本携えてきて、正直に言うとこれは好みがはっきりと別れると思います。しかし、なんとなくとしか言いようがないのですが、おふたりには、きっと気に入って貰えると思います。あくまでなんとなくです。
「難しい質問をするようだけど、どんな味なんだろう?」と僕は尋ねた。
「香りに強烈なインパクトはありません、ドライフルーツ系と言いましょうか。酸味は抑えめですが、タンニンはしっかりとした渋みを出しています」
「渋めだけど、どう、チャレンジしない?」と、僕は彼女へ尋ねた。
「私、いけると思う。ドライフルーツ大好きだから」お願いします、と彼女はスタッフへ丁寧に注文した。彼は慣れた手つきでグラスを取り替え、開栓を終えると、先程と同じでよろしいですか?と言った。一本目の折に、僕らはテイススティングを不要と伝えていた。よく磨かれた空のグラスに、薄っすらと映る自分が赤に染まっていくのをなんとなく眺めていた。彼女も同じようにしているように見えた。互いのなにかが少しずつ繋がっていっている、それはきっと実態を現すだろう。そう思えた。
「さっきのよりは少し尖っているんだけど、癖が強いってほどでもなくてシンプルさを研ぎ澄ましたような個性があるねその分癖になりそう。香りは私の大好きなラズベリーっぽい。飲むのが楽しくなる美味しさ。彼は優秀なソムリエなのかしら?」
「マニュアル的な話し方には好みは別れるだろうけど、ワインへの敬意と知識、顧客に対する洞察力には優れたものがあるかもしれない。僕は正直言うと、すごく癖が強目のものが好みだったんだけど、彼の選択には敬服するよ。本当に美味しい。発見だ」
 
「では、このワインを楽しみつつ、次の質問へいっていいからしら?」
「もちろん。今日はなんでも答えるつもりだし、僕自身が話したいから」
「翔一くんは、とても繊細だし、もちろん優しい。自意識過剰を認識できる客観性もある。でも、きっと、過去の女性たちも感じていたとは思うんだけど、ときには冷徹に他人を突き放す衝動を持ち合わせていると思う」彼女は間をおいた。敢えてなのは明らかだった、質問はこの後にある。僕に前提条件の確認をしているだけなのだ。
「その通りだよ。優しさは作りものでしかない。僕は自身を守ることだけで精一杯になっていた。いまでは冷徹と感じさせてしまう衝動とは距離を置きたいと思っている。それは本心なんだよ。本当の優しさは身につけられないかもしれない。せめて他者を傷つけることは、もう止めにしたい。僕の過去の行動を詠子さんに晒すことによって、そこにある核のようなものを現実的に掴みたい。半歩で構わないから前進したい。それが僕に、いまとれる最善の選択だと信じている。だから……」
「それ以上は言わなくていいよ。それはわかるし、私も同じようなもんだから」
「それ僕の台詞のパクリじゃないか?」
「発せられた言葉に著作権とかあるのかしら。共感したから借用させて頂いただけ。問題ある?」彼女は敢えて似合わない言葉遣いをして、一気に僕を手繰り寄せようとした。強引なくらいの方が往々にして物事は前に進みやすい。
「いえ、むしろ光栄です」と僕は応じた。
「よろしい。今日は私に甘えてくれるんでしょ?だけど、翔一くんの話を聴いた後に、私も話を聴いて貰いたいの」
「もちろん。僕も詠子さんのことを知りたい」
「ありがとう。では、さっき私がすやすや眠っていたときに考えていたことを教えて欲しい。きっとそれがこれから先の話に進むための、翔一くんに言わせるところの『最善の選択』ってものでしょ?」
「僕もそう思う。それが時系列に沿うことに繋がるし、助走には最適だ」
「で?」

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