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極景-12-

 #教育改革#
 
 これは先生があるセミナーで講演を行なった内容を文章に起こしたものだ。実際の先生は始終丁寧な言葉を遣っていたが、短く纏めるために筆者が省略を行なったことを断っておきたい。
 
 先生は冒頭にこう述べた。
「まずお詫びしたい。一部の教員や教育委員会による苛めの隠蔽や助長が報道されることがある。それによって教育現場への批判があるのは承知している。しかしながら、大多数の教員は高い志しと愛情を持って皆さんのお子さんに接していることを理解して貰いたい。一部の教員や教育委員会に全ての責任を押しつけるのは容易だが、現行の教育システムを生み出した我々役人に責任があるのは疑いようのない事実だ。
 深くお詫びする。
 我々は反省し続けることを誓う。これから起きるかもしれない不幸な事態を防ぐためには、我々の決意と皆さんの協力が不可欠だ。もう同じことを繰り返すのは止めにしよう。
 
 さて、ひとつ問いを投げ掛けたい。
 学校教育で学んだものは社会に出た後に直接的に役立っているのだろうか。
 学問という側面だけで捉えると、国語と算数は最低限必要だろう。話したり、書いたり、単純な計算ができないとなると日常生活にも支障をきたす。しかし、それ以外の学問はどうだろうか。不可欠と言えるレベルの教育水準に達しているのだろうか。ごく一部の天才的なヒトにとっては別なのかもしれないが、一般的なヒトにとって、社会生活で最も必要なのはコミュニケーションスキルであることは、言わずもがなであろう。
 しかし、現行の学校教育では、そこに重きを置いていない。コミュニケーションスキルというのは、自分を知り、相手を知り続けることでのみ培われ、育まれていく。知るという言葉をもっと広範囲に定義するなら、それは想像――イマジネーション――となる。想像力のある者のみが人間的な優しさを身につけ、豊かな暮らしを送ることができる。それは昔もいまも変わらないが、ほとんど誰もそれを教えようとしない。
 皆さんも気づいていると思うが、多くの大人は想像力を停止させ、未来への責任逃れをしている。児童虐待、学校での苛め、不登校、経済格差、貧困問題、環境問題、ブラック体質の企業問題など。ほとんど誰も根本を解決しようとしない。問題が露呈してからモグラ叩きを始める。それが自らの仕事だと思っている者すら居る。いまのままでは、子供たちへ想像力の大切さを教えようもないし、役に立たない価値観――テンプレート――を押しつけ続けることになるだろう。
 一体なぜなのか。そういう社会風潮だからか?そういう時代だから仕方ないのか?いいや、それは違う。この構造は紀元前古代からなにも変わっていない。立場が上の者ほど、他者をコントロールしたがり、自らが生きている間のことしか考えず、民衆へ考える時間を与えず、知恵を、力を持たせることを拒んでいる。この場にも、そういう組織で従事しているな、と思い当たる方は大勢居るのではないだろうか。古代から文明は発展したが、ヒトは一歩たりとも前進していない。
 外部要因に責任を擦りつけるのは容易だ。しかし、問題解決は権力者のやるべき仕事だと認めてしまっては、尚更権力者を図に乗らせ、民衆は、ただの歯車になり、思考と想像力を停止させることへ拍車を掛けることに繋がる。
 家庭に置き換えるならば、最初は目に見えない塵が床や家具の上に溜まり、その内、埃の塊になり、ゴミを放っておくようになり、虫がわきはじめる。掃除は誰かがやるだろう。自分の仕事ではない。問題なのは、気づいたときには手遅れになっていることが少なくないことだ。もう、その家には住めなくなるかもしれない。
 問題は発生する前に手を打っておく必要がある。その問題に気づけるかどうか、それが想像力に掛かっている。放っておけば、そのツケの全ては子供たちが払うことになる。
 大きなツケの一部を示そう。日本の自殺者総数は減少を続けているが、少子化にも関わらず、未成年者の自殺者数は増加している。その原因の三割以上が学校問題だ。加えて三十四歳以下の死亡原因一位は自殺であり、先進七カ国の中で群を抜いている。最早猶予がない深刻な状況にあるのは理解して貰えるだろう。これは日本だけの問題ではない、隣国の韓国ではもっと悲惨な現状がある。日本が、世界が変わる必要がある。
 群れで生きることを選び、集団生活でサバイブしてきた人間は国家を作り、いまやテクノロジーの進歩により、精神的な国境すらなくなりつつあるのにも関わらず孤立感が増幅しているのはなぜだろうか。それは自由主義の名の下に、瑣末な情報が蔓延し、誰が作ったのかもわからない幸福のテンプレートを知らず知らずのうちに自らへ他者へ押しつけ、多くの人々が同調圧力で、がんじがらめになっているからではないのか。
 ほとんどの情報は無用なものであり、有用なものを選ぶには想像力が不可欠だ。そういう意味ではテクノロジーの進歩へ創り出した人間自身がついて行けていないと言える。いま以上に孤立感を増幅させることなく、テクノロジーの進歩に逆行することもなく、ヒトとして前進するためには、想像力によって自らを知り、他者を知り、その他者の幸福を喜び、痛みに寄り添える優しさに満ちた社会が必要だ。
 経験を積んだ、積ませて貰った大人の仕事は、未来への道筋を作ること、つまり人が育つ環境を整えることが全てと言ってもいい。
 もっと、直接的に伝えよう。現代社会は我々が先人から受け継いだもので、できあがっている。礼儀作法も、言語も、哲学も、宗教も、科学――サイエンス――も、テクノロジーも、経済システムも、国家という集合体も全てだ。自らがゼロから作り上げたモノなど存在しない。
 これは陸上競技のリレーと同じだ。第一走者の先には第二走者が居て、最後にはアンカーが居る。それぞれ自らに与えられた距離を一所懸命に走る。バトンは落としてはならないし、壊してもならない。できうる限りバトンパスがスムーズに進むよう考え走るだろう。これが道筋を作るということだ。第一走者にはアンカーのことまでは考えが及ばないかもしれないが、第二走者のことは、目視可能だ。第二走者のことを考えるならば、丁寧にバトンを渡すだろう。そして丁寧にバトンを渡された走者は、自分の次の走者のことを考えて走るだろう。これが環境を整えるということだ。
 
 では、本題に入ろう。
 これから述べる政策について、よく考え、よく疑い、是非批評して貰いたい。
 現在必要とされているのは教育システムのイノベーションとブレイクスルーであり、教育指導改革だ。前者を日本語で言うと、教育機関の革新であり、それを前進させることだ。現行のシステムや指導方法を知ることは必要であっても、そこから課題を炙り出し対策を行うことは、先程のモグラ叩きの一例と同じで、役に立たないばかりか、自転車操業を加速するだけで害悪だ。
 イノベーションとブレイクスルーは、現在の教育にはないものを生み出し、前進させることを意味しているのだから、他業界に目を向け、上手くいっていることを組み合わせ、想定できる問題を考慮する方が理に適っている。
 前提として一部を除いた学校は文部科学省の定めた学習指導要領とガイドラインに沿って運営されている機関であることを知っておいて貰いたい。指導要領の掲げる理想とガイドラインには、敢えて取り上げるべき問題はない。それらが現実的に実行され役に立っているのかどうかが問題なのだ。
 機関という言葉から受ける印象はどうだろう。文部科学省が国家機関であることには、なんの異を挟む余地はないが、全国津々浦々にある学校も機関なのだ。機関という言葉には組織の意味も含まれてはいるが、それ以上に機械的で歯車のような印象が強くないだろうか。民間企業の組織運営と比較すると学校の機関運営はまるで違う。公費が投入されているのだから当然だという意見もあるかもしれない。しかし民間企業の組織運営では当たり前のように行われていることが、学校ではできていないことが少なくない。そして民間企業との運営手法、カルチャーの乖離が、教育現場を硬直的な村社会にし、教員が村人になっているという現実がある。それは学ぶ側にとってデメリットの方が多い。
 
 今日の話題は初等教育である小学校に的を絞る。
 教員の役割を大きく括ると校長、副校長、学年主任、学級担任となる。教頭を置いている学校もあれば、そうではない場合もある。この中で学級担任の仕事に注目して欲しい。ほとんどの学級担任は国語、社会、算数、理科、道徳を担当し、中には生活、音楽、図画工作、家庭、体育も教えている場合もあるだろう。全てを合わせると十教科ある。
 民間企業に置き換えて考えて貰いたい。
 製造会社の一例だが、総務、経理、資材、営業、生産管理、加工日程、生産技術、製造、品質管理、コンプライアンス等の部門がある。学級担任と同じで担当するのは十部門だ。これらを、ひとりでできるだろうか。製造会社であり、個人商店ではない。同じく学校も個人商店ではない。学級によっては三十名程度の児童を担当することになる。十教科を教えながら、全児童に気を配ることへ無理を感じないだろうか。民間企業の場合、多くの従業員はひとつの専門分野を担当し、マネジメントする上司が存在する。
 教員は天才でもなければスーパーマンでもない。ただのヒトなのだ。そして学年主任や副校長が十教科を担当する教員をマネジメントできる環境にあるだろうか。全国には二万の小学校があり、四十万の教員が居る。そのほとんどが個人商店のような環境下に置かれているのだ。マネジメントには上司が部下に仕事を教える、あるいはヒントを与えるという一面がある。経験豊富な上司の元では、部下は教えを請うことができて、重要な局面では判断を委ねることが可能だ。民間企業では当たり前に行われている部下、後輩の成長促進活動や責任の分担が多くの小学校では行われ難いのが現実だ。
 先進的な民間企業に目を向けてみよう。なぜ、先進的な企業に目を向ける必要があるのか。それは、子供は未来を生きる人だからだ無論、長く生存競争に勝ち残ってきた企業から学ぶことがあるのは否定しない。しかし、多くの先進的な企業はイノベーションとブレイクスルーを繰り返している。それは先人たちの優れたレガシーを組み合わせて利用し工夫してきた結果だ。だからこそ、先進的な企業に目を向けることが早道となる。
 一例を示そう。最新テクノロジーの開発企業をイメージして欲しい。もし複数のエンジニアが個々に開発を始めたら、どうなるだろうか。当然、バラバラのモノが創り出されるだろう。加えてエンジニアを纏める上司が居なかったらどうなるだろうか。必然的に、どれを商品化するのか判断できない事態になるか、エンジニア同士の衝突が起きるだろう。
 先進的な企業では、そんな脆弱な組織運営は行われていない。開発は複数のエンジニアを集めてプロジェクトチームが組まれる。そして、ひとりひとりのエンジニアには得意領域が存在しているから、役割分担が行われる。ときとして、エンジニアは行き詰まることもあるだろう。上司が居れば、アドバイスや励ますことができる。エンジニアがそれぞれの役割を全うし、それらが集約された結果がモノになる。そのモノを商品化するかどうかは上司が判断する。場合によっては、同じモノを創るにしても、ひとつのプロジェクトチームに任せるだけでなく、もうひとつのプロジェクトチームを組ませ、並列進行で開発を進める。開発期限を設けて、それぞれのチームにできあがったモノのプレゼンを上司の前で行わせる。その場は、互いの欠点や欠陥を指摘するのではなく、互いの優位点を集約するために存在している。どうだろう。こうして優位点を集約したモノの方が、エンジニア個々が開発するより、役立つモノができあがる可能性が高いと思えないだろうか。
 
 さて、小学校の話に戻そう。
 先程、十教科あると示したが、主に学級担任が教えている国語、社会、算数、理科、道徳はふたつの区分で捉えることができる。積み上げ型教科、独立型教科と別れる。まず積み上げ型教科を説明することで、独立型教科への理解は自ずと深まるだろう。
 小学校における積み上げ型教科とは算数のことを指す。詳細は説明しないが、中学校になると算数は数学となり英語が加わり、高等学校になると物理と化学が加わる。
 算数の教科書をイメージして欲しい。初めに数字を認識することから始まる。0、1、2、3、4、5……その内に足し算や引き算などの四則演算を学ぶことになる。九九の計算で四苦八苦する大人も少なくないだろう。ここで躓いたら、この先に学ぶ筆算、小数点、分数に苦労するのは想像に難くないだろうし、最早、生理的に算数を受けつけなくなる可能性さえ高い。故に、知識、理解を積み上げる必要があるから、積み上げ型教科と呼ばれている。いやいや、そうは言っても現代には計算機やコンピューターという便利なものがあるじゃないかと思う人が居てもおかしくはない。話は少し飛ぶが、将来は文系の経済や経営を学ぶのだから関係ないと思うかもしれない。しかしながら、経済は微分積分の世界であり数学を理解していないと話にならない。経営を学ぶにしても経営指標は全て数学の世界なのだ。実際の計算は計算機やコンピューターに任せればいいだろう。ここで示唆したいことはふたつだ。算数、数学の概念を理解していないと機械が弾き出した数字を読み解けなくなるということ、もうひとつは将来就く職業の選択肢を狭めてしまう可能性が高くなるということだ。
 独立型教科の説明は短く済ませよう。ある意味ではいつ躓いたとしても、意欲さえあれば容易に取り返すことができる。ただし国語だけは別物だ。国語を『文字・言葉・文章』と置き換えて考えて貰いたい。文字・言葉・文章は欠かせないコミュニケーション手段だ。それが理解できていないと教員の伝える言葉・黒板に書かれる文字の意味がわからないという現象が起きる。必然、算数を学ぶことは不可能だ。
 ここで、学問とはなんのために存在しているのかを、説明しておきたい。
 先程、算数、数学の概念という言葉を遣ったが、ここで言う『概念』とは、学問を言語で表現することを意味しており、なにかを知るための物差しのようなモノだ。
 学問の始まりは紀元前古代ギリシャにおける哲学だと言われている。科学――サイエンス――も哲学から派生し、発展したという背景がある。哲学には諸派が存在しており、一括りには定義できないが、共通していることはある。世界のあらゆる事象を、言語化しようと試みていることだ。一方の派生した現代の科学は日常的言語では表現しようもないところへ到達しており、科学的言語でしか表せないこともあるが、哲学も科学も細分化はされたものの目指しているところは、古代から変わっていない。
 『学問』とは、世界のあらゆる事象の概念を理解する手段のひとつに過ぎない。
 児童が理解した概念の利用の仕方は千差万別が当然で、それこそが既存学問の存在意義であり、新たな学問、手段、あるいはテクノロジーや芸術作品を生み出す者が現れること――アップデート――を目的としている。
 事象の一例を示そう。致死率の高いウイルスが発生した場合、古代から現代に至るまでヒトの反応や行動は全く進歩していない。いや、古代の方が神様に祈る程度だったことと比較すると、ヒステリックな現代よりは害がなかったかもしれない。将来、各種学問の概念をアップデートできたら、デマに振り回されることはなく、想像力によって俯瞰的にその事象を捉え、人的な二次災害を防ぐことへ繋がる可能性がある。蛇足だが、タイムイズマネーという言葉があるのは皆さんも知っているだろう。これは時間とお金がイコールだと言っている訳ではなく、時間の浪費が経済的損失に繋がることを示唆している。時間があればお金を生める可能性があるが、なければ生めない。逆説的だが、時間がなければお金を遣うことはできないし、どれだけお金を費やしても一日を二十五時間にはできない。従って時間はお金より大切な要素と言える。概念――物差し――を利用することによって、あらゆる事象を表や裏、善や悪だけではなく、立体的に捉えられる土壌が養われる。立体的と述べたのは、あるゆる事象は縦と横だけで構成されたモノではなく、奥行きや深さを持ち、将来は姿を変える可能性が低くない。先程のウイルスだが、彼らはアップデートし続けている。
 話を戻そう。教員は概念を伝える役割を主に担うことになる。教員から与えられた問題に正答することは目的ではない。しかし正答を全く導き出せない児童を育てる結果になった場合、概念を伝えきれていない可能性がある。概念の理解度を確認するテストは教員のためにも児童のためにも必要だ。繰り返しになるが、問題への正答は最早、計算機とコンピューターに任せればいい。それから弾き出された結果を理解し、疑い、検証する想像力を養うためには、各々の学問の概念を理解していることが重要となる。
 いままでに述べたこんな堅苦しい言葉を児童が理解できるという甘い考えは持っていない。保護者の方々や世間の大人に認知して貰い、未来を生きる子供たちの可能性を狭めては欲しくはないと願っているだけだ。 
 
 では、教育システムのイノベーションの話に移ろう。学校や教員はどうすればいいのか。前提として教員には得手不得手があることを理解して貰いたい。
 小学校に入学したばかりである一年生から三年生はひとりの教員が概ねの授業を担当し児童との信頼関係を築いた方が新たな環境に慣れるためにはいい。教員側が教えることも基礎的なことが多く、専門性は必要としないから、現行の教育体制をほぼ維持する。
 四年生以降は学級担任制を廃止する。これは既に幾つかの自治体で似たような実証実験が行われている。加えて、四年生以降は学級、学年単位での授業を改変する。三年生までの三年間で児童ひとりひとりの特性を教員が見極め、本人の意思を尊重した上で、全教科を学年縦断のレベル別でクラス設定し、児童自身が特に学びたいと思っている教科や、そもそもの得意教科を伸ばすことへ舵を切る。学級という括りは苛めの温床になりやすく、学年別で授業を行うのは、成長のスピードが個々に違う児童の特性や個性を伸ばすのにメリットがない。児童の興味、関心は移り変わっていくことがあるだろう。必要があれば面談を都度行い、柔軟にカリキュラムを変更できる支援体制を構築する。小学校は、児童の挑戦と失敗を経験する場であり、それを受け入れる寛容さが必要だ。
 教員を、そのシステムに適応させるため、ふたつにわける。
 名称は、ティーチャーとコーチだ。なぜ、教員をふたつにわける必要があるのか。
 それは『覚える教科』と『想像力と訓練性の必要な教科』にわけるのが妥当だからだ。
 加えて、ティーチングが得意な教員とコーチングが得意な教員が居る。現在ではティーチングとコーチングの両方がひとりの教員に求められている。児童にとって、適性の合致した教員の許で学んだ方が理解を深めやすいのは、想像に難くない。
 説明すべくもないかもしれないが、ティーチングとは言葉の意味するまま、教えることだ。コーチングはスポーツ競技のコーチをイメージして貰うのがいい。日々のトライアンドエラーを支え、ときには励ます役割を担う。
 ティーチャーには社会、理科、生活、家庭を担当して貰う。
 コーチには国語、算数、道徳、音楽、図画工作、体育を担当して貰う。
 想像力を刺激するのには、知りたい、学びたいという児童自身の欲求が必要だ。児童がワクワクする環境を、仕組みを整えるのが、コーチの最も大切な役割だ。ここに集まっている保護者の方々の多くが期待している教員のイメージはコーチではなかろうか。
 コーチになるためには、専門的な研修を受け、ティーチャーとは違う資格を取得して貰うことになり、インセンティブを与える。それはティーチングよりもコーチングの方が時代の変化についていく努力を継続的に行う必要があることに加え、児童ひとりひとりと向き合う労力を払うからだ。
 担当するのは、一教員につき一教科が望ましいと考えている。全国の小学校数、児童数、教員数、教科数、同じ教科を週に、月に何度学ぶのかを総合的に計算すると、一教科あたり一名から四名の教員が担当することになる。
 
 続いて、組織化について。
 先進的な企業のプロジェクトチーム制を、ほぼ丸ごと模倣する。ティーチャーの上司にはヘッドティーチャー(マネージャー)を配置し、コーチの上司はヘッドコーチだ。教員数に余裕のある学校には、シニアマネージャー(部長)を設置してもいいだろう。プロジェクト内での情報共有や相談は欠かせない。これにこそテクノロジーを活用する。プロジェクト実施目的と指導方法、児童ひとりひとりの習熟度はデータベース化し、その学校に勤める教員全てに可視化できるようにする。無論、苛め等のセンシティブな内容は一部の教員にしか見られないようにロックを掛ける必要がある
 プロジェクトチームは複数の教員で構成され、教科ごとのプロジェクトチームがあるのだから、多くの教員がひとりの児童に関わることになる。苛めの早期発見にも効果が認められるかもしれない。もし、効果が認められない場合は、学校へコンプライアンス専任教員を設置する。教育委員会や文部科学省にもデータは集約し、児童個人を特定できない仕様を施す。その蓄積されたデータは全国の学校にも閲覧可能にする。互いの優位点から学びを得て、どんどんプロジェクトは成熟していく。現在、児童を統制することを職務と信じている教員が居る。統制はプロジェクトチーム制導入で自ずと消滅する。
 念のため付しておくが、一教科一名の場合だとプロジェクトが成立しないと思われるだろう。その一名のみが担当する教科は生活、家庭、音楽、図画工作、体育がメインとなる。スペシャリストが担当した方がいい教科ばかりであり、全国のデータを閲覧できる立場にあるし、場合によっては学校を横断したプロジェクトを組んでもいいだろう。そして上司が居る訳だから個人商店化することはない。
 
 問題点にも触れておく必要がある。今日述べるのは三点だ。
 一点目は、教員は社会経験がないまま教育者になっていることが少なくない。児童が必要としている想像力を培うサポート役としては経験値が足りない若い教員も多い。教員を育てるためにプロジェクトチーム制は幾ばくかの成果を上げるだろうが、村社会の住人から脱却するには至らないかもしれない。対策の一例に過ぎないが、他業種の方々を教育現場へ迎えることは、児童が現実的な社会を知るきっかけになり、教員間での競争を促進させることへ繋がるだろう。
 二点目は、人口は大都市圏にますます集中しており、この政策を地方では運用できない場合があることだ。まず、一名の教員が一教科だけを担当するのが不可能な小学校があるのは事実だ。全国に多数存在する児童が少ない地域においては、一名の教員が全学年を担当している現実がある。正直に述べると現段階で容易な解決策はない。しかしながら、テクノロジーの導入によって、孤立が現在以上に進むことのないよう一助にはなれるかもしれない。抜本的な解決には大都市集中に歯止めを掛ける必要がある。まずは大学の地方分散と地元への就職、定住支援を手始めとする。政府と中央官庁の我々役人、地方自治体が一体となって政策を速やかに決定し前進させることが不可欠だ。
 三点目は、改革を速やかに、より効果的に前進させるためには教員数が足りていないという実情がある。少子化なのにと思われるかもしれないが、経済の停滞に因って収入の増加が見込めないのにも関わらず、塾通いなど家計に占める児童への教育的支出の割合は増えるばかりだ。それは公的教育だけでは不十分だと思われているからだろう。もっと教員数を増やし公的教育の質を充実させられたら、教育的支出の割合は抑えられ、過酷な労働環境に置かれている教員の負担も軽減できる。そして、できうる限り学問は学校内で完結し、帰宅後は児童の好きなことに時間を利用して貰いたい。遊ぶことも大切だ。スポーツや趣味などの得意分野を追求するのもいいだろう。それらを可能にするのには、本来の学問の在り方とは程遠い、入学受験対策が必要な現状を我々役人が打開する必要があるのを承知している。実現へ前進させることを約束し、この政策提言は終わりとするが、少しだけ余談へつきあって欲しい。
 
 保護者の方々の苦労は想像に難くない。仕事や家事育児の実務でヘトヘトに疲れながら、子供に愛情を注ぎ続けるのには、体力も精神力も必要だ。
 核家族化が進み、頼られる実家が近くにない状況の方々も居るだろう。ときには、その疲れを子供にぶつけてしまい、愛情を注げているか自信を持てなくなることもあるかもしれない。愛情は受ける側、つまり子供がどう感じているかが全てだからこそ迷う。疲れを子供にぶつけてしまっても、その都度、動揺しなくても構わない。育児は、瞬間的なもので判断されるものではなく、生涯続く普遍的なものであることが、大切だからだ。
 愛情という言葉はあまりにも抽象的で掴み所がない。愛情を『興味、関心を持つ』という言葉へ置き換えて貰うと、愛情の具現化となる可能性を私は感じている。『興味、関心を持つ』という心境に立てれば、必然的に子供の行動を観察することへ繋がる。
 子供は保護者には理解し難い行動をとることがあるだろうが、子供には子供なりの理由がある。そういうときは、ただ放って置くだけではなく、いま、なにをしているの?いま、なんで、それを選んだの?と尋ねてみて欲しい。問い掛けへの返答は、子供が無意識的にとった行動を言語化することで自らの――好き嫌いや興味関心――を認知することへ繋がる。保護者は、そういう理由があったのかと、気づかせられるだろう。逆も然りだ。子供が答えた後には、保護者の考えを伝えるのがいい。道徳的に間違った考えをしている場合は、教育をする機会が来たと捉えて貰いたい。この単純な問答を繰り返すことで、保護者は子供に刺激され続け、子供も保護者からいろんなものを吸収していき、親密度は増していくことになるだろう。子育ては育てる側も育つというのは、よく聴く話だが、正にその通りだと思う。
『興味、関心を持つ』というのは一例に過ぎないが『愛情』に迷ったときは思い出して欲しい。そんなことを言っていた役人が居たな、くらいで全く構わない。
 育児も教育もアプローチ方法は無限だからこそ、保護者の方々には、想像力を駆使し、対話を通じて、自らの子供にフィットしたものを一緒に選んで貰いたい。
 伝えたかったことは以上だ。
 長々とした話に耳を傾けて貰ったことへ感謝し、講演の締めとする」
 

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