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電視版『曹操』を観て調べてみた


 これは以前Tumblrに投稿していた記事の転載になります。

趙立新主演の『曹操』

 曹操の父曹嵩は曹騰の養子というのは有名です。

 ですが、電視版では宦官曹節の曾孫になっていました。あれ?と思って調べ直すと、なんと、曹嵩は曹騰の父曹節(曹萌)の甥曹瑜の庶長子。曹嵩には実弟の曹忠、字は巨堅がいました。

 昔調べたことと大分違うというか、かなり情報が増えているぞ?と、俄然興味が湧きました。

 宦官曹節(字は漢豊)と曹騰の父曹節は別人らしく、曹萌が正しいとされています。曹節は誤記とか、女性説もあるのだとか。字は元偉。曹萌の弟は名前が解っていませんが、その息子が曹瑜です。

曹瑜の一族

 ではまず、曹瑜の系統をみてみましょう。

 曹瑜は衛将軍にまで昇進し、列侯に封じられています。曹瑜の嗣子は二男の曹忠です。

 ちなみに、長男の字は正室の子が「伯」、側室の子が「孟」となっていますが、「元」や「玄」という字も使われます。「公」という字も嫡出の長男(袁術=袁公路/劉禅=劉公嗣)を意味します。ので曹萌は嫡子ではなかった可能性があります。

 曹忠の子は曹邵、字は伯南と曹慮(曹遵の父)。曹邵の子は曹真と曹彬です。曹慮の字は兄曹邵の伯南に対して仲西などとつけたかもしれませんね。というの は、邵は紹ともいい、赤の色を連想させる字であり方角としては南です。それに対して慮は虎を連想させるので西、もしくは慮は緑に通じる色で方角としては東ですので、仲東だったかもしれません。単純に仲北ということも考えられますね(笑)

 曹邵と曹慮は、曹操の挙兵に応じましたが、豫州刺史の黄琬の配下の沛国の相・袁忠の軍勢によって殺害されます。

 袁忠、字は正甫。汝南出身、清流派の名士で後漢末期の沛国相。汝南袁氏の一族。袁賀(字は元服)の次子。袁賀は袁紹・袁術の祖父袁湯(字は仲河)の兄袁彭(字は伯楚)の子。のち官を辞して上虞に難を避ける。さらに孫策が会稽を支配した時は、海路交阯に逃れました。献帝に召集され衛尉となりますが、赴任せずに歿。 沛国相の時に曹操を処罰しようとした事があり、その報復を恐れて交州に避難しました。沛国は豫洲汝南郡。兄袁閎(字は夏甫)、弟袁弘(字は邵甫)がいます。

 曹邵は秦琪のむすめを妻にしていた関係で、誤って秦伯南と記されたと言われており、曹操が挙兵した際に参加した曹邵が亡くなって已後、曹真が曹操に我が子のようにかわいがられたのは、曹邵が曹操の従弟ですから、別段不思議ではないですね。

曹萌の一族

 では曹萌の一族を見ます。

・長子 曹鸞 字は伯興
 曹鸞は永昌太守。霊帝に党錮の解除を願い出て怒りを買い、処刑。一族は殺されています。曹褒、曹燦、曹胤、曹鼎、曹鸞、曹勳、曹水らの名が刻まれた墓碑も出土しているそうで、ここにある曹鼎は曹鸞の子で、曹水は曹鸞の孫。曹休は曹水の子。

・次子 曹褒 字は仲興
 潁川太守。子は曹熾と曹胤。曹鸞の上奏に連座して処刑されました。

・三子 曹鼎、字は叔興
 こちらは尚書令になった曹鼎。子や孫の名前は解っていませんが、孫は曹冏 。曹鸞の上奏に連座して処刑されました。

・末子 曹勳(字は幼興か?)
 曹騰の下の弟。曹勳の子が曹洪、字は子廉。曹勳は別名曹勛。曹勳の字については、上の四人が興で揃えていることや、夏候淵の子の字が伯権・仲権・叔権・季権・幼権・稚権・義権(夏候七権)となっているので、幼興だと考えられます。

 ちなみに、字で、数が揃っているのは馬氏五常(伯常・仲常・叔常・季常・幼常)、司馬八達(伯達・仲達・叔達・季達・顕達・恵達・雅達・幼達)で、夏候七権とともに「幼」が位置は違えど共通していることから、幼興でまずまちがいないとされます。

・曹鸞の子 曹鼎 字は景節
 こちらは呉郡太守 。曹鸞の諫言に連座して処刑。

・曹鼎の子 曹遂 字は不明
 曹水とも。豫州刺史。曹鸞の諫言に連座、官を辞して故郷を出奔し、数年後に死亡。曹遂の子が曹休、字は文烈。

・曹褒の子 曹熾 字は元盛

 侍中・長水校尉を務めた。墓標には曹燦とあるのが、曹熾と考えられています。

・曹熾の弟 曹胤
 会稽太守。ともに曹鸞に連座し処刑。

 ちなみに、元というのは孟や伯と同じで、長男に多い字です。もしかすると、曹胤が正室の子であったかもしれません。

 この曹熾の子が曹仁、字は子孝と曹純、字は子和。

 こうしてみると、夏侯氏との結びつきは、曹瑜の妾が夏侯氏であったか、曹嵩の妻が夏侯氏であったと考える以外にないように思います。しかし、曹嵩が夏侯惇の叔父であったということは、夏侯惇の叔母が曹嵩の妻であったということでしょうか。それと、曹洪との関係を考えると、曹勳の妻と曹嵩の妻が姉妹または 従姉妹と考えられます。

曹参の末裔は別の一族

 曹萌は曹参の末裔で惣領家。曹騰が宦官で出世し、曹嵩が太尉に陞ったため、曹操の家が惣領の扱いに……と思っていたら不思議なことに曹瑜の系統は曹無傷の後裔とされ、曹参の後裔とされる曹萌と同族とはいえないのでは?と考えましたが、曹瑜は曹萌の甥とされています。

 そこで曹参の系統を調べますと、曹参→曹窋→曹奇→曹時→曹襄→曹宋と受け継がれますが、戻太子の叛乱に連座して爵位を取り上げられ、のち宣帝に曹時の孫である曹喜が平陽侯に任ぜられています。曹喜は扶風平陵の人で、沛国譙県とはかかわりがありません(曹参は沛国の出身ですが)。建初2年に曹湛を容城侯に封じており、この家は曹操の家と無関係。つまり、曹操の系譜は「曹無傷」に繋がる家であったわけです。ちなみにこの曹参の家は、西晋王朝(司馬炎の王朝)時代まであります。

 つまり、曹無傷家嫡流は曹鼎(景節)であったが、曹鸞に連座して処刑されてしまったので、曹熾が惣領となりました。しかし、数年で歿ししてしまい、曹嵩が惣領したと考えられる訳ですね。曹騰に庇護された者たちだけが生き延びたということになっています。曹騰が宦官になったのが曹一族を発展させる要因になるのですから、人間万事塞翁が馬ですよね。

 ですが、「こっちが嫡流だ!」と思っている曹仁は、最初、曹操と袂を訣って豫州辺りで勢力を伸ばそうとしてたけど、限界を感じて曹操に帰順。元々同族なので、それほど抵抗はなかったかもしれませんね。

 夏侯一族は曹嵩の姻戚ということなら、よく分かります。

 因みに曹操の第一夫人丁夫人の父(岳父)は丁嵩。これも墓が曹氏公苑で見つかったそうで、今回初めて知りました。

 曹真の重用は、系譜的に納得。

 今度考察するときは、ここに丁氏と夏候氏を加えて考えてみましょうか。

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