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「見立て」は代用・代替の言い換えではない

「ブレスレットを蓋置に見立てまして」

 時々耳にする言葉です。

 この言葉遣いに前々から違和感を覚えていました。

 ブレスレットを蓋置に「見た」のは分かりましたが、何を立てたのでしょうか。

 この「見立てる」という言葉は「見る」+「立てる」であり、本来「何らかの目的のために、何かに見る」という意味で使われている言葉です。

 それなのに、「蓋置として見る」だけで用いては、「使う理由」即ち「物語」は立っていないことになります。

 私が感じる違和感はそこです。

見立てとは?

 ある水指の釉景がまるで山の稜線に見えるので、遠山と見て紅葉の茶盌に合わせることで晩秋または初冬の景色という物語を立てた――これこそ、見立てです。

 そもそも茶道具の組み合わせは何らかの意図がなければいけません。

 例えば「鳳凰風炉に富士釜」という組み合わせは「富士」が「不二」であり、「不死」であることから組み合わされているものです。

 例えば、炉椽に「青海波蒔絵」、「長板」に「染付山水皆具」で「富士裾野釜」なら灰が海岸となって「駿河湾」そこに松絵の道具があるか蓋の摘みか松毬なら(なければ松葉でも可)「三保の松原」となります。

 こうした言葉遊びや、景色の組み合わせが物語と呼ばれる道具の使われる理由になりまり、これを「見立てる」というのです。

代用・代替と言いたくない心境

 ところが物語が付随しないで本来茶道具でないものを使われている方が圧倒的に多い。

 Twitterで、「それは見立てではない」と言ったら喧嘩になったこともあります。

 私からすればそれは「代用」「代替」でしかないからです。見栄をはって、本来の物を持っていない代わりに用いたことを間違った使い方で誤摩化したとしか思えませんでした。

 これについては母とも同じ大喧嘩をしたことがあります(笑)

 私は何も代用や代替が駄目だ!と言っているのではないのです。代用や代替ならば、そう言えば良いということなんですよ。そこに見栄は必要ですか?

 見栄というのは侘から最も遠いところにいることですし、見栄は鍍金メッキに過ぎません。

 分不相応とか気後れするという言葉があるのに「敷居が高い」と誤用するのもこの辺りの方々な気がします。いわゆる「意識高い系の勘違いさん」ですね。

 かく言う私も齢三十を過ぎてから、言葉を辞書で調べ直したクチなので、大口たたいて批難できるもんでもないのですが、見立てという言葉の使い方は、違っている人が多いと思います。

茶道具でないものを茶道具にする「取り上げ」

 これは「用いる」「取り上げる」と言いますが、此れをするには条件があります。

 それは「飛び抜けて良いものでなければならない」ということです。

 これが意外と難しい。

 ただ単純に自分が好きだから、というのでは取り上げたとしても茶席で使って「わぁ!」とならないからです。

 なんであっても褒める傾向にある茶席においては、「飛び抜けたものでなければ、本当に褒められることはない」といえます。

 取り上げるということは「その後に続く人が出てくるほどのもの」でなくてはなりません。つまり、「真似する人が出てくるようなほど憧れてもらえるものかどうか」が肝腎です。

まとめ

「見立て」ということについて、今回は考察してみましたが、皆さんはどうお考えですか?

 安易に見立てましてというのは辞めたほうがいいと私は考えます。

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