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第一章 動乱前夜 第五服 晴成厩府

せいきゅうなり

春来ぬとふりさけみれば天の原
あかねさし出づる光かすめり

 細川ただかたやしきてんきゅう邸と呼ばれ、細川けいちょう家の隣、百々どどつじ(現在の寺之内通り)を挟んで北側にある。寝殿落成の祝いであるとともに、前年の大永三年西暦1523年に高国の命で狩野かのうもとのぶら狩野派の絵師に描かせた洛中図屏風(現在、歴博にある甲本、俗に三条本と呼ばれる洛中洛外図屛風)の御披露目――即ちやなぎはら御所の完成予想図披露を兼ねていた。

 寝殿落成の儀も終わり、宴の上座でただかたよしはる公より盃を賜っていた。介添役は勿論たかくにである。義晴公の背には洛中図屏風が据えられていた。

 高国と尹賢の近くには細川一門が侍っている。畠山稙長の弟で和泉上守護家を再興した五郎晴宣、淡路守護家の入り名字を名乗り淡路守護家が滅ぶとこれを襲名した細川まさなりの子・淡路刑部少輔高久、治部少輔なりひさ、高久の子・又二郎晴広が並んでいた。尹賢の側には和泉下守護家の民部大輔高基、外様衆の駿河守かたまさ、高基の子・九郎勝基と尹賢の弟らが控えている。また、末席には連枝衆として遠州家分家のげんのかみ元治と孫の源五郎くによしの顔もあった。高国の隣には弟・とらます丸の姿もある。
 
「けっ! ったく、すましやがって」
「よせ、四郎香西元盛あに武蔵守細川高国さまに聞こえる」

 悪態をついているのは名をこう西ざいろうもんのじょうもともりという。高国の直臣だ。

 香西氏は讃岐国司であった藤原北家のすえで、細川氏のうち衆として仕えた一族である。先代のまたろくろうもとながは高国の義兄・すみゆきの近侍であった。澄之は元関白・九条政基の末子で、母は武者小路隆光のむすめ、九条家当主・九条尚経は異母兄にあたる。香西元長はえいしょうさくらんを引き起こした張本人であった。高国の義父・政元を殺害した元長を、澄之の邸宅ゆうしょけんにおける戦いで高国の軍勢が討ち取り、細川家中における高国の立場は向上した。しかし、乱後の京兆家の家督は典厩家のまさかたが支持した讃州家出身のすみもとが得る。のち、大内よしおきの上洛に際し、敵対することを決めた澄元と袂を分かち、高国は大内氏を受け入れた。これにより、両細川の乱へと突入する。

 高国は内衆の離反を抑えるべく、近侍であったまごもときよの次弟・四郎を元長の後嗣とした。

 香西氏は在京して活躍した元長の祖父もとすけ以後、在京の上香西家と在国の下香西家に分かれている。元資の長男・もとなおは在京の内衆となって、山城国かど郡にあるあらしやま城を授かった。嵐山城は幅一町弱一〇〇メートルもの曲輪があり、三か所の堀切に工夫を凝らした特徴がみられる山城で、丹波へと続く山並みを背に渡月橋を見下ろす尾根筋に立地し、嵐山や松尾のみならず、京が遠望できる要衝である。

 讃岐の領地を受け継いだのは次男・もとつなで、現在はその子・もとさだが継いでいた。

 讃岐の中央部に位置する香川郡香西邑から郡を領する下香西氏は東西讃州の要衝であるので、讃岐回復の際には元盛を西讃の守護代に任じ、下香西氏を寄騎にすることで香西氏を一本化したいと高国は考えている。

 現在、讃岐は阿波守護の細川讃州家が東部に進出しており、中央部に位置する下香西家の元定は大内氏に属して久しい。その上、香西元定は塩飽しわく水軍を率い、朝鮮などと交易して下香西家の全盛期を築いている。

 管を巻く元盛を抑えているのが波多野三兄弟の末弟・やなぎもとろう左衛門尉かたはるだ。げんぞくした長兄・元清に代わってせん寿じゅとうの弟子となったが、その後、高国の命で山科こうしょうてらざむらいである岩崎太郎左衛門の養子となる。しかし、永正十七年(一五二〇)に大和の国人・柳本ながはるが嫡子共々討死すると、その後嗣として高国の命で家督した。その際、細川尹賢の偏諱を受け賢治と名を改めている。尹賢の家臣ではないが、その指揮下で働くことの多い賢治は文官肌でありながらも、知略に優れた尹賢を尊敬していた。それ故に、尹賢と反りの合わぬ元盛の対応に苦慮している。共に育った兄を大切に思っているのだ。

 少し離れたところに元清があり、チラチラと次弟の元盛を心配しているのが伺える。やや粗暴なところのある元盛を案じているのだろう。波多野の三兄弟は賢治だけ母が違うのだが、早くに亡くなり、元清の母が引き取り養育していたため、異母兄弟という意識は薄い。

「わぁ〜ってる。五郎柳本賢治は気にしすぎだ。あそこまで声なんざぁ、届きゃしねぇって」
「なんにせよ、静かにしてください」

 声を落としたとはいえ、なおもブツブツと尹賢の悪口を呟く元盛に、小さい溜息をく賢治であった。

 朝倉氏が土佐光信に描かせたという『一双画京中』に描かれた細川京兆邸と並んで豪華絢爛な典厩邸であるが、あらたしく落成した寝殿は、義満公の北山山荘や義政公の東山山荘の舎利殿を模しており、六波羅風の独立した母屋であった。

 典厩家というのは、細川京兆家――すなわち本家の執事であり、内衆と呼ばれる家臣団の取りまとめ役である。もちもともちゆきを支えたもちかたが幕政に忙しい二人の兄の代理として、内衆を仕切ったことから始まった。

 内衆というのは在地の国人衆を取り仕切る守護代や直轄領の奉行を務める細川氏の直臣である。時代が下るに連れ、在地の国人衆を取り込んで半ば在地化するものや、国人から取り立てられた者も増えていた。香西元盛や柳本賢治のように直臣が国人衆の在京家の家督に入って家中を掌握することで、国衆との結びつきを強くすれば地盤が固めやすいという高国の思惑によるものでもあるが、完全に別家となっている家も多く、国人らを上手く取り込めているとは言えない状態であった。

 これは、両細川の乱で家中が二分してしまい、在京家と在地家が分裂してしまっていることと、戦国の世となり実効支配が優先されたことによる。

 尹賢は細川野州家の分家・細川はるともの子として生まれた。兄は備中国守護となったくにとよ、弟はのちに和泉下守護家を継ぐことになるたかもとである。初めは外様衆で一門の細川駿するのかみまさきよの養子となり、まさみつと名乗っていた。養父の歿後に将軍よしずみ公より偏諱され駿河ぎょう少輔のしょうゆうすみしげを名乗った。

 典厩家三代細川まさかたは永正の錯乱で澄元を京兆家当主に推し、澄元と高国が対立した両細川の乱では澄元が敗れて阿波に落ち延びると、京を離れ澄元に合流する。空いた典厩家の家督は永正六年西暦1509年高国の命で澄重のものとなった。

 細川政賢は和泉下守護家から典厩家へ養子に入ったとも言われ、典厩家二代政国まさくにの後嗣である。政国自身も野州家細川もちはるの子で、持賢の養子に入っていた。典厩家は養子が続いており、家というよりも当主の右腕が当主となるという側面が強いといえる。

 政賢は阿波国守護・讃州家の細川よしはるの女を正室に迎えており、嫡子すみかたを産ませていた。また、女を高国に嫁がせているにも関わらず、両細川の乱で澄元陣営に奔ったのは、澄元が義春の子で、自身が妹婿であったことと、高国の室となった女が既に身罷っていたからであろう。

 両細川の乱とは、京兆家直系が途絶えたことによる野州家出身の高国と讃州家出身の澄元の争い――分家同士の家督争いと見たほうが分かりやすい。

 永正八年西暦1511年、船岡山合戦で、政賢が戦死すると、澄重は高国を通じて将軍よしただ公より一字拝領の栄誉を受け、名を尹賢に改めた。これにより、名実ともに典厩家を掌握する。子はきゅう寿じゅ丸(のちの細川氏綱)が十二歳、きゅうろく丸(のちの細川藤賢)が八歳、きゅうふく丸(のちの細川勝国)が生まれたばかりである。

 尹賢の横に緊張した面持ちで坐っている男子が宮寿丸細川氏綱だ。所在なさげで、場違いな大人の場に連れてこられた感が強いが、将軍御目見得というのは武家にとって誉れであり、元服していなくてもある程度の年齢になればこうした場に出ることもある。ましてや、自邸への御成に嫡子が顔を出さぬ訳にも行くまい。

宮寿細川氏綱右馬頭細川尹賢に似て、賢い顔をしておる」
足利義晴様のお褒めにあずかり恐悦至極に存じまする」

 尹賢がさっと頭を下げると、慌てて宮寿丸も頭を下げる。慌てたために烏帽子が少し斜めになって、床に付いてしまっていた。

 義晴公は歳の近い宮寿丸のそんな様子に笑みを零す。親近感を持ったのだろうか。つい先年までの戦場に身を置いて明日をも知れぬ身の上を儚んだこともあったが、今となってはそれも遠い記憶である。

「確か高国の子も同じような年頃であったか?」
「はっ、宮寿氏綱と同い年になりますと、そうだつで御座いますかな。いささかりゅうたちでは御座いますが」

 蒲柳というのは楊柳かわやなぎのことで、蒲柳の質とは、唐国の南北朝時代、梁の簡文帝が同年のえつが若い頃から白髪であったことを尋ねた故事からの成語である。

蒲柳之姿 望秋而落 蒲柳の姿は秋に望みて落ち
松柏之質 凌霜猶茂 松柏の質は霜を凌いで猶お茂る

 自分を楊柳に例え、皇帝を松柏になぞらえて顧悦が答えたことに周囲は感服したという。顧悦は事実病弱であったが、無理をせず病に気をつけて暮らしたため、早世することはなかった。

 高国の子は、長男・六郎たねくに(幼名・そうめい丸)、次男・八郎もちくに(幼名・そうえい丸)が既に元服しており、三男・聡達丸(のちのたかより)だけがまだ元服していない。

「そうか、ならば年頃も良い。二人とも元服させては、如何か」
「上様のお声掛かりとなれば、光栄の至り。されど、我が弟とらますが未だ元服しておりませぬ」
「そうであったか。では、そのように取り計らい、宮寿氏綱を高国のゆうとすればよかろう」
「武蔵守様の猶子など、宮寿氏綱には畏れ多きことに御座います」

 この時代、将軍より元服を勧められるのは誉れであり、近習取立てと同義である。それは将来政権の中枢に入るという将来が開けることでもあった。これを喜ばぬ親はない。その上、本家の猶子とは。尹賢は高国の顔色を伺う。尹賢が直接将軍家と結びつき高国に警戒されては排斥や最悪粛清される可能性もあるからだ。

「よいよい。私も宮寿氏綱を気に入った。猶子ならば問題もなかろうよ」

 尹賢の心配を察したのか、高国がそっと耳打ちする。養子と猶子では意味が大分違うからだ。

 義晴の考えは歳近い者たちを周りに置きたい一心であろう。高国は宮寿丸を己にとっての尹賢と同じ役割を担わせ、次の世代の舵取りをしやすくさせてやりたかった。出来れば稙国に付けたかったのだが、近頃病勝ちであり、万が一を考えれば虎益丸と宮寿丸に誼を作っておくことは悪いことではないと考えた。家督継承権のある養子では問題があるが、猶子であれば問題にならない。それに虎益丸を元服させれば野州家の当主となり、勢力強化にも繋がる。付き合いの長い尹賢には高国の思考が見えるようだった。

 敏い――。

 改めて高国の天才的な政治感覚におののきながらも、高国を支えることへの歓びも一入ひとしおである。

「さぁ、慶事に慶事が重なったぞ! 皆の者、今よりは無礼講といたす。自由に飲むがよい」

 義晴公がそう宣言すると、一座が喜びにどよめき、至るところで酒の注ぎ合いが始まった。

 無礼講というのは、「礼講を無くす」の意味である。礼講は神事で身分の高い参列者から順番に酒を飲む作法のことで、これが儀式にも転用され、序列順に注がれるまで酒を飲むことが出来ないものであった。無礼講の始まりは、悪党どもを味方に引き入れた後醍醐帝であるともいわれるが、これは軍記物の『太平記』の影響である。実際には、日野すけともと日野としもとが開いた茶会に分不相応な服を着て参加したのが史料に残る最初の無礼講である。その話を耳にした後花園帝は眉をひそめたという。

 以来、儀式の後の宴では最も身分の高い者が無礼講を宣することで、各々が自由に飲む風潮が武家の間に広まっていった。決して何をしていいという訳ではなく、各自随意に飲むがよい――という程のことである。

 ブツブツ文句を言いながら臨席していた元盛だが、無類の酒好きであり、この時を待っていた。

「よし! 飲むぞ。注げ、五郎柳本賢治!」

 盃を一気に空け、賢治の前に引盃を突き出す。賢治は嘆息を吐きながら、瓶子を抱えて濁酒を注いだ。いつもはやき土器かわらけで作られた盃だが、今日のものは朱色の漆に覆われている。朱盃に白い酒は慶事の紅白の意味であろうと連想した。

 二度、三度と注がされる賢治。一息で呑み干す元盛。

五郎柳本賢治も飲め!」
四郎香西元盛兄、私が酒を得意とせぬのを知っておるであろうが」
「いーから、飲め!」

 無類の酒好きであっても、蟒蛇うわばみではない元盛は、既に目が坐りはじめている。肩を落としながら、致し方なしと、盃をかざす賢治。

「一杯だけですよ……あぁ、その辺で」

 まだ注ごうとする元盛を制して引盃を上げると、元盛も瓶子を引いた。物が大切である時代のこと、如何に粗野な元盛といえども、作法を知らぬ訳ではない。引盃に瓶子を当てては、酒の注ぎ方も知らぬと莫迦にされてしまうところだ。

「まだ、半分も注いでおらんぞ?」
「私は酒が苦手なのです」

 忘れたのですかと言わんばかりの顔をして、半分ほど注がれた引盃に口をつけて舐める程度の賢治。

「お前も兄者波多野元清のように飲んでくれりゃぁ愉しいものを!」
「なんという無茶を」

 あの枠と比べてくださるなという顔をして舐める賢治。元盛は、つまらんとばかりに瓶子を抱え、手酌で飲み始める。そこへ、当の元清が寄ってきた。

四郎香西元盛、酒は程々にしておけ」
「わぁーってる、わぁーってる!」

 元清は丹波波多野氏の二代目で、父・清秀が丹波守護代うえはらひでもととして活躍しており、家督後、酒井氏や中沢氏を破って波多野氏を丹波有数の勢力に押し上げた。波多野は清秀の母方の氏であるという。

 兄弟で波多野・香西・柳本の三氏の当主となり、列席していることが元清にとっては誇りであり、いずれは丹波を手中に収めることを考えてもいる。高国陣営では、兄弟三人揃って列席できる内衆は他にはなかった。それもひとえに高国から元清・元盛・賢治への信頼が篤い証である。

「さて! 我が君にも一献!」

 赤ら顔で元盛が立ち上がる。
 粗野で文盲である元盛を全く莫迦にしない高国を元盛は神仏の如くとは言い難いが、かなり敬っている。高国の命とあらば、死地に赴くのすら躊躇ためらわぬであろう。

兄上波多野元清……」
四郎香西元盛、無礼はならぬぞ、無礼は」

 いいのですか?という顔をして、賢治が元清を見やる。元清は目でそれを制し、元盛は手をひらひらと泳がせて、大丈夫だと返事をしているのだろうが、フラフラと上座に出ていく様を見ては心配が募るばかりだ。元盛が急に立ち止まり、自らの頬を張った。その様子を微笑ましそうに見守る元清と心配ばかりな賢治。なんだかんだと仲の良い兄弟である。

五郎柳本賢治四郎香西元盛とて宴の席で無礼はいたすまい。それはそれとして、今日の酒は柳酒よ。酒を好まぬとはいえ滅多に呑めぬ諸白ぞ。少し味わっておくが好い」

 柳酒というのは京の造り酒屋の銘である。五条坊門西にしのとういんの柳酒屋の澄酒で、京随一の美酒といわれる。流石に全員には振る舞えないようで、元清が手にした瓶子には赤の結びが付けられている。

 上座の者たちだけに出されたのだろう。元盛と賢治の瓶子には赤い紐は結ばれていない。

「では、一献」

 濁酒を無理矢理呑み干し、酒盃を盃洗にくぐらせて清め、柳酒を注いでもらう。

 柳酒は七曜星紋を商標にして売り出した超高級品である。柳酒屋一軒の納める税だけで、幕府の酒税の一割に相当したといわれていた。

「ほう、これは美味い」

 賢治の酒盃に注がれた柳酒は、黄金色をした甘味のある酒である。現代でいうりんを薄めたような色をしており、味醂よりは甘くなく、清酒よりも甘みが強い。

「であろう? 右馬頭細川尹賢殿も奮発されたものだ」

 客に振る舞われる酒や肴は御成を受ける家の者が用意する。用意したものを献上し、将軍家で検品をした上で供されるようになっていた。

四郎左衛門尉香西元盛。酒は足りておるか?」

 上座では高国が酒を注ぎに来た元盛の相手をしはじめる。元盛はどっかりと高国の前に座り込み、注いでは呑み、注いでは呑みを繰り返していた。

武蔵守細川高国様、既に我が瓶子は空にございます!」

 ガハハと豪快に笑う元盛。瓶子を逆さにして上下に振ってみせる。稚気といえば稚気だが、それ故に一本気であり、策を弄するような真似はすまいと安心できるところが高国は気に入っている。

「そうかそうか、では、私の酒も呑み干すがよいぞ」

 高国は赤の紐が付いた瓶子を元盛に渡す。
 元盛は受け取って律儀に引盃に注いでいく。

「こ、これは澄酒ではござらんか!」
「如何にも。柳酒ぞ」

 驚く元盛に、高国は不思議そうな顔である。というのも、高国は尹賢から今日の酒宴は柳酒屋の澄酒と聞いていたからだ。

「我らは濁酒で御座った!」

 澄酒をクイッと一息に呑み干しながら、ギロリと尹賢を睨む。

右馬頭細川尹賢殿は我ら下々の者には、澄酒を呑む資格はないと仰るか!」
四郎左衛門尉香西元盛殿、左様なことは御座らぬ。澄酒は稀少ゆえ手に入らなかっただけよ」

 尹賢の狼狽えた様子を見て、高国は致し方無しと助け舟を出すことにした。

「尹賢、上座と下座で酒を変えたこと、瓶子の紐を見れば明らか。何らかの事情があったのであろうが、下座の者からすれば不満は残る。孫右衛門波多野元清あたりは察しておろうがの」
「面目次第も御座いませぬ……」

 高国の言い様に項垂れる尹賢。
 その様子をみて、どうだ!と言わんばかりの元盛に、高国も苦笑いだ。

「だが、四郎左衛門尉香西元盛も声高に非難するものではないぞ。相手の胸中を察すべきであるが、其方そのほうには難しいか……」

 軽いお叱りを受けて項垂うなだれる元盛。面目を潰された尹賢は高国の視界の外から元盛を睨んでいる。

「二人共、私が恃みとする懐刀ぞ? もそっと仲良う出来ぬのか」
「ははっ!」
「申し訳御座いませぬ」

 尹賢と元盛が平伏した。

 元盛にとって尹賢は気に喰わぬ奴ではあるが、高国の命とあれば、仲良くしなければならぬと不承不承頷いた。

 しかし、尹賢の表情からは何も伺えない。感情の消えた顔を伏せて、声だけはさも申し訳なさそうに謝るのであった。

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