究極思想;自然主義

ここでの「自然」とは、生態系、木、森、草みたいな動植物のことではない。「そのほうが自然だよね」と言う意味の自然に近い。我々の住む世界における普遍的な法である。自ずから成るという、人間、文化、国家、生物、地球、宇宙のすべてにある法則。これを神と呼ぶこともあるそうだ。神は、すべてを知っていて私たちとは違う世界にいる、そう考える事が多い。ところが、その神は「自然」としてこの世界のすべての事物に存在している。つまり私たちはそれぞれが神であり、この世界は神の世界である。
「自然」とは、それぞれのとても小さい働きかけがお互いに作用して大きな事を生み出す事である。そしてその働きによって自然淘汰されて生成と絶滅をくりかえす作用のことである。
「自然」とは、我々の中にある。ハートにあるかもしれないし、頭にあるかもしれないし、あるいは全身にあるかもしれない。
「自然」とは、湧きだす泉である。からだから活力が湧き出る。

この世にある思想や価値観は、すべて「自然」を別の視点から見たものである。
「自然」は丸い形をしているかもしれないし、実体がなく液体かもしれないし、気体になって漂っているかもしれない。あるいは後ろにいると思ったら前にいるかもしれない。
「自然」は捉えられない。言葉にすることができない。
しかし「自然」は感じることはできる。よい本をよめば。

われわれ人間において「自然」を生み出す分子は生存である。我々の頭が考えていることは、我々が生き残れるかどうかである。つい人間は地球で最高の頭脳を持ち高度なことを考えていると思われがちだ。生存について2つのパースペクティブがあり、1つは自己の存在の生存。自分さえ生き残れば良いというエゴイズム、自己中心的な考え方。2つ目は自己の概念としての生存。自分の事を後世に伝えるために何かを生み出したいという本質的な欲望。子どもを産むことや、本を書くこと、何かの作品を残すことである。そして、我々にとっての「善」は、生存にとって有利か不利かどうかであり、「道徳」も相手と折衷することでお互いの生存を保証する処世術である。

そして自然主義は、その「生存」「善」「道徳」のすべてを肯定し、「自然」の状態で生きる事を最も善いと考える思想なのである。


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