見出し画像

どの道を通っても、つげ義春

『つげ義春 夢と旅の世界』という本を買った。
さっそく、胸躍らせながらページを開く。

いきなり「ねじ式」原画。原稿自体の変色なのか、本に付いたシミなのか不明な汚れが付いており、いっそうムードが盛り上がる(?)。

ロングインタビューを読み、つげさんの知識量や飄々とした哲学論に改めて感服。

インタビュー当時(多分2013年)の新しい話題も織り交ぜての記事内容に、なんとなく、つげ義春氏が現在もご存命であることを不思議に思う。

新しい作品が出ていないせいか、つげさんは、永遠に60~70年代ごろの風景の中に居るような印象がある。

その印象から発展した、ごく個人的な、本当に失礼なイメージだが、つげさんは、平成になる前には亡くなっているような感覚がある。
寂れた昭和の空気を纏ったまま、バブルの前くらいには、霞の向こうに消えてしまっているような気がするのだ。

しかし現実には、つげさんは生きている。この事実は何ともうれしくて、不思議だ。

記事中、つげさんの口から「地上デジタル」とか「DVD」の単語が聞かれるのが意外すぎて、頭に馴染まない感じがした。

そういえばつげさん、コロナ流行直前には、自身初の海外渡航もされたのだとか。アングレーム国際漫画祭の授賞式のため、フランスに行かれたそうだ。
この、飄々としていながら意表を突いてくる感じ。すごく「つげ的」だなぁ。なんて思いながら読み進める。

東村アキコのインタビューの、「ほんやら洞のべんさん」のエピソード。
東村さん、べんさんの「デーンさ」の台詞をマネして遊ぶそうだ。
私もあのシーンが大好きだが、ちょっと「こういうの、もし身近でやられたらめんどくさいなあ」なんて思ってしまった。

あれ?と手が止まる。

これ、前に読んだことあるわ。
しかもそのときも、「この人のテンションめんどくさいなあ」と思った記憶がある。

思い出した。
私は以前、この本を読んでいる。

そのことをまったく忘れていて、今回、新たな気持ちで読んでしまった。

いやあ、恥ずかしい。
自分の脳の衰えを感じた。

…いやいや、この、意図せずしてサラッと再会してしまう感じ。これもまた、つげさんの本らしい気がする。などと強がってみる。

でも、つげさんの本と私の間には、この手の思い出がいくつかある。

私が結婚を機に、つげ作品をはじめ、持っていたほとんどの本を手放した時。
古本屋にごっそり売りに行って、それから何年か後、子どもの絵本を買いにその店を訪れた時、「まさか、もう置いてないよなあ」と思いつつ、自分で売った本が並んでいないか確認したところ、私の売った「つげ義春セット」がラインナップそのまま、棚に並んでいた。

同じタイミングで売った他の本は見当たらなかったのに、つげさんの本だけバッチリ残っていたのである。

私は「何だこの現象は!めっちゃ『つげ感』ある!」と訳のわからない感動を覚え、その本たちをそっくり買い戻したのであった。

無駄といえば無駄、それも壮大な無駄行為であるが、正につげ漫画のものさびしさや飄々さを、本自体が体現しているような出来事で、なんだかつげさんっぽくて、私はとても嬉しかったのだ。

私は気付くと、何度も、「つげロード」を通らされてる感じがする。
狐や狸に化かされて、同じ道をぐるぐる通ってしまうような感じで、どこを通っても、何度でも「つげ道」に突き当たってしまう。

つげさんの作品は、意図的にこちらを向いてくるんじゃなくて、気づくとそこにいる。どこも見ないでそこに居る。
じっとそこにいるだけで、別に私を待っているわけでもないのだけど、出会えば出会ったで、なんとなく、その度に受け入れてくれているような感じがする。

本当に、「つげ義春」という存在は不思議だと思う。稀有だと思う。

『夢と旅の世界』の中で、作家の戌井昭人はこう語っている。
「つげさんの場合は、やたらキョロキョロして探し回るのでなく、自然に、流れるように、変なものや人間にぶち当たっているような感じ」

つげさん自身が、面白いものや人に『自然と』出会ってしまう人物であると同時に、つげ作品自体も、それを面白がる感性を持っている人に「自然と」出会う引力みたいなものを持っているのかもしれない。

つげさんの世界はそこいら中で、じっとたたずんでいる。
「来るもの拒まず、去るもの追わず」という言葉より、さらにもう一段、淡々とした境地にあるような気がする。

つげ作品のたたずまいは、ご本人がインタビューで語っている「無我」の境地に、少しだけ似ているかもしれない。

余談だが、私がほんの思いつきで夢日記ブログを始めたのも、また無意識のうちに「つげ道ループ」にはまり込んでいる証拠なのかもしれないと、この記事を書きながら思った。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?