未練・イロモノ・自己嫌悪――鬼龍院翔の歌詞世界
ゴールデンボンバーといえば失恋ソングである。
代表曲『女々しくて』も、括りとしてはコミックソングでなく失恋ソングだ。
他にも未練タラタラな歌詞がやたら多く、どれも名曲揃い。
「失恋が綺麗なものであるはずがない」というのが私の持論なのだが、まさにそういう、カッコ悪い別れを体現している。
『だからバイバイ』には、それがよく現れている。
恨みごとも負け惜しみも隠さず、「あーあ、終わりだ終わり!あばよっ!もう二度と会わねえ!」という自棄な姿を描いてはいるが、それが却って純情を感じさせて物哀しい。
B’zの『恋心 (KOI-GOKORO)』をオマージュしたかのようなポップな曲調と悲痛な歌詞のギャップは、他のバンドには出せない個性だ。
ゴールデンボンバーの失恋ソングのもうひとつの特色は、失恋の影響が、生活や人生に食い込んでくる様を描いていることだと思う。
歌詞には、しばしば生活能力についての描写が出てくる。
「もっと良い店 プレゼントあげてりゃ何か変わったかも(『Neeeeeee!』)」、「君のお母さんも認めるくらい稼げりゃ(『さよなら冬美』)」など。妙に生々しいリアルさがある。
私は『さよなら、さよなら、さよなら』という曲が好きなのだが、この歌に、気になる歌詞が出てくる。
「嘘ばかりの歌」とは、何を指すのだろう?
この曲の主人公が鬼龍院翔本人と仮定すると、ゴールデンボンバーの他の楽曲、特に「フィクションの強そうな曲」のことになるだろうか。
ふと思いついたのは『Dance My Generation』と『死んだ妻に似ている』なのだが、・・・・多分違うな。
いずれにしても、「イロモノ系」に括られそうな曲のことかと想像する。
そういうテーマ性のある曲は、なぜか自信家で女慣れした男性を主人公とした歌詞がちらほら見られる気がする。
鬼龍院さんの失恋&未練ソングの数々を見る限り、根底に「自信はないけど執着は人一倍ある」という恋愛スタイルが垣間見えるので、もしかすると、何かしらの色物キャラを乗っけないと、「自信を持って女性に接する男」の歌詞を成立させにくいのかもしれない。
(他アーティストへの提供曲ではあるが、『パーティーを止めないで』なんて、鬼龍院さんがキャラを乗せない素の状態で歌っているのが想像できない。)
失恋や未練といったモチーフと共に、歌詞の大テーマとなっているのが「自己嫌悪」ではないかと思う。
自己嫌悪は失恋、未練と相互関係にもある。というより「未練の源流に自己嫌悪がある」と言った方が正しいかもしれない。
男として・人としての自分に自信がない。しかし、強い未練はある。もうあんな相手は二度と現れないかもしれないので執着してしまう。
だけど、ヤバい奴にだけはなりたくない。ストーカーや犯罪者みたいにはなりたくない。人生の落伍者になりたくない。
でも、そういうヤバイ奴に片足を突っ込んでいる自覚はある。なぜなら自分はコンプレックスまみれの駄目な人間だからだ――。
そんな自己嫌悪ループの図式が浮かんでくる。
失恋がらみの描写のない、自己嫌悪に特化した曲(?)の中では、『腐男子』が好きだ。
この曲を、私は妊娠初期の精神不安定時に何度も聞いていた。
ホルモンバランスが乱れていたのか、「何をしていても、何を見ていても辛い」という状態だったので、この曲を聞いて気が済むまでひたすら泣いていた。
一緒に泣いてくれる曲ってあまりないので、とても助かった覚えがある。
ゴールデンボンバーの楽曲は、「失恋(未練)」「イロモノ」「自己嫌悪」。この3要素の絡み合いによって構成されていると思う。
それらが、まるで日記を読んでいるかのように率直な歌詞で表現されていて、愚直さやひたむきさが感じられるのがいい。
ゴールデンボンバーというグループのあり方も同じで、愚直さとひたむきさが何よりの魅力だ。
その姿勢を失わない限り、この人たちが「消える」ことはないと思っている。
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