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わりと日刊だらく[No.19]〜自分の話をすること〜

今日もテキトーにやっていきます。


今日の散文

自分の話をすること


話を聞くことは簡単だ。

楽しそうに興味を持って聞き、質問をして、あとは笑っていればいい(普通に楽しいので結果的に書いた通りになってしまうだけで意図的にこうしているわけではない)。

僕は他人の話を聞くのが大好きなので、いつもこうしている。

そうすると、みんな自分の話を楽しそうにしてくれる。自分の話をしたい人は、どんどんその話を深掘りしていってくれる。違う話もしてくれる。たぶん「こいつは何言っても楽しそうに聞いてくれる」という風に思われているのだと思う。

そして、そういう対応をされるのが好きな人からは「話を聞くのがうまい」と言われたりする。いや、ただ好きなだけで別にうまいとか下手とかないと思うんだけど。いつもそう思っている。僕は僕が楽しいようにやっているだけだ。 

ご飯食べるのが好きだからモリモリ食べていたら「食べるの上手だね〜」と言われて「ん?それってどういうこと?」となっている感じ、とでも言えばいいだろうか。

そんな感じで、僕としてはただやりたいことをやりたいようにやっているだけだ。好きでやっている。特に意識していることはなく、自然に身体が動きたいように動いているだけだ。だから、僕にとって話を聞くことは簡単だ。


だが、自分の話をすることは難しい。

言語化していないところがあるからスムーズに説明できないところがありもどかしい感じがあったりするのがひとつある。

だが、何よりも「相手が喜ぶ範囲内で自分の話をすること」が難しい。


話し相手を喜ばせることは僕にとって重要だ。

喜んでくれないと話を続けたいと思ってもらえないし、次の話をしてくれなくなってしまう。それは嫌だ。僕はもっとあなたの話が聞きたい。

僕の中にない構造を知りたい。他人の中には自分が知らない構造がたくさんある。それを知るのが好きだ。もっと教えて欲しい、時間が許す限り無限に聞くから。


しかし、僕も自分の話をすることによって、自分が言語化していないことを言語化する作業がしたいと思っている。自分でもよくわからない自分の話を、よくわからないままにバーッと出してしまい、それが受け止め切れる知性をもった相手にぶつける。そして、問いをもらいたいなと思う。ちなみに今のところ、僕の個人的な話をする相手というのは、基本的には僕自身しかいない。

僕のいつもやっていることは、祈り的な、武道的なこと。この世の誰にも一切共感不可能な、個人的な感覚を深めていくだけの行為。ひたすら自分の身体の反応を見て、自分が何なのか理解していくだけの行為。「お金を稼ぐ」みたいなわかりやすい指標はなく、「天下無敵」というよくわからない指標を追い何がなんだかよくわからないまま、よくわからないことをやり、しかし何かがわかる、と言ったようなよくわからないことをしている。

これをそのまま話してしまうと、大体相手は沈黙する。「なんだよその話、クソつまんねえな」と感じていると思う(というかあからさまにそういう反応をされる)。考えてみれば、そりゃそうだ。何言ってるのかさっぱりわからないだろう。日本人が日本でいきなり中国語で話しかけられたらそりゃあ困惑する。いきなり、興味のない話をされても「だから何?」となる。

だから、僕の話というのは他人にとって基本的に価値がない。僕は、自分の話をすることが出来ないのだ。


では、どうやって自分の話をするのか?相手を楽しませられる範囲内で。僕の目的「他人の話を聞くこと」が達成される範囲内で。

正直、まだあまりよくわかっていないが、直接的に僕のやっていることをそのまま語るのはクソだとわかってきた。

みんなは僕に興味がない。僕のことなんてどうでもいい、大して仲良くもない他人なんてどうでもいい。みんなが大して仲良くもない他人に求めているのは、自分の話を聞いてもらうことくらいだ。

だから僕の頭から自動的に出てくるものをそのまま流すこと、という意味での僕の話をすることは出来ない。

許される範囲内で僕の話をしていくためには、もっと小さくて食べやすいサイズに切り分けること。みんなが食べ慣れている味の米とか肉とかの上に乗せるのと。またはスープの中に細かく切って混ぜてしまうこと、などが得策だと今は考えている。

ピーマンが嫌いな子への対策として「みじん切りしたピーマンをハンバーグの中に入れる」などがあったりするが、そんな感じ。

僕の言葉を直接そのまま相手に流し込んではならない。それは外国語であり、食べ慣れない食材・なんか嫌だなと感じる食材であるから。そんな食材を口に突っ込まれても、どこがおいしいポイントなのかわからない。そんなものを口に押し込まれたことが不快だ。みんな「俺が食いたいものを食わせろ」と思っている。


他人と話すというのは、相手に合わせるということだ。僕に合わさせてはならない。僕が異端であればあるほど自己中心的な振る舞いというのは他人にとって強いノイズとなる。そんな強いノイズを彼らは求めてはいない。クセの強い他人を知りたいのではなく、普通のいいヤツに気持ちよく話を聞いてもらいたいのだ。

僕が積極的に相手に合わせて、その中で選べる遊び方をしていく。ピーマンを細かくしてハンバーグに混ぜ込む。それが対談の中での、僕の「自分の話をする」ということなのだと思う。


音楽



一人組


くらがりチャレンジ
noteの売上金の振り込み申請を初めてした。みなさんのおかげです、ありがとうございます。

贈与
なし。

パブリックを思い出す
なし。労働してなくて引きこもってる日は怠けがちだから、明日は注意してやろう。一人で儀礼を思い出そう。

小休憩
やってない。

観察と感想
今日は曇ってたけど、雲の流れを感じることが出来た。

愛を思い出す
やった。

本とお話しする
やった。夜と霧、読み終わった。訳者のあとがきまで含めてとても良い。



終わりに


新しい対談記録の記事を書こうとしているが、内容が濃くてどう書けば良いのかわからない。

場数を踏んでいけばカタが自然に見えてくると思うが、対談記録の記事化は今回で二回目。まだ手探り状態でカタが見えない。

とりあえず、細かく分解して、それらをどう繋げるかを考えた。書き始めと書き終わりを考えた。しかしまだしっくりこない。文章を書くというのはむずかしい。

ゆっくりやっていこうと思う。


今日も良き日であった。

明日はもっといい日になるよね、有象無象。

じゃあ、また、あした。

良い夜を。

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