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蕩尽

この記事では、僕の蕩尽について書いていく。


正直、めんどくさい。

でも「#お前の発見を語れ」の企画としてみんながやることによって、あとで読む人がいて何か参考になる、なら頑張って書くかぁ…。

という感じでモチベーションは非常に低いので、シンプルに書きます。



蕩尽とは何か

「バタイユ 蕩尽」とかでググれば詳しく出てくるので、自分で調べるか、他の人の記事を読んで勝手に理解してください。

僕は、蕩尽について書かれている「呪われた部分」を読んでもいないし、僕の勝手で雑な解釈でテキトーに書いていきます。


どうやら蕩尽とは、簡単に言うと「むだづかい」のことらしい。

そのむだづかいはその人の価値観によって違うので、勝手に決めていいぜ〜ってことだと解釈している。


労働

最近、もっとも僕が時間を注いでいるのが「労働」だ。

生活のために、お金が必要だから、やっている。でも、労働している時はそんなことは一切考えていない。

では、何をやっているのか。

それは「祈り」だ。

僕は労働を「祈りの修行」として使っている。


昔は3時間働いたら頭痛になっていたけど、最近の僕は一日中働いても特に問題が起きないくらい労働ができるようになってきている。

社畜サラリーマンと同じように、一日中働くのを週に5日くらいやっている。それをやり続けている時、休日の快楽を忘れている。

労働の中で自分の状態を見続けて、何かしらの問題が見つかる。そして、その問題について延々と考える。それは、楽しいと感じているのかはよくわからないんだけど、労働中は無限にやってしまう。


とはいえ、労働をすればお金は貯まるので、一般的には労働は蕩尽ではなく、ただの蓄積的な行為だと思う。

でも、僕の価値観では「色んな他人と話し、色んな作品を見て、散歩をして、本を読んで、新しいことを知り続け変わり続ける」そんな感じのことがもっとも生産的、蓄積的、だと思っているので、労働だけに時間を割くのはあまり生産的でもなければ蓄積的でもないのだ。

でも、「祈りの修行」として捉えると、労働は「自分を見つめ続けて理解していく行為」になるし、なんだかんだそれをやり続けていくと、よくわからない発見がある。だから、表面的には無駄遣いに見えて実は無駄遣いではないみたいなところがある。


例えば、最近の僕はフルタイムの労働のおかげで新しい睡眠法を確立した。

1日2回の睡眠で、1回目は夕方16:00〜18:00の間に1.5時間くらい、2回目は深夜に6.5時間くらい、計8時間眠る。

要は「仮眠を取ると頭がスッキリするし体力も回復するからやった方がいいよね」と気付いたのだ。

あと、めちゃくちゃ生活リズムが良くなって朝起きて夜寝る生活がずっと続いている。


昔から仮眠が苦手だった。なんとなく寝てしまうことはあっても、それが習慣化することはなかった。

労働という形式に自分の生活のすべてを捧げることによって、それを習慣化させることに成功した。


また、日常を楽しむ方向にシフトすることに成功した。

一言でいうなら「観察」だ。

僕がやっているのは外仕事で、いつもバイクで道路を走っているのだけど、その中で色んな発見をするようになった。

よく目にするのは「頑固で迷惑なおじさん」とか「ヤバいおばさん」。信号無視して徒歩で僕のバイクに突っ込んでくる青年。何かにブチギレている人もちょこちょこ見かける。印を結んでチャクラを練ってるような人もいた(本当にいた)。

そういうこの世界にあふれているクソみたいな人間同士の摩擦とか、変な人たちを見るのが、楽しいのだ。


また、そんな悪趣味な方向ではなく、最近では単純に、桜道を走って感動したりもした。

澄み切った青い空、パラパラと舞い降りる桜の花びら、それを見て楽しく笑っている家族たち、そういうものをバイクに乗って横切っていくことにカタルシスを感じる。美しい世界だなと思う。


業務をやることによって誰かを喜ばせることがあっても、僕にはほとんど何の利益もない。楽しくもない。

お金はもらえるけど、業務によって精神的な高揚が得られることはない。

でも、その他の部分をよく見られるようになった。生活を良くするためのアイデアを考えるようになりその習慣がついていった。


これって多くの時間を無駄に使っているのだけど、その無駄の余白を楽しめるように、最大限自分の人生を楽しめるようになったから、めちゃくちゃ無駄なんだけどめちゃくちゃ必要なことだなと思う。

このように、お金を追わず、生産や蓄積を負わず、ひたすら同じことをやり続けること。それが僕の蕩尽なのかもしれない。

まぁ、フルタイムでの労働は必要に駆られてやり始めたわけなんですが、今では目的と手段が変わってしまっているのです。


対談

労働とは別に、最近毎日続けていることがある。

それが「対談」だ。

先日は、うつ状態で常にだるそうにしていてあちらからほとんど話しかけてくることのない人と話したのだが、3時間も話していた。

その間、僕は、相手に問いを投げ続けていた。


最近、相手に興味をもつというのがわりと高等技術だなと思い始めている。

人間というのは、普段は、表面的な情報で他人を判断しがちで、そうやって色んなフィルタリングをしている。関わる人間を決めている。そうしないと、時間が無駄に使われてしまうからだ。

例えば、営業で稼いでいる人は、お金がなさそうな人と関わってもあまり利益は出ないから、お金がありそうな人を狙いたい。そうやって自分のポジションから他人を選んでいる。

イケメンとか美人とか、何か自分にとって都合の良い要素を持っている人を選びたいのが人情だ。


僕は、対談する時、ネット上のランダムで知らない人とつながる通話サービスを利用しているのだが、ほとんど人を選ばずにやっている。

相手の話を聞き、ひたすら問いを立てていく。出来るだけ細かく細かく聞いていく。

最初の時点で、相手に興味を持つことはあまりない。だが僕は「人間の構造」そのものに興味があるので、興味を持って話を聞いていける。


昔の僕はこんな風に他人に興味を持つことがなかった。表面的な情報で他人を判断していた。

トンカツは衣がうまいので、衣を剥がしてソースをかけて食えばふつうにうまい。

でも栄養価がない。米と小麦の衣と油だけでは、栄養失調状態になってしまう。だから、中の肉をちゃんと噛んで食べるようにしているのだ。

肉は噛めばどんどん味が出てくる。もし、出してくれるなら骨も食べる。骨の髄まで食えるようにする。


普通に考えたら自分の利益にならないような人間と話し続ける。

こないだは、同じ人と6時間くらい話し続けていたのだけど、その人の苦悩の奥にあるものがなんなのか、問いを出しまくり限界まで味を絞り出して理解することに努めた。

結果として「社会に呪われ、自分で他人に呪いをかけた結果、自分に強い呪いをかけて苦しみ続けている人」だとわかった。


お金にはならないし、僕の問題はまったく解決しない。でも、楽しい。だからずっとやり続けてしまう。

ついこないだは、一日中話せるのかを試した結果、計10時間くらい話した。

これが僕の蕩尽「対談」だ。


まとめ

対談も、労働と同じくして、短期的な利益を求めない行為で、ほとんどが無駄な行為だ(労働はお金がもらえるけど、僕の価値観で考えると無駄)。

だが、自分を拡張していくための行為だ。

ひたすらやり続けることによって、今まで見えなかった景色が見えてくる。それをよりよくやり続けるための工夫が生まれる。


これは僕の人生の目的として掲げている「超越」につながっている。

新しい景色を見るために、僕は蕩尽を続けなければならないのだろう。


書いていくうちにわかってきたけど、僕の蕩尽とは「同じことをひたすらやり続けること」なのだと思う。

バランスを度外視して、一般的な価値観を無視して、一見生産性のない・蓄積的でない無駄な行為ひたすら意味不明なことをやり続けること。

それだけに人生を捧げること。自分の命をそこだけに注ぎ込むこと。その道を何度も通り続けた人にしかわからない景色があり、僕は同じことの繰り返しによってそれが見れるようになることを知っている。

それを見るために僕はこのようなことをやり続けている。


あれを買ってこれも買って、とやる贅沢もあるけれど、全財産を使って一頭の牛を買って全部を食い尽くす贅沢もある。僕の蕩尽について言えば、それは後者なようだ。


蕩尽は人の数だけあり、またそれは時間が経てば変わっていく。

たぶん、魅力的な人というのは蕩尽をやり続けている人で、僕もそうありたいし、みんなにもそうあって欲しいなと思った。


以上、僕の蕩尽についてのお話でした。

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