他人の自己欺瞞を目撃し、そこに喜びを見出し、感情の想像の価値を感じる

人にはそれぞれ、理想の自己イメージ的な願望がある。「自分はこうありたい。自分はこうあるべきだ。だから自分はこういう人間だ」そんな暴力的な三段論法があったのではないかというような気すらしてくる。

「あなたってどんなひと?」そう聞かれた時、あなたは自己イメージにそぐわない自分を拒絶し、「わたしはこういう人間なんだ」と理想とするイメージを自分だと思い込もうとする。

それがたまらなく好きだ。あなたは意図せず、自分にウソをつく。


対談の中で、相手が無意識にそういうウソをついている時、もしくはあとあと矛盾に気付いて「それってさっき言ってたことと矛盾してない?」「あっ…確かに…」となった時、ものすごく気持ちいい。気付きの快楽がある。


自分はすべての感情を抑圧してきた人間なので、自分よりも、他人を通じて、過去の自分の感情や、まだ知らない感情を経験することが多いのかもしれない。以前付き合っていた人からは、とびっきりの笑顔をもらった。あの感動は今でも覚えている。いまでもあの感動的な笑顔を思い出すことができる。うつくしかった。

実際にその人がどういう感情だったかは永遠にわからない。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。自分がその表情を見てどういう感情になったのか。その表情を見て「相手はこう感じているだろう」と想像しているのか。そういう想像的なものに価値がある。彼女の笑顔には、僕の身体感覚のすべてを呼び覚ます程のパワーがあった。女はすごい。


気づきの快楽は、アハ体験的な快楽の経験が7〜8割の感情かもしれない。残りの2〜3割はわからないけど。その時のシチュエーションによるだろう。


他人の自己欺瞞への気づきの快楽を通じて、他人の自己欺瞞に喜びを感じる自分に気づき、気づきの快楽があったことを思い出し、彼女にもらったとびきりの笑顔を思い出した。そして、他人の感情を想像的に捉えていることを思い出した。

相手が美しい女であったのが良かったのかもしれない。そこには自分の都合の良い感情を映し出すことができる。ドロドロしておらず、ひたすらキレイなもの、そういう夢のような幻想を投影することができる。

実際はそうでないと理解しつつも、その幻想の豊かさを感じずにはいられない。そしてその幻想の有用性を感じずにはいられない。僕は彼女の笑顔を思い出すたびに、とてつもない幸福感に満たされる。それは永遠に汚されることがない。彼女のイヤなところを知っていようとも、関係がない。

事実なんてどうでもよい。厳密さなんていらない。どうせわからないし、わかったとしても対して重要なことではないからだ。重要なのは、そう感じたことであり、それが好きであることだ。だから彼女の笑顔は、今後も僕の資産であり続ける。


また思い出せるといいな。あの美しい笑顔を。

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