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わりと日刊だらく[No.10]〜すべては身体感覚から始まる〜

今日もテキトーに更新していきます。

今日のお話


書くことについて

これは昨日の話なのだが、「朝の書き出し」が1時間程度で終わった。

カタを用いてやったのが良かったらしい。

あと、書き出しの途中にnoteを書き始めなかったのが大きかった(途中でnoteを書き出すと2時間以上かかる。楽しいのだが…)

毎日、寝起きで、紙に文字を書き殴り、そのあとnoteにスマホで文字を書き殴る。

昨日はなんだかんだ合計8時間くらいひたすら文字を書き続けていた。

朝の書き出しをやり、「わりと日刊だらく」と「対談記録」の2つの記事を書き、今後の展望についての構想をふんわり書いていた。

とにかく書くのが楽しくて仕方がない。

書いていく途中で調べ物をして、新たな知識が増えていくことにも強い快感を覚えている。

良い知識を得た時、予想外の答えが得られた時、前頭葉がブワッと覚醒するような感じがある。

書いている時はほとんど苦痛がなく、それのみに没頭する感覚が得られる。

僕は文章を書くために生まれてきたのかもしれない。

この日記のような記事が何にもつながらないとしても、何の躊躇もなく毎日続けていけるという確信がある。

毎日楽しくてこれを書いている。

誰の役に立たなくても、僕が楽しいからやっている。

こういう場所にたどり着きたいとずっと願っていた。これからも毎日これを続けていきたい。


くらがりチャレンジ


音楽

ハービー・ハンコック


ベースとドラムが最高で無限に聴いていられる。

他のアルバムも聴いているのだが、そんなに聴き疲れせずに無限に聴いていられる感じがする。

ただの音として処理できるインスト、やっぱり言葉がないのがいいね。


言葉


「すべては身体感覚から始まる」

 これもまた僕の言葉である。

最近またよくこれについて思うところがあるので書いておく。


 赤ちゃんが言語を覚える時は、まず聴くことから始まり、また、発声・発音するところから始まり、そのうちになんとなく対象を覚えてその音と発声の仕方を覚えていき、なんとなく話せるようになる(テキトーなことを言っています)。

その感覚には、そもそも定型的なカタは存在していない。ふわふわとしている中から自分で見つけ出すしかない。

走るという動作について言えば、立つという動作と、歩くという動作、地面を蹴り上げるという動作、色んなカタがあるが、その感覚には定型的なものがない。

その「走る」というなんでもない動作の中には、いくつものカタがあり、またそれらが複雑に絡み合って構成されている。

少し話が脱線したが、こんなことは、とてもじゃないけど考えてできることではない。

僕たちは身体感覚から始めていくしかない。


 すべては、身体感覚から始まり、その非定型的であいまいなことを繰り返すうちに覚えていくしかない。


 僕の普段やっていることについて言えば、祈りも、散歩もそうである。

身体感覚というのは、身体的・動的な部分だけではなく、内的・静的な部分がある。

そう考えると思考も一種の身体感覚と言って良いかもしれない。

思考も、身体感覚的な広がりがなければ有り得ないのだから。言葉には対象があり、対象を存在させるためには身体感覚がなければならない。つまり、言葉とは身体感覚であり、思考も身体感覚である(テキトーなことを言っています)。

今例にあげた「祈り」などをやるということは、動的な作業を通じて、内的な部分を変化させていくということだ。

僕は、何度も何度も、祈り、散歩をし、文章を書き、人と話している。

これはすべて非定型的な何かをデタラメながらにやっていくことで、定型的なもの「カタ」を見つけていく。これは戻ってくるべき場所を見つけるための試みである。

この理屈で言えば、すべてのカタは、元々全部が身体感覚だ。

だから「すべては身体感覚から始まる」と僕は思っている。


図鑑


大長ニンジン

良すぎる

栽培に手間と時間がかかるからあんまり生産されていない品種なんだって。


Wikipediaに乗ってなくて「なんでやねん」ってなってたんだけど、このサイトにあった。

国分人参って言うんだって。


ここにも詳しく書いてあった。


人参、あんまり積極的には食べないけど、炒めて
甘辛炒めとかにするとすげーうまいんだよな。



終わりに


言葉のコーナーで自分の言葉を使うことが多くなってきたが、これはけっこう面白いと思うというか、自分の良いトレーニングになるなと思っている。

僕は考えているほとんどのことが言語化されていないので、そういう曖昧なコトバについて説明するために書いているうちに、考えていたことが言語化されて出てくる。

これがものすごく楽しいのだ。

そして、書いているうちに思いもよらないことに気づいたり、言葉が拡張されたりする。

拡張について言えば、例えば、今日は「思考は身体感覚の一部と言えるかもしれない」などと書いたが、そんなこと今まで微塵も考えたことがなかった。

だが、確かに、思考という内的な動きというものを捉えるのに、ひとつの身体感覚として捉えてしまうのは良いなと思った。

発想としては、言葉も思考も身体感覚がなければ成り立たないのだから、至極当たり前であるのだが、こんなこと考えもしていなかった。


こうやって、言葉をどうにか並べて、それっぽくでっち上げる、その作業が好きだ。

その過程で起こる変化が好きだ。

僕はたぶん、手を動かすことが好きなのだ。ただ考えることよりも。

すべてはどうやっても言い表せないと思うけど、毎回それなりに満足感があり、たぶん次に説明する時にはまた違うことを言っているんだろうと思うとまたそれもワクワクしてくる。

次はなんて説明するんだろう。


今日も良き日であった。

明日はもっといい日になるよね、有象無象。

また、あした。

ほんじゃ、また。

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