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孤独との踊り方

私はひとりが好きである。自分世界以外に人がいるという事自体に緊張をしてしまう質なので、読書や音楽鑑賞といったいわゆる内向的な趣味をしている。その時は別に苦しくはないし自分の為に生きているなあと感じる。で、それが孤独と客観的に映るようである。もっと外に出て遊んで来たら?だとか仲間と遊びねり歩いたりしないの?とかは幼少期に言われていたことだ。しかし本を読むという行為は物語の人物と一緒にその世界に出没して共感するような行為だし、音楽鑑賞はリズムや歌にのせて感情をねり歩くような行為だと考えていたので、特段苦しみとか疎外感は無かった。それで結局周りの人が言う孤独とは何なのかを知りたくなってVRCというヴァーチュアルなSNSに繰り出したりもしている。その場所で私は本当に「孤独」であると思ってしまう、よくあるあの独りぼっち感のことに気付いた。

ひとりは孤独ではない。心を通わせられないという事が孤独だと。

昨今SNSやらで繋がりを多く求める傾向は、心の通わせ方がわからなかったりそういう人たちが居なかったりという事が原因だと考えている。その中で一握りの砂を掴むように心を通わせてくれる同志は居ないのかと、だれか私を見つけてくれよ!と呟きによって大きく叫んでいるのだろうと思う。そして繋がりができればもちろん御の字だが、それはまた不幸でもある。大抵すでにあったグループに属することになることが多いからだ。大抵の人は変化を恐れるので、よそ者に注意は向けるだろうが心の通わせまで発展しないことが多々ある。その中でここにも結局人はいないのだと諦め、孤独が深まっていくのではないかと考える。

そう、逆に人が多ければ多いほど孤独というものは襲ってくるものなのだ。

多ければ多いほどひとりは孤独という定義の深まりが根ざし、私はこのグループの世界に必要ないのだという自責をする。勇気があればまた別のところで大声を張り上げることができるのだが、そのころには勇気という炎は自責という水で濡れてしまい着火すらできなくなる。仕舞いにはグループの中の壁の花、一輪咲いて笑うのみでそこに居るだけのモノになってしまう。次第にグループの内々で「なんでこいつがここにずっといるんだよ」といった話になり、排他的雰囲気を醸し出される。それはまあ人間性質的には正しいが言葉にしないだけ質が悪い。不可視の棘を振りまいて、孤独でありたくなかった人を刺し最終的に退ける。傷を負ってしまった孤独と陰で言われたものはその勇気も湿気ているのでもはや張り上げる声すらもない。すっと、そのグループの世界から消え、SNSからも消えてしまうのである。この視点ではグループの自体が悪いと思えるような書き方をしているが、どちらも行動を起こさなかったという点では半々の罪である。もっとも、その後は「ひとり」だった者が「孤独」な者に考え方が変わってしまうので少し辛いが。

「孤独」と名付けられた者は濡れたマッチを再び時が乾かしてくれるまで、孤独と自分を呼び続けることになる。他に心通わせる人が居るにも関わらずそういう念に縛られる。そして内向的な趣味をしている時でさえも自己を孤独と認知してしまっているので、何をやっても虚無感を味わうことになってしまう。成功体験が一つでもあればまた乾くのは瞬時となり話は別なのだが。やはり初めてでそうなったのであれば、時間が味方にならざるを得ないよなあと少し悔しい気持ちを覚える。私もその時があったので、猶更それを考えてしまう。

じゃあ「孤独なんてどうしようもないじゃあないか」と言う人も居ると思うので処方箋を差し上げたいと思う。ずばり、日記を書くのだ。

日記?それって夏休みに強制的に書いているあれでしょ?続かないよ…と白い目で見られてしまうとは思うが、その時は書かされてやっていたものだろう。誰の為でもなく、自分の為に書くのである。何だったら三行で三何でもいい。一文字でもいい。その日あった自分の出来事を適当に書いちゃっていいのである。書いた後で、自分が一番大切にしている人が書いているという目線でその日記を読み返すのだ。本当に苦しんでいる時私だったらどう答えるか。きっと優しく共感して、応援し、偶に叱咤激励して背中を押し、別の視点の考えを柔らかく伝えるだろう。それを自分の日記でやるのだ。そしてそうした答えをさも相手に伝えるように書いた日記の下に添えよう。書くペンは別のものがいいかもしれない。それを見て気付けるはずだ。また心に火がつけられるという事を。

そしてまた、私は「孤独」ではなく「ひとり」なのだと気付いて趣味を楽しむことができるだろう。また繋がりを求めて足を延ばして行けるだろう。もしかしたら繋がりはそんなに必要ないかもしれないな、少なくとも今は。と気付けるかもしれない。それはそれでとても幸福なものだと覚えておいてほしい。

そして、ひとつだけ注意点を付け加えるとすれば、その日記を書いている間と応援のときだけは必ず「ひとり」で居ること。繋がりに対する通知をすべて閉じ、自分の瞼を開けるんだ。

どうか孤独との踊り方を学んで、ひとりは孤独ではないことを再度確認できることを祈っている。

愛をこめて。

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