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本はまだまだ続く2023/12/05

人生とは本である。えっ、出だしからいきなり何言いだしてんだこいつ?とお思いの方も居るだろうが、私はそう思っている。何故ならば、語られた生活はほとんどの場合主観であり、その人が主人公として語られるからだ。その人の性格や表したい姿、どう見られたいかを考えつつ、実際私はこう見ているのだけれどそこの違いはどこだろう?とも思い、共感しつつ聞くことが面白い。この本のページを捲ったら次はどうなるんだろうというワクワクな感じ方が本を読むときと凄く似ている。だから私は人生は本だと考えているのだ。

だが、人生は本だと定義する前は、人の話を聞くという行為が好きではなかった。だって一々共感してたらキリはないしめんどくさくて嫌だった。本の方が残りページが目でわかりやすくって、キャラクターは目標に向かって一環としてるのが多いし、嘘は自己啓発本以外は大抵つかなくて正直だ。だからNOだったと答える。じゃあ、いつから好きになったのという問いにはこう答える。VRCというヴァーチュアルリアリティSNSに入り浸ってからだと。

そもそものVRCを始めた理由がちょいとマイナスというかなんというか、親から軽~く言われた一言「あんたって人にホント興味ないよね」と言う呟きが、脳みそにハンマーで殴られた衝撃を与えた。無意識の言葉ほど傷つくものは無い。その呪文をかけられた際、丁度私が社会人になる前だった。こりゃ備えないとこれからもみくちゃにされて終わるぞ、能力が必要だぞと思って、その時流行っていたバーチャルユーチューバーが実況していたゲームがVRCらしかった。じゃ、会話の練習としてよいのでは?なんてったって自他とも認める人見知りだが、仮面をかぶりゃマシになるだろう!いざ!とこれまた安い考えで、高い機材を買って会話の練習をしよう!となったのだ。最も、人に興味を持ってしまったが故に色々苦労したりもした訳だが、今回は置いておこう。

で、最初のVRCは会話できたか?できる訳がないですわな。いきなり進化の過程を経ていない魚に肺呼吸しろ!というようなもの。私は会話の「か」の字もできずに、ひたすら千と千尋の神隠しのカオナシのようになったり、開始二日目からヴァーチャルセクハラ(私はそう思ったのでセクハラだ)を受けたり散々だった。だが簡単に折れないのが私の心。むしろ不条理を心でかき混ぜて燃料とした。無事会話できるようになったのは、誕生日をVRCで祝われたあの日であった。3か月で何とかなるもんだなあと我ながら思ったものだ。因みにこの時に買った本は以下のようなものだ。

これの物理書籍が面白かった。表紙に「あ~帰りてえ」と書いてあるのだ。私も実際そう思ったし、今でもちと苦手なので「トンズラこきてえなあ」と思う時がある。特に会話のイニシアチブが一人に集中してるとき「めんどくせえよ」って思いながら頷いている。壁と向かって話してくんねえかなあ…とか。そしてそう思う自分に嫌気が差したりもする。今でも。そしてまあ最終的に「喋る側」に私も立ってしまっている結果となったが。喋ると気持ちがいいのだもの仕方ない気持ちが今となっては分かる(だからと言って人に迷惑かけるんじゃないぞ!)。

それからというもの、本でいろいろ学んだり人の喋り方を学んだりして自分を是正していった。本は自己啓発本や実用本から心理学書とエッセイに変わって、関わる人も次第に随分とまあ様変わりしたもんだ。とは言っても、まだまだ友人として付き合ってくれている人とは今でも仲良しだが。いつも感謝しております。南無。

実用本からエッセイに手に取る本が変わる途中、ハタと気付いた。人がわかるとその人の話も興味深くなると。その人の主観はその人から見れば真実であり、人生の主人公なのだとその時気付いた。
「このキャラクターは今こういう感情をしている。何故ならば関係者AとBが〇〇している。その気持ちに揺さぶられているのだ」
と理解していないと、登場人物を一切頭に入れてない状態で国語の本を途中から読んでいる状態と同じだったのだ。それじゃあ興味もへちまもないわけだ。

この「人生=物語」論は心理学で近いのはナラティヴセラピーだろうか(間違ってもネットで調べた知識ではいけない。物理書籍を買おう)。それをちょっぴりかじっていたのと、面白いエッセイ本のおかげで面白い!と思えるようになった。それから、「ヒトの人生=物語=本」と考えるようになったのだ。嬉しいことに「人の話を聞く」という趣味が増えたのだ。ああ素晴らしきかな、ヒトの人生。

これからも私は「本」を読んでいくし、「物語」も「ヒトの人生」も分かろうとするだろう。そこには確かに未知があり、たくさんの主人公が居るのだから。


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