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ランダムに夢想する思考2023/12/09

この記事には差別的な思想やらフィクション、誇大妄想、ホントとうそが入り混じっており、時間的な支離滅裂ワードサラダが無尽蔵に転がっています。読む際はご注意ください。なお、この時代に則した物言いで書かれていますし、書かれた出来事は読んだ後にはなくなっているので安心です。問題ないです。30分後に消えます。知らなければよかったと思う前にこちらへお逃げください。

とまあこれくらい書いておけば大丈夫か。これは誰のための物でもなく私の為の物語。そして脳をMRIで切り取るかの如く思いついた事柄を並べ立てるだけで、読み手は一切無視するものとする。

名乗り口上というものがある。私で言えば「熱いハートにクールなボディ」「ロボで忍者で胡乱な存在」「世界の破壊者」「なにものでもないもの」と挨拶の前に言うけれど、これはまあ私の中では「私はこういうものです」とフランクに仁義を切ることに似ている。「あ、この人よくわからない人なんだな」って思ってくれればこれ幸い。何故なら私という謎を渡し、考えてもらうためである。まあこんなことしなくっても考える人は考えるとは思ってるんだけどね、分かってる分かってる。でも考えない人の方が多いんじゃないかってことで名乗り口上をやらせてもらってるわけだ。一人の脳みそに刻み付けるためにそれをする。可笑しくも私の「私という人間がいることを覚えてもらいたい」という願望に忠実な、いたって本能的な行為と言えるだろう。自己主張強すぎかもしれないがそれはそれでいいのだ。だって雑踏の中の人としては思ってほしくはないじゃんね。

何を隠そう私はフラジャイルである。壊れ物である。そもそも製造元が壊れているので出たものも同じく欠陥品だ。とは言いつつも人はだれしも欠陥をもって血管をもって生きているんだから、それでいいじゃないかと思っている。それを補いつつ生き延びてきたのが人間だろうと思うし、それで足を引っ張りあったのも人間だから面白おかしい喜劇を見ているようで面白い。もちろん私も演者である。面白おかしい素振りでほかの観客席の人々を笑わせていくのである。たまーに気に入らない観客や、気に入った観客を強引に舞台に立たせることもあるが。これまた一瞬にして演技に入る人間と、慌てふためき硬直する人間、そのどちらでもなく平然と観客席の戻る人間といろいろなものが見れるのでこれまた面白い。場のしらけも盛り上がりも何だかんだ愉しいのである。振れ幅こそ舞台だ。

さて、CDでもかけよう。ケルト風の音楽を聴こう。作者はホントに知らない。マジでわからない。ただ街で演奏していたのでグッと心が引かれて足を止めてしまったのだ。所謂この「出会い」を逃す私ではない。心底陶酔したように演奏する様はさながら、街の一部を山々に変えるような雰囲気を醸し出していたのだ。無機質であった街に息吹がこもり、生命があふれる。そんなこんな衝動に掻き立てられたので思わず買ってしまったのだ。少なくとも私の耳と感性は正しい。足を止めない音楽はただの音であり、足を止めた音楽は私の好きな曲リストにある感性にヒットしたのだ。ランキングチャートとかそういうんじゃなくって心にヒットしたのだ。私の心は正当な評価を下したと思いたい。

そういえば町に音楽が流れなくなって久しい気もする。昔はどこへ行っても何かしらが流れていたのに、今は広告やら喧伝やら「合宿免許WAO!」とかが多い。何がWAOだ、こっちがびっくりしちゃうよもう。こういうのは私は好きじゃアないのでイヤホンで耳をふさぐことにしている。あ、もちろんなんか買うときは店員さんの声が聞こえるように外す。でも偶に外し忘れる。そん時は申し訳ないなーと思う。

働いている人には感謝を示すようにしている。「おつかれさまです」や「いつもありがとうございます」は誰かの為じゃあなく私の為にやっている。まあ自己満足なのだけれど、これを無くせば私は私ではなくなる気がしてやっている。それだけである。

私は偽善者という言葉を心底軽蔑する。大体これを発している人間は何もしていないからである。やっている人間が自嘲するのならまだしも、やらない人間はそのままはいつくばって地面の砂でも舐めてろと言いたい。何事も行動を起こした人間が偉く、なーんもしてないしそれを眺めて「うわ、こいつ何にもならないのになんかしてる!こいつあほ!」と安全なガラス越して批判するのはただのカスである。何も経験していないのに知識だけを固めた張りぼてに見える。やらないバカよりやるバカをわたしは選ぶ。そしてその人を心底尊敬し、見て学び、体感して人生の一部にするだろう。

私は人を観る。自分が犠牲にならないために。自分が犠牲になる人とはどういう人か?そうだな、自分の話ばっかりして他者に興味を持たぬ、自分の寂しい欲を満たすためだけに人に近づく愚か者や自分の権威や強さをホラ吹き、自分を安心させるためだけに関係を作る面倒な人間がそれに値するだろう。私は聞く。話したいのに話せない、こんなこと言ったら神経疑われるかもしれない、私は私であなたはどうかと心を通わせて生きたいと思っている人の話を聞く。

だいたい最初の語り口調からわかる。その声は震えているか、やけに小さいか、あるいはしどろもどろなのか。そして最初のジャブを打つかどうか。これで「人と心を通わせたい」かどうかがわかる。天気の話をするのも、もちろん「心を通わせたい」ためのアイスブレイク。だから何から話しても問題ないのである。「聞いていて私の話が面白いのかな?」大丈夫だ。相手が聞き上手なら何の話でも面白く話せるし、面白く聞ける。

じゃあ逆に犠牲を作る人はというと、妙に声が大きかったり、早口だったり、相手の話を遮ったり、長々と聞き手の話を奪ったり…特徴がありすぎてちょっと書ききれない。(しかも書いてて自分も当てはまる事項が出てきたので書きたくなくなった。うう、自重しよう。)とまあこんな具合で判断している。

くれぐれも話し上手は「心を通わせる」のが好きであるという事はお忘れなきよう。「私はこう感じたよ」と言って良いのだ。そして喋りたがりはほおって置いても壁と話すので適当に相手の話から連想して他者に渡すといい。そうすれば周りも「ホッ、ちゃんと心を通わせる機会があるんだな」と安心してくれる。

じゃあずっと話す人間は放っておいていいのか?良いのだ。その人らは話すことで脳の快楽物質を出しつつ自分が何の話しているかも分からない人間なので、そういう人同士を話し合わせるといい。両方会話しているように見えて一方的に話しているから見ていて面白いぞ。それと、めちゃくちゃ話す人間は「話し上手」に見えるが、実は「聞き上手」が話を纏めているのであってめちゃくちゃ話す人間は、ただの「めちゃくちゃ話す人間」なので「聞き上手」に話を振った方が賢明だろう。だって時間の浪費になるし。ああ、でもその壊れたラジオに興味があるんだったら積極的に聞くといい。聞きもしない話をいっぱいしてくれるだろうから。まったく、ラジオかなんかしてればいいのね…困ったものだよホント。

あと必要以上に「レッテルを張る」人間にも気を付けるように。そいつは人を操ろうと必死になっているから。しきりに〇〇さんって優しいよね~とかレッテル張ったり、俺たち親友だよな?とか言って関係の再確認をわざわざ言うのは中々恐ろしい人間なのでちょっとずつ避けるように。あ、でも「水くせえじゃん!友達だろうがよ!」ってのは含まれないので注意な。俺はこう思っているとお前はこうだは違うので、間違えないよう気を付けよう。面倒モノに備えよう。自分自身が楽しくおしゃべりするためにね。

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