「落ちがつかない話」雑記

皆さんは自分の会話や文章にオチを付ける事が出来ますか?私は苦手です。

よく使う逃げ道は、会話なら、○○ってことがあったんだよね。とか、○○っていうハナシよ。とかを使うんですが、文章になるとそうは行かない。総括、何を伝えたいかをきっちり書く必要があることはご明白。それでも結局、頭でっかち尻つぼみ、オチがつかなくててんやわんや。終いには諦めで適当に締める事もなかなか多いこととなります。

さて、この文章も行き当たりばったりで書いてはおりますが、皆様如何お過ごしでしょうか。夕飯の最中、電車内で目的地へ着くのを待つ暇つぶし、様々な場面でこの文章を、ハテ、何じゃろなと見てもらっていると思いますが、ゴールは未だに未設定となっています。あるのは、オチをつけるという目的のみ。なんてったって、思いつきで書いているんですから、そうなることは当たり前。とりあえずオチをつけることを到着点にして、薄ぼんやりとしたゴールへふらふらぷらぷら行っている訳です。

言うなれば、出発と終点だけある駅、子供の時の手慰みに触ったプラレールのような感じでしょうか。あのどこにでも行けるが、そこに着くまでの道がどうしても決められない。あのもどかしさ、苦々しさに似ている気がします。

然しながら、あの頃は、えいやっとプラのレールの型をはめてしまえば、あるいは車両が脱線してもケラケラと笑える終点へ行く道が割とすぐに決まります。ところが、おとなになってしまった影響か、選べるレールが多すぎて、型にはめるピースが合わない場合が多くなってまいりました。脱線しようにも、そうしてはいけない、こうすべきだ。に囚われてしまう。常識の出来上がり加減、それが、落ちがつかないという所以ではないでしょうか。

創作は破壊と、創造とよく言われています。この地球もそうやって産まれているので、文章を書くのも、その出来上がってしまった常識を一旦、破壊し作り直すことが必要でしょう。ですが、数十年培ってきた惑星である常識はなかなか一つ二つの隕石ではビクともしません。そもそも、落ちたことにも気付かない。

では、どうしたら良いのか…これに関しては、むしろ変化は日々あるものだということを常としておくことが大事だと思います。つまり、何気なく過ごしている日常も、必ずオチがあるものと考え、オチを求めることが日常とする。オチがつかないと落ち着かないようにすることが大事だと思うのです。

それでは、また、乗り切って行きましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?