脳が凝り固まった時のアウトプット1(名づけに関して)

 名づけるという事の特別性を私は大事にしている。何故かというと、名づけにはその人の人生が現れると考えているからである。名づけといっても自分の名前だけではなく、感情を表現するために付ける名前(オノマトペや比喩表現)もとてもその人を表すものも同様だと思う。特に何度も何度も繰り返す単語に関してはその人が大切にしていること、あるいはずっと心の中で引っかかっているところが表現されていると私は考えている。そのことから思うと、名前というものは大抵の場合自分の好きな言葉、あるいは、関わりのある言葉を自分のものにしているわけで、それを他人に呼ばれることで承認されているような感覚が得られるため、とてもうれしい行為になっているのではないか?と思う。もちろん間違えられるとちょっと傷つくのも同様の理由がそれを引き起こすのだろう。

 自分でつける名前についての私の中での思いだが、少しスピリチュアル的な事になってしまうかもしれない事を最初に謝っておく。ネットのハンドルネームなど自分で自分を名づける、という行為は、親から与えられたものへの逸脱、つまり自立にも関与しているのではないかと思う。自分の意志でなずけることで、自我の目覚めというか、ようやく自分自身を手にする様な、自分で自分をようやく定義したような、確固たる自分の名前を持って私は私だと言えるものを手にしたと言えるのではないだろうか。逆に名前をころころと変えてしまう場合、自分が何者かをまだ決め切れていないのではないかとも考えている。所謂、自分がだれかわかっていないか偽っているような、そんな感じ方を覚える。なんだか信用できないな、と。

 また、感情に関する名づけは、自分の言葉で自分の心を写しているようでとてもその人らしさを感じる。もちろん良く定型文などを使って楽しむことも私はあり、簡単な切り返しに心地よさを覚えるとともに、わたしは私として喋れてないなあと感じる事もある。定型文が一切ない、自分の事を聞かれて喋るとき、もちろん相手方がそういう話題で考えて感情を定義するとき、必死にああでもないこうでもないと自分の感情に定義づけるときのあの名づけの時間、ひと時の沈黙が私は好きだ。ひと時の喧騒より、ざわざわと感情が駆け巡り、人を人として感じる事ができる。

 今の考えでは名づけに関して思うことはこんな感じだ。いずれ変わる考えかもしれないが、今はこの方針でコミュニケーションを面と向かって楽しんでゆこう。

 ほとんど突拍子もなく、論理的には書けていないほぼワードサラダにドレッシングをかけたものは以上だ。またアウトプットしたい時に文を散らかさせてもらおう。

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