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【コロナで生きがいを見つけた】

 「外国人だからわからないんだよ」。去年の2019年3月末、インドネシア人の友人に笑いながらそう言われた。当時、僕はジャカルタでマンションを借りていて、彼とよくビールを飲みながら人生の話をしていた。僕は2015年の夏にニューヨークを出て、東南アジアに住むことを決めた。その間にさまざまな国を訪れ、毎月何回かは飛行機に乗っているという落ち着かない人生だった。マンションを幾つかの国で借り、世界を冒険しながら渡り歩き、素晴らしいチャンスと自分の生きがいを見つけようとしていた。ニューヨークを出てから4年ほど。これからの人生をどう歩んでいくべきか、相変わらず思い悩んでいた。

 それから数カ月の間に起こる出来事を、そのときはもちろん頭の片隅にも想像していなかった……。

 僕の名前は高橋ダン。東京で生まれ、10歳まで大部分は日本、それ以降はほぼアメリカで育った。父親がアメリカ人、母親が日本人。日本語と英語で家族と毎日しゃべりながら、2つの文化のもとで大きくなった。性格は小さい頃からいたずら好き、エネルギーいっぱいの冒険者だった。時々、極端なアイデアを口にする癖もあり、競争するのが好きで負けず嫌い。頑固な面がある。幼稚園と小学校では4回も転校した。引っ越しが多かったから、新しい友達を作るのは得意だった。高校時代、父親にお金持ちになるためのアドバイスを求めたことをきっかけに、ウォール街に行って金融のプロを目指すことにした。ところが大手投資銀行に勤めていた最初の年にリーマンショックの嵐を真っ只中で経験。そして早々に、会社や政府に頼らず、自分でお金を稼ぐために投資家になると心に決めた。数年後、ヘッジファンドを立ち上げ、さらに数年後、保有していたそのファンドの株式を売却。自分の人生を計画するのが好きなタイプで、30歳でニューヨークを出て東南アジアに行くという予定通り、順調に進んでいた。東南アジアの経済成長率はとても高く、素晴らしい投資の機会を必ず見つけられると自信を持っていた。

 この数年間で40カ国以上、生まれてから60カ国以上を巡る経験を積むことができた。どの国でも土地の食べ物を積極的に試し、有名な観光地や歴史博物館を訪ねた。話好きな性格だから、いろいろな国の人々と会話をして、僕が変な質問をすると「外人だからわからないんだよ」とよく言われた。そしていつも名前・育った場所・仕事内容を真っ先に質問された。「育ちは日本とアメリカ、仕事は投資」と答えると、ほとんどの人がアメリカと日本について、イメージ良くコメントしてくれた。アメリカについてよく言われたのは「アメリカはすごい!」「ニューヨークに行ってみたい」「トランプの影響で経済は上がると思うか」「アメリカのテックカンパニーでおすすめの投資先はどこ?」など。一方、日本については「人が親切だね」「食べ物も素晴らしい」「人口が減ってるって本当?」「土地の価格は上がらないという噂は本当か?」など。そうやって同じようなコメントを何度も聞いていると、気づくことがあった。「アメリカに比べて、日本の将来について心配している人が世界中にいるようだ……」

 こうして何度も同じような会話を繰り返すうちに、新しいアイデアが徐々に頭に浮かんできた。父親に勧められ12歳で投資を始めてから、僕は自分のお金を増やすためだけに生きてきた。それでもまだ生きがいが足りないと思うということは、もしかすると完璧に違うアイデアが必要なのかもしれない。

幼い頃からどこの国へ行っても「外国人」だった。僕の帰るべき場所はいったいどこなのか、その場所こそ本当の“ホーム”なのでは? もしかすると自分以外のために何かをしてみたら、僕の使命を見つけられるかもしれない。アメリカで過ごした経験はとても素晴らしく、そこには愛する家族と友達が大勢いる。でも本当に心の中はアメリカ人なのか? 幼少期に住んでいた日本には、海外に住むようになって以降も、機会を見つけてよく訪れていた。成田空港か羽田空港か、毎回着陸のたびに機内で「ようこそ日本へ」のアナウンスメントを聞くたびに、鳥肌が少し立つのを感じていた。もしかして僕が帰るべき場所は日本? 今までずっと人生に何か物足りなさを感じていたけれど、もしかしたらその答えが日本にある? やってみなければ、わかるわけがない。時間を投資して、まずは日本に少し住んでみよう。2019年3月末、インドネシア人の友人と話しながらそう決心した。頑固な性格で、一度こうすると決めると、自分の言葉を曲げるのは嫌いなタイプでもあるのだ。

 ところが翌4月、人生で最もショッキングな出来事が起こった。僕の人生で最も大切な人がいなくなってしまったのだ。体、マインドに、まるで世界が終わってしまうような苦しみを感じた。人生を計算し、勝つことが得意だと思っていた僕に、なぜこんなことが起きたのだろう? ボストン、ニューヨーク、ウォール街、ヘッジファンド、シンガポール、ベトナム、インドネシア、そのほかの国々……それぞれの場所で、いつもビジネスの競争には勝ってきた。なのに、なぜこれに勝つことができないのか? 思い出がふいによみがえり、息ができないと思うときさえあった。泣いても泣いても、心の痛みが止まらなかった。正直にいうと、今、この件を思い出して、この文章を書いていても、その悲しみは完全に消えていない。自分を無敵と信じていて、どの国でも、どの対戦にも勝てるはずなのに、これだけには勝てないという現実——それを受け入れることができなかった。自分の悲しみと弱さを知り、男としての自信までが失われていくようだった。

 その時が人生で最も迷っていた気がする。しかし、日本に戻るのはこの事件の前から決めていたこと。自分の言葉を曲げるのが嫌で、「運命は生まれ育った場所にあるはず」と希望を持ち続けた。そして2019年の秋、東京へ来た。このまま残るのか、まだ決めていなかったから、ホテルやマンスリーマンションをしばらく借りることにした。日本に戻ると、心が本当に落ち着き始めた。子どもの頃、住んでいたときの記憶が、毎日のように鮮明に思い出された。日本の友達、食べ物、音楽、言葉……その全てが恋しかったんだ、と僕は気づいた。もっと自分の国のことを学びたくて、ソーシャル・メディア(SNS)も使い始めた。日本に来る前はほんの少しだけ、友達と家族にだけSNSを使っていたけど、ほとんど経験はなかった。2020年の目標の一つとして、SNSで日本人と社会と繋がりを広めることにした。もしかすると人生でやっと自分の戻るべき場所を見つけたのかも、そう少し思い始めていた。

 そんな折に、コロナウイルスが世界中で猛威を振るい始めた。最初、僕はウイルスの客観的な情報を調べ、経済や株式市場に与える影響について考えることに集中していた。しかし、計算に入れていなかったのは、自分の日常生活への影響と感情だった。2020年の2月ぐらいから東京の友達たちもウイルスを心配して、あまり外出をしなくなった。4月と5月は緊急事態宣言が発令され、日本全国、東京で僕も自粛生活を始めた。4月と5月に住んだマンスリーマンションは、運悪く内見する前に借りることを確定してしまい、部屋は使い古した建物の中にあって狭苦しかった。トイレとシャワーが一体となったユニットバスだったから、バスタブに入りにくく、頭をよく天井にぶつけた。ベッドサイズも小さくて、寝ている間に落ちそうになることがあった。マンションを予約したのが1月。まさかここで自粛生活を送ることになるとは全然想像していなかった。家族も海外に住んでいて、誰とも会うこともできなかった。

 しかし、一人の時間が増えて一番苦しかったのは、なくした人のことが再び頭をよぎるようになったこと。思い出したくなくて、日本のコロナウイルスの状況分析とSNSに集中した。

 すると日本について、いろいろな発見が始まった。日本は本当に特殊な国だ。「本音と建前」の壁がほかの国と比べてとても厚く、他人と深い絆を築くには時間がかかる。特に僕みたいなストレートな性格だと人の感情を読むのが苦手で、他人の「本音」を知りたくても見つけるのが難しい状況を何度か経験した。また、コロナウイルスに関しても、日本のおかしなところに気づいた。日本はアメリカや欧州よりも早く、2020年1月頃からコロナウイルスの影響を受けていたのに、給付金への対応や経済政策が、ほかの先進国より遅れている場合が多かった。金融政策を調べてみると、アメリカと欧州の中央銀行が新たな金融政策を発表すると、日銀も後から似たような政策を時々発表していた。中でも一番驚いたのが教育システム。世界の先進国だけでなく、途上国のほとんどがコロナウイルスの影響でオンライン授業に切り替えた一方、日本は公立学校の約5%のみオンライン授業を行っていた。経済ランキングで日本の1人当たり国内総生産(GDP)は30年前は世界で2位だったが、今は20位以下。実質賃金の成長率は約25年間0%近くが続いている。また人口減少率は先進国で一番高く、株式指数や土地の平均価格が1990年のピークまで回復していないのは先進国では日本だけ。政府による国債の借金は国のGDP割合と比べると世界195カ国で一番高い。

 「僕の国はいったいどうなっているの?」。段々とイライラする気持ちが湧いてきた。

 そこで、自分の計画にも少し疑問を持ち始めた。日本に戻るという決断は、本当に正解だったのか。インドネシアやベトナムの友達と電話で話すと、彼らも自粛をしていたけど、メイドと清掃人をよく雇う社会なので、それほど困っている状況には見えなかった。「コロナが収束したら、ダンもこっちに戻ってきて住めばいいじゃん。みんな待っているよ」といったコメントを他国の友達から聞き始めた。確かに僕の家族や友人は、アメリカに一番多く住んでいる。インドネシア、ベトナムにも友達は多いし、経済成長率が高いのでビジネスチャンスは山ほどある。途上国での生活は前に経験してみて、その素晴らしさを認識していた。物価は安い、食べ物もおいしいい、天気は最高。払う賃金が安いので、メイド、清掃人、ドライバーを雇って王様のような暮らしができる。なぜ自分の生活水準と幸せを犠牲する必要があるのか? 決断を疑い始めた。

 この時に、僕は自分のユーチューブ動画の視聴者コメントをよく読み始めた。じっくり読むと、素晴らしい発見があった。何万もの人が僕に「ありがとう」というメッセージを毎週書いてくれていたのだ。投資についての僕のお勧めでお金を稼いだ人もいたようだが、ほとんどが金銭的な恩恵など何も受けていない人だ。ただ僕の分析と意見を聞いて、ありがたく思ってくれる人々が大勢いるようだった。少し信じがたいことだったので、僕は海外のユーチューバーの友達に意見を聞いてみた。驚いたことに、これほど「ありがとう」というメッセージをもらっていたのは、その中では僕だけみたいだった。メッセージだけでなく、メールを送ってくれる人もかなりいた。僕のアドバイスによって、彼らの人生が変化したというコメントがたくさん寄せられていた。コロナウイルスがもたらす株式市場の危険な状況を避ける方法、金融の教育、日本のメディアで報道されていない国際ニュース、日本の未来を強くするアイデア……毎日の僕の意見が、それぞれに影響を与えているようだと考え始めた。会ったこともない人を助けるのは、人生で初めての経験。それは、みんなの温かい気持ちがブランケットのように、僕のカチカチこわばった心を包んでくれたような感覚。本当に感動した。

 これではっきりした。34年生きてきて、世界を回っていろいろな人々と出会い、成功もして、失敗も山ほどして、幸せな気持ちになって、絶望に打ちひしがれ、かけがえのない友達を作り、大切な人もなくしてきた。肩書では成功しているように見えるけど、心の中はいつも不安で、人生に満足していないことを知っていた。

 日本で、自分の生きがいをやっと見つけた。僕のミドルネームは「圭」。土や国をつなげる意味があり、母が付けてくれた名前。僕の使命と生きがいは世界で習ったことを使って、日本に貢献すること。今までは人生のゴールはお金を増やす、競争で勝つ。自分のプライドのためだけに動いていた。しかし、そのエネルギーをこの国のために集中して使ったら、大勢の人生をよりよく変えることができるかもしれない。頑固で負けず嫌いは子どもの頃から変わらず、そのがむしゃらな性格で、日本のために何かできるかもしれない。僕には日本人の血が流れているし、未来に産まれてくる子どもも同じ。日本のためになることは、自分の家族だけでなく、先祖、現在生きている人たち、子孫、みんなに影響がある。僕が死んだ後、日本はどんな歴史を歩んでいくのだろう。ほかの人だけに任せるのは納得できない。

 やってみなければ、わからない。今までは、人生をいろいろと細かく計算してきたけど、今回のゴールは計算できない。まだ道は明確ではないけど、気持ちは今までで一番強い。日本のために戦う。日本のために頑張る。成功するか失敗するかわからないけど、これだけは言える。僕は100%努力する。あとは運命に任せるだけだ。 

高橋ダン

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