なかそね
無意識のバイアス:第三回読書会
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無意識のバイアス:第三回読書会

なかそね

読書会自体は6/13(月)にあったのですが、文字起こしをずっとサボってたので、慌ててアップします。

マジョリティの特権

偏見をもたれてマイノリティが生きるのはつらい、という話はずっとありましたが、マジョリティ側は自分が特権を持っていることに気づきづらいよね、という指摘がありました。

たとえば小学校のPTAで40歳のおじさんが意見を出すのと、若い20代のお父さんが意見を出すのとでは、なんとなく40歳の意見の方が経験の重みなどを感じて優先されたりします。40歳おじさんとしては、自分の意見が正しいから採用されたと感じがちですが、実際は内容で判断したのではなく、年齢によりバイアスでなんとなく40歳の方がよさそう、と思っただけだったりします。20代のお父さんは、もっと提案の中身を見てほしいと感じても、40歳のおじさんは気づかない。これがマジョリティの特権の一例です。

どうしたらこういう偏見をなくすことができるだろうか、と考えたのですが、なかなか線引きは難しい問題です。目が見えない人からしたら信号機で交通整理するのは差別だと感じるかもしれませんが、身近にそういう人がいない限り意識することはありません。

多様性とどう付き合うか

多様性というのは、「差があるけど、それはどうでもいいことだよね」と言えることじゃないか、という意見が出ました。みんな違って、みんなどうでもいい。

みんな違ってみんないい、と言っちゃいけない。「いい」というのは評価が入っちゃう。私は泥棒です、犯罪者です、というのも「みんないい」と内包しなきゃいけなくなっちゃう。全部「いい」というのは、「全部よくあれ」という押しつけが見え隠れしちゃう。だから大事なのは「どうでもいい」ということ。

「同性愛はいいんだ」というと、「同性愛は絶対許せない」というタイプの多様性は排除せざるを得なくなります。そうじゃなくて「同性愛だってなんだって、どうでもいい」「あなたはあなたの好きにすればいい」と思えるかどうか。そのスタンスを取れるかどうかが、バイアスに飲み込まれるかどうかの分水嶺になるのではないかと思います。

変えられない偏見まみれの社会

自分は「どうでもいい」と思えたとしても、目の前では偏見にまみれた差別の応酬が繰り広げられていたりします。私たちはそんな社会のなかでどう生きていけばいいのでしょうか。そんな話のなかで以下のようなエピソードが出てきました。

ヨーロッパに住む、日本人と外国人の間に生まれた子供たちがコロナでなかなか日本に行けないから、せめて日本人で集まって親子キャンプをしよう、という企画があったそうです。そうすると、集まったのは日本に対して前向きな家族ばかり。日本人母は行きたくても、日本の集いを嫌がるお父さんがいる家庭の子供たちはキャンプに来れませんでした。まぁ、当然といえば当然ですが、そういう家庭の子供たちこそ、たまには日本コミュニティに触れてほしい、本当にキャンプを届けたい相手だったりします。

ただやりたい人が集まるのと、必要な人に届けるのとでは、その大変さが全然違います。じゃあ、今のように仲良し親子だけで集まるキャンプはだめなのか、やらない方がいいかというと、それも違うだろうと。キャンプを自粛することで誰が幸せになるわけでもないですし、本当は来てほしいけれど来れなかった人がいるという気持ちを持ちながらも続けていくしかない、という覚悟のようなものがありました。

国際平和村のようなところでも、戦争孤児を守りたいと思いつつも全員を助けられなくて、場合によっては助ける子を選ばなきゃいけないシーンすらあります。選ばれた子は幸せな暮らしができるけれど、選ばれなかった子は死ぬかもしれない。常にそういうジレンマを抱えつつも、では活動を辞めて何もしない方がいいかというとそんなこともなく、可能な限り目の前の子を救うしかない、と葛藤しているそうです。

解決の手立て

本書を通して、偏見と差別の問題は根深すぎて、解決策もなくて、ただひたすらもやもやする感じが残りました。この現状に対して、いったい私たちはどんな手立てを打つことができるのでしょうか。

ここで、アメリカとフランスの思考様式の違い、という話になりました。アメリカは解決のためのアクションをとる。必ず原因と結果がつながっているから、結果を変えるために原因に対策を打つ、という考え方です。一方フランスは理想を追求するため、因果関係がまっすぐじゃないところを模索し続けるそうです。最終的なあるべき姿を心に留めて、そのためには遠回りでも回り道でも、いろんな可能性に頭のCPUを割き続ける感じだそうです。

だから、ジレンマを抱えて葛藤しながらも活動を続ける、という選択ができるんですね。これはアメリカ的にはなかなか受け入れられない考え方かもしれません。でも逆に、アメリカは「アファーマティブアクション」みたいな改善施策を打ち立てて、結果としてその弊害がいっぱい出てくる、逆差別が生まれる、みたいな現状に陥っています。この対策をやればOK、と思ってしまうのが一番危険で、結局は頭のCPUを割き続けるしかないんじゃないか、という話になりました。

つまり、もやもやと救いがない現状を受け入れていくしかないんですね。ただ、大事なのはきちんと向き合うこと。

差別から目をそらさない

本書でもブラインド戦略がよくない、という話が紹介されていました。ブラインド戦略というのは、差別をなくすために、そもそも差別のことを考えなければいいなじゃないか、というアイデアです。肌の色について言及しなければ差別は起こらない、と。

しかし、実際には無意識のうちに肌の色で差別をしているわけで、それを言及しないようにすることで、結果的にマジョリティの特権をただ無意識に助長することにつながっているようです。

でも難しいですよね。白人の子供が、黒人の赤ちゃんを見つけて「お母さん見て見て、茶色い赤ちゃんだよ!」と叫んだエピソードがありました。自分の子供がそんなこと言い出したら、どう対応すればいいでしょう? ブラインド戦略をとっていると、それは言っちゃいけないことです。でも、別に赤ちゃんが茶色いことは事実で、白人の子供は何も差別せず純粋な感想を述べているだけです。

ここで黒人のお母さんは「そうよ、かわいいでしょ、私の茶色い赤ちゃん」と一緒にお話ししたかったそうですが、白人のお母さんは「うちの子が失礼しました本当にすみません」と謝って去ってしまったそうです。ブラインド戦略によって向き合うことをやめたら、結局差別はなくならず助長されるんだなぁ、という話でした。

もやもや葛藤を抱えたまま、目をそらさず直視し続ける、というのは相当な精神力を要求することです。それができない人がたくさんいることも仕方ないことです。一方、葛藤しながらも頑張って活動している人には、最大限の賛辞を投げかけてあげなきゃいけないな、とも思いました。

本当に救いがない本ですね・・・。

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