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対立の炎にとどまる――自他のあらゆる側面と向き合い、未来を共に変えるエルダーシップ

新しいリーダーシップの本として「エルダーシップ」について読んでいこうと思います。

対立しよう

対立の炎こそ、問題を解決するために生じているエネルギーだと考えました。ミンデルが注目したのは、そのエネルギーとどう向き合い、扱うかという点です。従来のような、炎を消そうとしたりあおったりするアプローチとは異なり、彼が提唱したのは「炎の中に座す」、つまり対立の渦中に自ら飛び込んでとどまることでした。

P1

一人ひとりがパワーへのアウェアネスを促す存在、いわば新しいリーダーシップモデルとして本書で描かれるのが「エルダーシップ」というあり方です。エルダーとは直訳すれば「長老」ですが、本書では対立の炎を避けることも炎に燃え尽くされることもなく、ただ炎の中に座して自分と人々の気づきを探求するあり方のことを指しています。
極度に張り詰めている状況でも、冷静かつ慈愛を持って、あるいはユーモアを持って場にいてくれる人、そしてその人の存在が他の人たちに安心感や希望を与えてくれるような人を想像してみてください。エルダーとは、他者の痛みを知る人のことです。しかし他者の痛みを感じるためには、まずは自らの抱える傷を癒やすことから始めよと説いているのです。

P7

とにかく、強くなれ、そして他者を救い出せ、というリーダーシップモデルですね。なかなか過激な思想です。

対立しないという傲慢

私たちの多くは世界の変化を望んでいるが、そのために自ら努力しようとはしない。なぜなら、「コミュニティや公民権を取り戻そう」「軍事費や警察権力を増やすべきだ/減らすべきだ」「景気を回復して人々の生活を向上させよう」などを訴える、カリスマ的な演説を行う素晴らしいリーダーを夢見ることのほうがたやすいからだ。

P32

今日、紛争解決を目的とするさまざまな分野は、社会問題を学術的には扱うが、激しい怒りを扱おうとはしない。主流派はどこの国でも、抑圧されている階級の怒りを避ける傾向にある。政治学や心理学は、よそ者に同化や統合を迫る。西洋思想は、平和や調和に偏っている。
暗黙的であれ公然とであれ、怒りを禁止する紛争解決の手続きは、結局のところ対立をあおってしまう。その手続き自体が、社会的な争いを避けることができる地域に住める、特権的な人々にとって都合が良いものだからだ。一方で、社会階級の周縁部や最下級に存在する人たちは、社会からは触れたくない存在のように扱われている。彼らこそが平静になるべきだという決めつけによって、彼らの主張はさらに抑圧される。

P59

対立しない方がいいよね、というのは、対立しない方が得をする、社会的に優位な立場からの無言の圧力なのだそうです。たとえば西洋社会における黒人のように、抑圧されている人々は、対立してでも自分の主張を届けたいと思うでしょう。そういう対立の火種は我慢してもらった方が社会は平和で安定だよね、というのは、優位な白人の傲慢な考えなのです。

ただ、この考えを逆にして、弱者は絶対に守られるべきだ、という意見もまた傲慢であると筆者は言います。

私たちは、紛争解決のシステムに見られる主流派寄りの偏向を自覚しなければならない。それらは、政府の方針に偏っていたり、権利を奪われた非主流派の感情的な側面を無視している。
一方、ファシリテーターは少数派の立場だけを一面的に支持すべきでもない。でなければ、今度は主流派がコミュニティ創造のプロセスから疎外されていると感じてしまうのだ。
ファシリテーターの仕事は、ランクやパワーを排除することではなく、それらに注意を向け、それらのダイナミクスを浮かび上がらせてグループ全体が見えるようにすることなのだ。

P59

強者にも弱者にも等しく配慮するファシリテーター、それこそが対立の中に座すエルダーシップなのです。

自分の特権を自覚する

エルダーシップとは、問題を自分自身で体験し、自己の内部にある「犠牲者」と「抑圧者」の両面を知ることによって育まれる。それは抑圧者が持つ弱さを見ることからはじまる。自己の内側で復讐を求める炎を沈静化することは、場にいる全員を安心させる冷却材にもなる。これは生やさしいことではない。意識して対立を洞察に変えることができた人のみが持てる心なのだ。エルダーとは、どちらかの側だけに加担してしまう心を慈愛の心に変容させてきた人なのである。

P83

対立はほとんどの場合、強者と弱者、抑圧者と犠牲者に分かれます。この両方の立場を知ることがとても重要ですが、とりわけ強者が自らの力を自覚するのは難しい、と筆者は言います。

私も以前の読書会でマジョリティの特権は自覚しにくい、といった話をした覚えがありますが、まさにこの内容ですね。

そして、この強者の無自覚をいかに脱却するかが焦点となります。本書ではこの強さのことを「ランク」と呼んでいます。

社会的なパワーを持つ、あるいは持ったことのある主流派の人々は、明らかに強力だ。しかし、彼らは自分よりランクが低いか、以前低かった人々よりも、自分の高いランクに気づきにくいのだ。このランクの見えづらさによって、他者を理解できなくなる。これが、私たちがいつも新聞で目にする行き詰まり──世界に常に遍在する、膠着し、停滞しながらも進行している対立──を引き起こす。

P81

心理的ランクは、他者の苦しみに気づきにくくし、他者は単なる「犠牲者」にすぎないと見下しやすくさせる麻薬である。自分はすっかり問題を乗り越えているので、不利な立場の人々が抱える問題とは無縁なのだ、と思い込んでしまう。
エゴは私たちに分断をもたらす。抑圧されている人々がどんな環境にいるのかを知ろうと全力を尽くす代わりに、自分たちがいる場所に彼らこそが来るべきだと主張するのだ。過去に抑圧されて苦しんだ経験があったとしても、
自分がランクの恩恵を受けていることは忘れてしまう。ヘロインと同じで、気持ち良くなるためにますます多く必要とするようになる。そうした習慣を支えるために、他者や周囲の幸福を盗むようになる。最終的には、他者はそれ以上耐えられなくなり、暴力に訴えるのだ。

P84

これは、何らかのきっかけで弱者から強者に転じることができた人にも起こる、といいます。私は今まで弱者だったからあなたたちの苦しみが分かるんです、今すぐ悪い習慣をやめて、私と同じように良い習慣を始めましょう、といった語りかけをします。これは本当に病みつきになる。他者に救いの手を差し伸べるという強者の行為は麻薬のような快感をもたらします。でも、それは本当に弱者の苦しみに寄り添っているわけではなく、自分のエゴを押し付けて悦に浸っているだけだ、と筆者は言っています。

そのような例が本書では多数紹介されています。面白いですね。

特権を自覚し、弱者に寄り添い、そして強者にも平等に接する、その上で弱者と強者の対立の間に座す、それがエルダーシップなのだそうです。聖人君子ですか? マゾすぎでは。

とりあえず序盤ではこのような説明がされていました。引き続き読んでいこうと思います。

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