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東大の五月祭に行って

人狼の催しがあるということで一人で行ってみた。まず学祭は一人で行くものではないな、とは思う。周りの盛り上がりに孤独が加速する。
でもそんな中で色々考えられたのでそういう意味では行って良かった。

勉強だけが取り柄で、かつ高三の時あまりにも追い詰められていた身としては東大に行けなければ人生は終わりだ、と本気で思っていた。
(思ってはいたが、到底勉強が出来るメンタルではなく、高三の時、家での総勉強時間が2時間くらいなんじゃないか?というくらいの有様。
受かるどころか挑戦権すら無いような状況であった。)

でも、今日一人で東大のキャンパスを歩きながら色々なことが感じ取れた。まず、仮に東大に受かることが出来たとしてもこうして一人でキャンパスを歩いていたんだろうな、ということが容易に想像出来てしまった。
そう、東大に受かるかどうかなんて人生のたいした分岐では無かったのだ。それが自覚出来ただけでも大きい。

結局何をするにもどこに行くにも何故かいつも一人ぼっち、という今のこの人生を形作っているのは過去の分岐ではない、今の立ち振る舞いが決めているものだ。
それならば今の在り方を見つめ直せば人生が変わる可能性が残されているということではないか。

何故そんなことを考えるに至ったか。
色々な屋台ブースで頑張って人を呼び込む東大生達、様々なヘアスタイル、ヘアカラー、歌やダンスなどで自分を魅せようとする東大生達、それぞれが頑張って自分の人生の主人公であろうとしていた。
そう、つまり東大に受かっただけでは主人公では無いのだ。
それに気付いてしまった。あまりにも鮮明に。
当たり前のことで、東大に受かってしまえば、(普段の人生ではそれだけで主人公として近い周りから持て囃されるかもしれないが)周りは東大生ばかり、結局自分は数多くいるうちの一人に過ぎない。
誰かに自分を見てもらうにはそれだけでは何の意味も持たないのだ。

万が一東大に受かっていたとして、当時そんな俯瞰で周りを見ることなど出来ようはずも無かったから、東大に受かっても人生が好転しないということに深い絶望を感じていたかもしれない。


まあでもそれと共に、どんな催しをしている学生を見ても、しかも東大生だしな、とか、でも東大生だしな、とか思える自分もいたからやはりお得だな、とは思う。
でも、結局その程度のことなんだな、と。
成功が成功では無いんだと若いうちに知ってしまっていたらもっと辛かっただろうな。

とにかく、人生の分岐は過去には無かったことがはっきり自覚出来たので、今を、そして未来を頑張って生きるしかない。
今のこの終わりきった人生は変えられる。
それが感じ取れる良い機会だった。

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