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#04 公共施設を「ミクロ」と「マクロ」で捉えてみる

僕は建築家になりたくて大学の建築学科に入学し、その後もかなり期間(まぁ今でもそうなのだがw)完全無欠の建築オタクとして過ごしてきたので、元来、公共施設(建築物)を「ミクロ」で捉えてしまいがちな傾向がある。

えっ「ミクロ」で捉えるって何?という声もたくさん聞こえてきそうなので、最初に公共施設(建築物)を読み解く視点について少し解説しておきたい。

建築の専門/専門外を問わず、公共施設の捉え方にはいくつかの重要な要素があるが、その中でも特にウエイトが大きいのは、
①お金の話
②時間の話
③空間の話

あたりだろうか。

これらの要素を「ミクロ」で捉えるとは、
①お金のことについては、整備にかかるイニシャルコストのこと、
②時間のことについては、設計〜竣工までの間の短い期間のこと、
③空間については、そのデザインやディテールのこと
みたいな感覚である。

つまりは、僕が考える「ミクロ」的視点というのは、ハード整備のことを念頭に置いた思考回路のことである。もちろんこれらの視点は、公共施設を読み解く大切な事項であるし、建築オタクの僕としては、③空間の部分については、かなり病的に「ミクロ」な視点で捉える習癖があるのも事実だ(笑)

今回のテーマは、この「ミクロ」的な視点だけでなく、「マクロ」的な視点を合わせもった複眼的な視点が重要であるということ。
このあたりのことを次のパラグラフ以降で解説していきたいと思うのだが、先に断っておくと、これは経営的な観点から言えば、至極当たり前のことである。
だがなぜか、公共施設という分野においては、「マクロ」的視点が相当に軽んじられているというか、世の中に氾濫している公共施設の多くが、「ミクロ」的視点に偏って建てられていると言わざるを得ない状況なのだ。

えっ、肝心の「中身の話」が抜け落ちてるじゃん、と言いたい方すいません。公共施設の中身は「ミクロ」も「マクロ」もなく、そもそも最初から抜け落ちていることが多いんで・・・(笑)

では、ここからが本題。公共施設を「ミクロ」だけでなく「マクロ」でも捉えていくことについて述べていきたい。

①公共施設のお金の話

これはものすごく簡単な話である。公共施設に限らず建築物というのは、建てる時にかかる費用は全体のごく一部で、建てた後にかかる費用の方が圧倒的に大きい。
建設から取り壊しまでにかかる費用の総額をライフサイクルコストと言うが、そのうちイニシャルコストは一般的に20〜30%程度で、その後の光熱水費や維持管理費の方が圧倒的に大きいのだ。

仮にとあるまちで総工費200億円くらいの超立派な庁舎が建てられたとしよう。イニシャルコストは色んな交付金・起債等で賄えたとして、その後、50年間ほど保有すれば、トータル1000億円程度のコストが必要となるということだ。
1年あたりに換算すると、その額20億円!小さい自治体では即死レベルの予算規模だ。しかも手放したい時に手放せないのが公共施設。下手なものを造ってしまうと、予算繰り地獄の始まりだということをお忘れなく。

ちなみに自治体の財政というのは、経常的な経費になるとチェック機能が働きにくいという性質がある。最初のイニシャルコストのことばかり議論していると後で大変な目にあうということを肝に銘じておこう。

②公共施設の時間の話

こちらも①お金の話と相関するようなことではあるが、建築物というのは建てた瞬間から劣化が始まる。つまり保全をし続けなければ、その機能は維持できないというシンプルな話。ただ、ここにかけられる費用があまりにも貧弱なのが公共施設の特徴でもある。人間と同じで、いつまでも若さを保つことはできないし、長く保つためにはお金も必要なのだ

時間の話で言うと、社会的ニーズという視点も大切な要素である。何しろ、公共施設(建築物)というのは建ててから数十年は存在し続けることが当たり前なので、建てるその時ではなく最低でも10年先、20年先を読み解くことが重要である。
人口動態も変わっていけば、流行り廃りもあるだろう。そいうった意味では、常に見なければならないのは、この先の未来であり、過去の前例に倣って造ってしまうと、竣工直後から取り返しのつかない歴史的遺産なんてことにもなりかねない。
ちなみに中には現在のニーズすら捉えていないものも・・・闇が深まるので今回は辞めておこう(笑)

そんなことからも、公共施設という存在、もう少しライトに造るほうが時代の流れに即していると思うのだが・・・。
公共施設だからといって、必要以上に立派なものを求める慣習、そろそろ終わりにしませんか?

先日訪れた、静岡県牧之原市の「図書交流間いこっと」は旧ホームセンターをリノベした施設で、これからの時代に即しているし、仮設風のしつらえは見方によっては可変性と捉えることもでき、実は「マクロ」的な時間軸を有しているのではないかと感じたところだ。

③公共施設の空間の話というか、敷地とエリアの話

僕は建築物のデザインにはものすごく価値があると今でも思っているので、公共施設の空間性やデザイン性は大事に持っていたい視点の一つである。ただ、そうした「ミクロ」的視点から、近年では「マクロ」的視点の方も大切にしている。

例えば、新しい公共施設の整備計画があったとして、それをまちの資産として捉えるならば、ただの点(敷地)ではなく、エリアへの波及も含めて考えるべきである。
それが、庁舎・スポーツ施設・文化施設・病院・図書館・公園など、まちの人の流れを変えてしまうようなインパクトのある施設整備ならなおさらだ。

僕が尊敬してやまない清水義次さんがよくいう「敷地に価値なし、エリアに価値あり」という考え方は正にそれで、公共施設の整備が周辺の路線価や不動産価値を上げるくらいのことでないと、行政投資の効果がダイレクトにまちの経済に反映されないのだ。

岩手県紫波町の「オガール」や、大阪府大東市の公営住宅建替えプロジェクト「morineki」なども正に公共空間の「ミクロ」的視点と「マクロ」的視点を融合しながら、エリアにも波及していく都市経営の先駆的モデルであると言える。

公共施設というのはとにかくお荷物で、公共施設の存在がそのまちを蝕んでいるというのは、「ミクロ」的視点でのみ整備されてきた結果であろう。
公共施設というのは本来、そのまちの生活を豊かにするために存在すべきであるし、公共施設の存在によって、そのまちの年収を引き上げるような効果をもたらすようなことを本来は目指したいものである。
公共施設をなんでもかんでも低廉な料金で利用してもらうことは、まち全体の収入レベルを引き下げる要因にもなる、ということを頭にいれておいた方が良さそうだ。

まとめ的な話

さてどうだろう、特に自治体で公共施設整備に関わるみなさん、公共施設を短絡的に「ミクロ」的思考で捉えてないだろうか?公共施設というのは、いったん建てられると何十年もそこに居続けて、まちの重要な骨格となるべき存在である。

この公共施設を持続可能で、もっと言えば、まちにとって必要不可欠な存在たらしめて、なおかつ「幸せな建築」とするためには、「ミクロ」の視点だけでなく「マクロ」の視点を併せ持つことが重要であることを理解してもらえただろうか?

僕自身、公共施設を整備するだけの立場から、それを活かし、まちの資産としていく仕事にどんどん比重が寄っていく中、公共施設を単にハードとして見るのではなく、多軸的に捉えることが重要であると感じている。

こういった視点を養うためには、Googleマップなどのツールを使って、ズームインとズームアウトを繰り返し、シームレスに敷地と都市(というより都市圏)を行ったり来たりすることが結構役に立つ。
広域都市圏レベルまでズームアウトし、民間投資や経済圏、地域内にあるコンテンツなどを客観的に捉えていくことで、公共施設を置くポジションもなんとなく見えてくるのではないだろうか。

また、これは必須事項であるが「行政脳」だけで考えないこと。まち全体の活動やマーケットを見ていく必要があるので、いわいる行政都合だけの視点では、飛車角落ちみたいなことが起こってしまう。
ここを養うためには、「学び」や「自己投資」がものすごく大切であると思っているが、そのあたりの話は、また次回以降で。


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