デンマークの1968年-『ザ・コミューン』の背景

 前の投稿で映画『ザ・コミューン』をご紹介しましたが、この映画の背景となる1968年から1970年代のデンマーク社会は、世界的な若者の蜂起、学生運動の波に影響され、1968年はデンマークでもターニングポイントになる年でした。それまでのデンマークは家父長的、権威主義的社会であり、異なる古い価値観が続いていて、現在、彼らが誇りにしているような平等な社会ではありませんでした。
 デンマークは他のヨーロッパ諸国からの影響と共に、国内の経済的な理由もあって、この1968年がターニングポイントとなったと思われます。細かいことはあまり知られていないと思いますが、デンマークはどのように変わっていったのか、ご紹介してみたいと思います。

 まず、1960年代は「繁栄の1960年代」と言われ、1961年の社会民主党の選挙スローガンは「良い時代をもっと良く」であるなど経済的にとても好調な滑り出しだったのですが、一方で、急激な発展に伴い、インフレや賃上げを要求するストライキといった問題が出てきていました。また、好景気により大学に進学する者や都会に出てくる若年層が急増したため、コペンハーゲン周辺では住居不足が慢性的な問題になっていました。まだ、付加価値税やCPRナンバー(個人登録番号)、ECCへの加盟など現在のデンマークの基盤となるようなシステムが導入される前で、60年代のデンマーク政治もまた模索と構築の時代でした。

 デンマークの1968年の社会的変革を主導したのが、主に3つのタイプの人々だったと私は考えています。学生、ヒッピー文化の若者、そして女性達です。

・学生達
デンマークではコペンハーゲン大学心理学科の学生達が行動を起こして、学生運動が始まりました。他国と違うのは、それがとても平和的だったこと。彼らは「教授の権利の破壊を、今すぐ我らに共同決定権を」というビラを配り、デモが終わると夕方には撤収して家路につき、温かい夕食を食べるというようなやり方でした。彼らの要求は教授達にすべての決定権があるという権威主義的な不平等や劣悪な学習環境の変革でした。一時は学生達が心理学科研究室を5日間占拠し、その後5千人の学生達が2週間のデモを繰り広げたりしましたが、当時の学長があっさりと学生達に共感、彼らの要求を承認したため、比較的穏便な学生運動となりました。現在のデンマークは教授と学生が全く対等、大学生はもちほん、小学生ですらフランクにファーストネームで先生を呼ぶような対等な関係が普通なのですが、このときが大きな転換となりました。
 学生協会も学生や組織をまとめ、やや強硬な左派集団とつながり、セミナーを開催し、1968年運動の成功後の目標を探っていました。1963年に、当時の財務大臣の息子オーレ・グリュンバウムが新左派の文化的発展を唱えた新聞を発行をし、こうした運動の先駆的存在となっていたのですが、だんだんとエリート主義を批判し始め、マリファナやLSDなどのドラッグ礼讃と共に、従来の知識階級の読者を遠ざけていきました。そして、編集者としてこうしたドラッグの陶酔の幸福感について興奮気味に寄稿していたのが、エベ・クルーヴェデール・ライクです。彼がその後実験的に始めたのが、一軒の家やアパートメント内で、平等に所有し、共同で生活するという「コレクティブ」という実験的な新しいライフスタイルで、それが『ザ・コミューン』の舞台となっています。映画では1970年代の設定ですから、こうした若者のやり方を見て、アンナも面白そう、やってみたい、と思ったのでしょう。

(次に続きます。)


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