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表現作品=物語とキャラクターは、人生の友になり得る

【結論】

タイトル通り。
キャラクターと彼彼女たちを生み出してくれるクリエイターの皆さん、いつもありがとうございます!!!!!

<説明>

私はよくニコニコ動画などの動画投稿サイトで動画を色々見たり投稿したりしています。動画というのはどのジャンルでも物語性を帯びているので、存在感に大小はあれどそのほとんどにキャラクターが登場するんですよね。
解説を読み上げる可愛いお饅頭、物語の登場人物、歌を歌う歌手……はたまた投稿者そのものが一種のキャラクターとして配信をする文化もあります。

多くの素敵な作品とキャラクターに簡単に出会える現代は、キャラクターと頻繁に触れ合える時代です。
そこから貰えるものには、知識、癒し、笑いなどはもちろん、人生は如何に生きられるべきか?といった自分の軸となる大事なものも含まれ得るのではないでしょうか。

無数の物語を通して表現されてきたキャラクター達の言動には、特定の状況(困難など)に遭った際に人格がとりうる反応のパターンが示されています。
(故人の人生も同様なので、ここでは彼らも表現された人格“キャラクター”として扱います。)

生き方は反応のし方が集まったものです。
キャラクターの「反応のパターン」を観察・共感し、自分と比較していけば、それをお手本として自分に合う生き方の方針が掴めるという訳です。
自分の人生に「この状況、○○ならどうする?」っていう形で落とし込むんですね。

現実の人生において、本当に自分に合った友達や優れた先生に出逢うのは難しいです(そういう人がいる、いた方は幸運です)。
でも、簡単に多くの世界を渡り歩ける物語においては容易なんです。コストパフォーマンス高過ぎです。

そうは言っても現実と物語は違う…?
キャラクターは誇張されてるだけ…?

本当にそうでしょうか

もし私たちとキャラクターが全く別の存在なら、どうして“キャラクター”という単語に、「人間の人格」と「物語の登場人物」両方の意味が与えられているんでしょう?

そもそも、私たちが自分と思っている自我のパターン自体、人生を通して表現されてきたキャラクターとも言えるのではないでしょうか?上記二つの意味で。

そういう意味では、現代のネットでは人は自分をキャラクターとして表現しているとも言えますね。評価やコメントだって立派な表現です。
ニコニコ動画のコメントなんて特にですが、コメントした方が作品の一部=キャラクターになって登場しているようなものだと思いませんか?好きな雰囲気です。

昨今、VR等の「想像に入っていける技術」の進歩がめざましいですが、その先で人間が行うことは結局キャラクターとの触れ合いに他ならないと思います。
寧ろSNSによって人同士の関わりが常態化したように、キャラクターとの生活がスタンダードにさえなっていくかもしれません。AIとかもありますし。

技術の進歩を待たずとも、今だってその気になれば私たちと一緒に居てくれるキャラクター達と触れ合う事は簡単です。
彼らとの触れ合いを通して、自分自身も素敵な“キャラクター”になっていきたいものです。


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