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Arrogから見る中南米の死生観


7月22日に配信された「Arrog」をプレイしてみた。

有料アプリだけれど、配信前に3割引セールしてたのもあって買ってしまった。前情報としてはこんな感じ。

自身の死を受け入れられるように、夢を旅する男性を助けよう。
Arrogは、手描きのアートワークと、アクセントとして色が加えられたモノクロの世界で繰り広げられる、謎に満ちたパズルアドベンチャーゲームだ。

• 伝統的なアニメーション技術によって作り出され、独特の白黒のアートスタイルで緊迫感をもって描かれる奇妙な世界の道理を解明しよう
• 物語の各部を進んでいくユーザーを迎えるのは、手作りのサウンドトラック
• 旅の途中で出会う、シンプルでインタラクティブなロジックパズルを解き明かそう
中南米の伝承に基づく異なる死生観と「死」の解釈を経験できる
• 言語に頼らずに語られる、短く詩的な物語に没頭しよう

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文章量が極端に少ない。ほぼないと言っていい。

プレーヤーは、ほぼ黒白のアニメーションで描かれる世界をパズルを解きながら進行していく。

映像表現も綺麗で、特徴的な世界観をうまく表現できていると思う。

あと没入感に関わるのでヘッドフォンでプレイするのがおすすめ。
(音楽はこの手のゲームにありがちな逆再生の素材が多めで好みが別れるとこだと思う)

パズルの難易度はそこまで高いものでなく、この類のアプリが好きな人であればサクサクとプレイできるんじゃないだろうか。(不可視のバグとかあってちょっと苦労したけども)


「死」の解釈を経験できる


さて、このゲームで一番のウリであろうポイントがここだ。

• 中南米の伝承に基づく異なる死生観と「死」の解釈を経験できる

中南米の死生観とやらにも興味があったのはもちろんなのだけど、もっと気になったのは「死」の解釈を経験できるという部分だった。

正直、「そんなんできんの?」と半信半疑だったのだが、プレイし終わってからの感想は「なるほど」と納得できるものだった。



趣は異なるものの、「死」を仮想的に体験する機会はいくつかある。

ここ数年で話題になっている「死の体験旅行」や、主に葬儀会社が主催している「納棺体験」などが代表的なものだろう。

しかし、それらが焦点をあてているのは主に「自身の死」の仮想体験なのだ。

他者の死の解釈を経験する。そんな媒体は今まであっただろうか。

映画やドラマ、漫画、小説など。様々な作品の中で、登場人物の死生観が語られることはあっても、読者がその死生観を理解し、ましてや、その解釈を経験レベルで共有することは中々ないんじゃなかろうか。

とりわけ、ゲームという媒体で「プレーヤーが他者の死生観の解釈を経験する」ことを目指すだなんて・・・・


プレイ終了後。


私は、中南米の死生観に対する奇妙な親近感と共に、「なるほど」と納得していた。

それは、無言の物語を進行し入り込んでいく中で、特徴的な世界観の中で垣間見える「死」に対する姿勢そのものを感じ取り、自身の中に少しずつ蓄積していく「こういう意味かな?」という解釈によって、まさにプレーヤーが「他者の、他文化の死生観」を「経験」していくことが出来たからだ。

このゲームは、死生観を「理解」するのではなく「経験」することを目的としていると私は思う。

だから、解説もないまま物語を進める中で、理解ができず釈然としないままに終了してしまうこともあるだろう。

1周目の私がまさにそんな感じだった。
あまりに理解できなかったので、2周目のプレイを始めてしまうくらいに。


しかし、その中で気づけたのは「分からなくてもよいのだ」ということだった。

「死」というものと向き合った時、日本とは遠く離れた中南米では、このような「死生観」を持って「死」と向き合っている人たちがいる。

その人たちの解釈を完全に理解し納得するには、どんなに言葉を重ねても、どんな解説を聞いても足りないだろう。

しかし、言葉ではなく、その死生観に基づいて構築された世界をプレーヤーとして進行していくことで、まったくの余所者である私が、その一端を「経験」として感じ取ることが出来たのはとても得難い機会であったと思うのだ。

その意味で、Arrogは中南米の伝承に基づく異なる死生観と「死」の解釈を経験できるゲームとして成功していると思う。


中南米の死生観

最後に、プレイ終了後に私が感じた、中南米の死生観への奇妙な親近感について少し触れておきたい。

この作品のストーリーが、具体的に中南米におけるどこの地域の、あるいは何という部族の死生観を基に制作されたかはわからなかった。

しかし、少なくともマヤやアステカにあるような神話に基づいた世界観や、メキシコの死者の日に代表されるような死生観ではないと思う。

おそらく、中南米の先住民族 アメリカインディアン の伝承にある死生観なのだろう。

調べてみると、プレイ終了後に私が感じた奇妙な親近感をまさに言い得てくれているインタビューを見つけた。


生と死の境がなく、魂が肉体を持っている――と考えるアメリカインディアン。彼らの思想には、古来の日本人が持っていた死生観と共通するものがあるという。死を考えることは、すなわち、どう生きるかを考えることでもある。「アメリカインディアン」シリーズの著書もあり、早稲田大学名誉教授で作家の加藤諦三氏に、現代の日本人が持つべき死生観について尋ねた。


日本にある死生観とアメリカインディアンの死生観。

広大な太平洋をはさみ、まったく異なる文化を持ちながらも共通した特徴がみられると語る加藤氏は、リンク先で次のようにまとめている。

アメリカインディアンの哲学は、仏教の色即是空の考え方にも似ています。形あるものに執着せず、毎日消えてゆくものを大切にするのです。
(中略)
生と死は対立するものではなく、死がなければ生を意識することもない。つまり、死を意識することは、いかに生きるかを考えることでもある。


雨が上がらなければ、陽をみることができず。
陽が出て晴れてなければ、火を炊くことができず。
火を炊くことができなければ、食べ物を焼くことができず。
焼いた食べ物がなければ、食べることができず。

Arrogの中の一場面を言葉であらわせば、こんなとこだろう。

特に気にも留めない、当たり前の様子でさして感じ入るところはない。

しかし、言葉のない世界の中で「経験」をすることで、彼らの語る死生観の一端に触れてみることで、自然の一部としてのヒトということや、私たちを取り巻く様々なつながりに改めて気づくことができた。

そして、その気づきは仏教にあるような「無常」や「縁起」の教えに少なからず通ずるものであるとも思う。

その共通項こそが、プレイ後の私が感じた奇妙な親近感の正体ではないだろうか。



おまけ

死生観とゲームについて調べて、初めて『鬼ノ哭ク邦』という作品を知った。

輪廻転生が明確に存在し信じられている世界で、あの世とこの世を行き来できる主人公がなんやかんやしていくストーリーらしい。

簡単に概略をながめてみても仏教思想からの影響が多分に透けて見えるので、時間の余裕があれば是非プレイしてみたい。




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