物事を多面的にとらえるということ
noteを始めてからというもの「何を書こうか」と過去のスクラップや殴り書きをゴソゴソ漁る日々が続いているのですが、その中に、
「これ、いつかイメージ図と一緒に文章にしたいなぁ」
と、手前勝手に燻らせていたものを発掘したので、ちょっとまとめてみようと思います。
2017.6.30 物事を多面的に見るということ
なにか1つのものごとを「様々な視点」で見て考えようとした時。
私はよく、それぞれの視線が交差するイメージを想像する。
自分の目線、
相手の目線、
第三者の目線、
あるいはそれ以外の誰かの、最初の自分とは違う目線。
そんな風に増やしていくと、1つのものを複数が見つめている三角形や五角形のようなイメージが膨らんでいく。
増やしていけばいくほどに、五角形や十二角形のように視点が交差する。
今までは、こんな風に視点を増やしていくことが多面的なのだと思っていた。
確かにそのまま視点をさらに増やしていけば、いずれは円形に近づいて、様々な視点から対象を見つめることはできるだろう。
でも、それって本当に多面的に対象を見つめているんだろうか。
だって、それぞれの視点は見知った誰かの視点のつもりでしかなくて、
あくまで自分の中に生まれた、自分以外の誰かであればこう考えるだろうという、客観的視点でありたい主観的視点でしかないように思う。
つまり今までのは多面じゃなくて、多角だったように思うのだ。
物事は視点によって様々にカタチを変える。
でも、それを捉えるためにただ自分の中に誰かの視線を間借りさせるのは、結局どこまでいっても平面にしかならず、自分の主観視点から脱却しきれないように思う。
こんな風に思うのは、私の中に自己完結するのが怖いという感情があるからなのかもしれない。
目の前の対象を、自分の主観を基礎としたフレームにおさめこみ、限定して「こんなものだろう」としてしまうのではなく。
さながら球体のように、次元の異なる視点通しを相互に働きかけながら焦点を中心の対象に合わせ続ける作業こそを多面的と呼びたいと思う。
だから、私の中で物事を多面的に見るということは、平面の円で終止せずに、次元の異なる他者の視点を取り入れる。ということに近しい気がする。
多面的に見ることは、自己完結し自身の中で多種の意見を抱え込むのではなく、多角的に見た上で、それでもなお対象に対して興味を止めずに、他者との相互作用を通じて対象と向き合い続けることと言えないだろうか。
目の前の物事と向き合った時、1人だけでは得られない気づきを連続させるための手段が、「多面的に物事を見る」ということにつながるのだと思う。
【追記】
ちなみに文中の3Dモデルはここで作りました。ブラウザで3Dモデリングできる時代すごいなぁ。
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